マイナー・史跡巡り

日曜日

中尊寺金色堂⑥ ~後三年合戦 その4~

①沼柵跡
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前回の話のおさらいです。

家衡(いえひら)が、源義家(みなもとのよしいえ)・清衡(きよひら)連合軍に出羽(秋田県)の沼柵で勝利しました。(写真①)

くやしい義家軍は、第2次家衡征伐軍を組織します。

家衡は、支援に駆けつけた叔父の武衡(たけひら)らと、沼柵だけではなく、更に規模の大きな金沢柵に主力を移し、沼柵の部隊とも協働して、義家軍を追い落とす作戦を立てます。(人物相関図はこちらをクリック

また、義家も応援に駆け付けた弟・義光(よしみつ)や鎌倉景正(かまくらかげまさ)ら武将と詳細に金沢柵の攻略作戦を建てるのです。(地図②)
②義家らの第2次家衡征伐作戦(再掲)
そして、第2次家衡征伐が開始されます。

1.鎌倉景正(かまくらかげまさ)の奮闘

さて、まずは鎌倉景正の奮闘ぶりから見て行きます。
彼は東側(地図②の一番右側)から金沢柵の正面へと先陣切って戦いに行きます。

景正この時、若干16歳。
かなり血気盛ん、勇猛果敢だったようで、義家らが立てた3軍に分かれて家衡の本隊にかかる作戦などは鼻で笑い飛ばし、「俺が正面から家衡やっつければ終わりだろ!」のような勢いでした。
③右目に矢が刺さったまま
連射する鎌倉景正

ただ、家衡軍と対峙する前の戦闘で、彼は右目に敵の矢を受けてしまいます。(絵③)

しかし、矢が刺さってもひるまないのが彼の凄いところ。射られた直後、片目で狙い定め、矢を連射する等、鬼神の活躍を続けます。

そして矢が刺さったまま陣に戻った景正に、三浦為継(ためつぐ)が、相模国の同郷のよしみで刺さった矢を抜いてやろうと申し出ます。

ところが、この矢、かなり深くまで突き刺さっていたため、なかなか抜けません。そこで為継は景正の顔に足を掛けて抜こうとするのですが、景正は急に自分の短刀を抜き、為継の掛けた足に切りかかります。(絵④)

せっかく矢を抜いてあげようとしたのに、切りかかられた為継は怒ります。
すると景正は「戦場で矢に射抜かれて死ぬのは本望であるが、刺さった矢を抜いてもらうのに、顔に足を掛けらる恥辱を耐えねばならないならいっそ死んだほうがまし。」と言い、これには為継も感心し、端座して真剣に矢を抜いたそうです。(個人的には、ならば為継に切りかからず、小刀で自分の腹切ればいいのに・・・と意地悪く思っちゃいます)

④顔に足を掛ける三浦為継に小刀で切りかかる鎌倉景正
この話、後世に伊達政宗の独眼についても同じようなエピソードを聞いたことがありますが、景正の話と混同されているようです。

また、この鎌倉景正、源頼朝の石橋合戦にも出てきます。北条時政と大庭景親の名乗り&毒舌合戦の中です。鎌倉景正は大庭景親の曾祖父にあたるのです。是非、「マイナー・史跡巡り」の「三浦一族② ~石橋山合戦~」の中から探してみてください。(ここをクリック

2.雁行(がんこう)の乱れ

さて、このような勇猛果敢な鎌倉景正の活躍と義光らの迂回し家衡軍の背後を突く戦略は功を奏し、金沢柵の家衡・武衡らは、沼柵の友軍に大部隊を繰り出す余裕はありません。(地図②参照

一方、前回の雪辱を晴らそうとする源義家は、今回は泥沼対策もしっかりと行い、沼柵を陥落させます。

そして、金沢柵へ向かうのです。(地図②の薄茶の矢印

向かう途中、有名な義家のエピソードがあります。

途中経路、この頃は湿地帯、雄物川の支流等も沢山あり、丈の高い葦や蒲が沢山生い茂った場所です。そこを金沢柵へ移動中の義家たちの前を、雁(かり)の群れが上空高く整然と列を成して飛んでいきます。

ところが、義家ら一隊の数百メートル先で、その群れの列が急に乱れます。
これを見ていた義家は、「前面に敵!伏兵が居る!全軍弓を構えよ!」と大声で下知します。

そして、真っ先に駆け、葦原に隠れていた伏兵30人を片っ端から射殺すのです。(絵⑤)
⑤伏兵を発見し射殺す義家軍(後三年合戦絵巻)
この30人の伏兵は、家衡と一緒に戦っていた武衡が、大部隊が繰り出せない沼柵支援のために向かわせた手下の少数精鋭隊でした。沼柵が落ちたと聞き、沼柵支援の計画を変更しこの地で義家が金沢柵へ向かうところを待伏せし、ゲリラ戦で首を挙げてしまおうと企図していたのです。

「つわもの野に伏すとき、雁 列を破る」


という孫子の兵法を学んでいた義家が気づいたこの行動は、「さすが軍神だけのことはある」と後世語り草になっているのです。
ちなみに下の動画は今の話について、この地元秋田県横手市が作成した2分程度の動画です。是非ご照覧ください。

3.金沢柵兵糧攻め

さて、沼柵を落した義家軍は、計画通り3方向から金沢柵を攻撃します。

しかし、流石は清原一族最大の金沢柵、その守りは強固で、なかなか落ちません。これでは、また前回の沼柵の敗戦時同様、冬将軍到来による敗退という憂き目にあってしまいます。

この時、義家陣営として同行している清衡は秘かに作戦を考えてました。

前回のblogで、「城」と「柵」の違いについてご説明した中で、「柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。」と記述しましたように、柵内に蓄えは殆ど無く、後方部隊からの支援物資に頼っていました。

そこで清衡は、義光らに、金沢柵の後方支援部隊を常に襲撃させ、補給路を断ち、兵糧攻めにすれば殆ど蓄えの無いこの柵はすぐ落ちるだろうと考えました。

しかし、清衡はこの兵糧作戦を直接義家に進言しません。金売り吉次の発案のように見せかけ、彼から叔父の秀武に義家に進言させる栄誉を譲るように見せかけるのです。(人物相関図はこちら

秀武から進言を受けた義家は早速、この作戦を実行に移します。日本史史上初めてと言われるこの兵糧攻めは、見事に効を奏し、金沢柵の家衡軍の気力を削いで行きます。
⑥金沢柵を逃げる女・子供を
惨殺する義家(秀武)軍

まだ情緒ある戦をするこの時代、金沢柵に籠る家衡と叔父武衡は、「流石に女・子供は、この食糧不足は可哀想だ。柵から逃がしても、同族の清衡・秀武らが義家に頼み込み、見逃してくれるだろう。」と考え、柵内の女・子供を外に開放します。

これを見ていた義家、秀武に向い言います。

「秀武殿、そちが計画したこの兵糧攻め、見事そちが完遂せい。女・子供が逃げては、その分食い扶持が減り、中途半端なものに終わろうぞ!」

秀武は、同族の誼(よしみ)で、多少の女・子供は見逃したかったのですが、義家は清原一族に恨みを持っていますから、殲滅したいのです。ただ、義家自身が殲滅すれば、後世に義家が悪く言われてしまいます。(結局言われますが・・・。)

また清衡も以前お話しましたように、清原一族は自分以外殲滅したいのです。清衡は、このような事態になることを予見し、叔父秀武に兵糧攻めの作戦を教え、義家に上奏する栄誉を譲ったように見せ、嵌(は)めたのです。

泣く泣く秀武は、柵を出て来た女・子供を殺戮。(絵⑥)

⑦柵上で義家を罵倒する千任(ちとう)
慌てて柵に逃げ帰る女・子供や城兵たちも、秀武を人非人(にんぴにん)として、強く非難します。これで、金沢柵には沢山の非戦闘員である女・子供も外に逃げ出せなくなり、食糧不足は更に深刻化するのです。

4.千任(ちとう)の罵倒

さて、このような食糧不足で金沢柵の中は大飢饉です。馬の肉も食べ、木の根をかじり、頑張りますが限界が来ました。この後500年後に豊臣秀吉が行った鳥取城包囲による兵糧攻めでは人肉を食べたという記録があります。今回の飢饉は、流石にそこまでは至らなかったようですが、日本史初の兵糧攻めということで、「汚い手を使いやがる!」と柵内では大非難の声が義家軍に向けられます。

ここ柵内に、家衡の養育係りだった千任(ちとう)という正義感の強い武将が、武衡の部下としておりました。
食糧不足で気力が萎えていながらも、ふり絞って柵の上に登り、義家に向い大声で叫びます。(絵⑦)
⑧千任の罵倒に怒る陣中の義家
(絵⑦とこの絵の髑髏の位置に注目)

「義家、よく聞け!貴様ら源氏は、先の戦(前九年の役)で、清原の家来になるとまで誓い、加勢を頼み、陸奥の安倍一族を討つことができた。それが今、主君である清原一族を攻めるとは、恩知らずも良いところだ!!この不義不忠、罰が下るは必定!!」

確かに義家の父・頼義(よりよし)は前九年の役の黄海川の戦いで安倍一族に負けた後、当時の当主清原武則(たけのり)に千任の言う通りに頼み込んだのです。元々陸奥の安倍氏と出羽の清原氏は蝦夷(えみし)同族として依存関係があったのですが、これを破り、源氏に味方をしてもらうには、「臣下になりますので」と謙らない限り無理だった訳です。

この罵倒を聞いていた義家の弟・義光は「ふむ、なるほど!一理あるな。」等と妙に納得しています。義光は兄・義家のピンチと聞いてこの戦に役職投げうち駆けつけましたが、どこか清原家衡・武衡らに対する同情があったような振る舞いが見られます。

一方、義家は怒り心頭です。周囲の者にぼやきます。「言わせておけ、ほざけるのも今のうちだ。奴を捕えたものには、何でも好きなものを褒美に取らす。そして奴には死に勝る恥ずかしめを与えよう。」(絵⑧)

このエピソードについても、秋田県横手市が作成した2分半の動画がありますので、是非ご照覧頂ければと存じます。(下)

5.金沢柵陥落前夜

そして、1087年の11月、既に雪が降りだしそうな気候の中、金沢柵の家衡・武衡らは軍議を開きます。

義家軍は、前回の沼柵の敗戦から、今回は雪が降る前に決着を付けたいと考えているため、最後の総攻撃をこの柵に仕掛けて来ようとしています。それに対する家衡・武衡軍は食糧不足で兵も疲弊しきっており、とても太刀打ちできる状況ではありません。
家衡は軍議の中で、武衡を含めた諸将にボソッと伝えます。

⑨金沢柵敗者の晒し首
次回解説します
「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」

長くなりましたので、最終回は次回とさせてください。

6.おわりに

先にお話ししましたように、柵から出て来た女・子供のような非戦闘員まで惨殺するような行為について、秀武にそれを命じた義家は京の中央政府からも非難されることになりました。

しかし義家はその後、その残酷な所業が直るどころか、どんどんエスカレートして行きます。(絵⑨)
『梁塵秘抄』では、「源氏の中でも八幡太郎義家は特に恐ろしい」と評されます。『宇治拾遺物語』や『故事談』では「父親の頼義は晩年、自らの行いを悔い、功徳を積んだので極楽へ行けたが、息子の義家は更に残酷だったにも係わらず、それを悔いることが無かったため、死後地獄に落ちた」との話があります。

最終回は、残念ですがそれら残酷極まりない場面が頻出します。また、この場合清衡はどうなるのでしょうか?やはり地獄行でしょうか?その辺りも引き続き描いて行きたいと思います。

また最後までお読みいただきありがとうございました。
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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野

中尊寺金色堂⑤ ~後三年合戦 その3~

前回、清衡(きよひら)義家(よしいえ)の「たぬきとキツネの化かし合い」の様相を呈してきた後三年合戦の中盤を描きました。人物については、また図①を参照しながら読み進めて頂ければと思います。
①後三年合戦人物相関図(更新)
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます。



清衡が、家衡に初手の攻撃を仕掛けさせ、正当防衛を理由に国守である義家に家衡を攻めて貰う。強い強い義家ですから、家衡は簡単に滅びるだろうという清衡の作戦。

これに気づいた義家は、清衡が義家を利用して家衡を滅ぼすのを傍観させるのではなく、両者とも本気で憎み合い、お互い死力を尽くして戦いあうように仕向けます。

そして、これに成功。この話の続きからです。
②沼柵址

1.沼柵での戦い

家衡が清衡館を襲ったことから、国守の義家が清衡側に付いたことを知ると、家衡は代々清原家の有力な柵の1つ、沼柵(ぬまさく)という城のようなものに立て籠もります。(写真②)

◆ ◇ ◆ ◇
東北地方は、有力な防御拠点を「城」とは言わず「柵」と言うことが多いですね。

ご存知の方は多いと思いますが、城はそもそもその地域の人々が守りの拠点としているのに対して、柵はその地域外から来たよそ者が、その地域の敵に対して自身を守るために柵で陣固めをした土地を指します。

特に東北は、その蝦夷(えみし)の土地によそ者の朝廷軍が陣固めをして行った「柵」があちこちにあったため、城より柵の方が多いのです。多賀城でさえ、国府としての行政機能が入るまでは多賀柵だったようです。

また、城は守りの拠点としているので、兵糧を何年分も蓄えられる等、多くの兵士が籠って情勢が変わるのを守りながら待つという機能に長けていますが、柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。

実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、沼柵ですが、流石清原氏代々の柵だけあって、西側~北側に流れる雄物川とその支流が、この柵周辺を、それこそ「泥沼」化していることで、周辺から大変攻めづらい構造になっていました。(地図③)
③沼柵における両軍対峙図
※拡大はここをクリック

そこに、南側から義家・清衡連合軍が攻めてきます。

平安時代の義家の頃から、源氏はやはり騎馬による戦が得意だったようで、この時も馬を中心に颯爽と沼柵によせる義家軍でした。
ところがこれに対し、泥沼地帯に潜んでいる家衡の伏兵らが、次々と矢を射かけるのです。沼地に足を取られた馬上の武者たちは流矢の餌食になっていきます。

これらの伏兵によるゲリラ戦法でかなりのダメージを受け、義家らは停滞を余儀なくさせられます。

ほんの数日で家衡を制圧しようとした義家らでしたが、秋から開始したこの戦が数か月も掛かりそうな情勢に立たされることとなったのです。

清衡は、義家に諫言します。

「ご自身がかつて前九年の役の『黄海川の戦い』の時に経験された以上に、出羽の冬は積雪が多く、冬の戦いは自軍が消耗するだけです。ここは一度撤退しましょう!」
④沼柵辺りの積雪は多い
上記地図③の東「横手公園」
から沼柵方面を臨む

義家は、「なんの家衡ごときは、あと数日で落として見せる!清衡こそ、もっと力入れて戦え!貴様もしかしたら、家衡が身内だからそんな躊躇したような事言うのではないのか?!」

そう言われると、清衡もそれ以上強くは言えなくなってしまいます。

結局、義家は冬まで沼柵前に留まりましたが、多賀城方面からの補給路は、家衡のゲリラ戦法と2mを超す大雪により、ボロボロに絶たれ、食料は欠乏、病人は続出し、戦闘続行は不可能な状況に陥りました。(写真④)

清衡の諫言通りです。
義家は悔しい思いで、沼柵を見上げながら、全軍に下知します。

「撤退!!」

2.両軍それぞれへの加勢
⑤清原武衡像(横手市)

さて、沼柵で勝利を収めた家衡は清原一族での評価が上がります。

「あの軍神 義家に勝った漢(おとこ)。流石は清原家の嫡男」

そして、叔父である清原武衡(きよはら・たけひら)が、現在の福島県いわき市の所領地から援軍に駆けつけて来るのでした。(写真⑤)

逆に負け戦でがっかりしている義家のところにも、強力な助っ人が現れます。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

あの武田信玄の武田家始祖のこれまた神格化された人物です。このblogでも何度か武田家の家宝「楯無(たてなし)鎧」(写真⑥)を紹介しましたが、この武田家が信長に滅ぼされるまで大事に持っていた鎧は、この義光が着用していたものです。(写真⑥)

彼は、兄・義家が沼柵で家衡に負けたと聞いて、宮仕えの身分であったにも係わらず、長期休暇を朝廷に申請し、兄を支援しに行こうとしました。
ところが、朝廷からはダメ出しされてしまいます。そこでさっさと退職願いを出して、出羽まで来たと言います。

この話は後の源平合戦時に、義経が頼朝の陣中に奥州平泉から駆けつけた話と並べる兄弟愛の美談として良く比較されます。義家は頼朝のように弟を謀殺したりはしませんでしたけど。
⑥義光が着用していた「楯無」
武田家家宝

3.次の戦闘への準備

さて、義家に義光が支援に来たという情報を聞いて、家衡らは義家らの次の攻撃が相当過酷なものになると覚悟します。

そこで彼らは考えます。「既に沼柵にてこずった義家らは、今度来襲してくるときは、必ず沼柵落しの対策をしてくるはず。であれば、次は沼柵に立籠もるよりも、更に規模の大きな金沢柵に立籠もり、沼柵に置く友軍と協働して、義家軍をかく乱する方が良い」と。
図⑦を見て下さい。

金沢柵は沼柵より北東側にあり、ここに居る家衡らの軍を直接義家らの軍が突こうとすれば、当然沼柵に居る家衡軍が、後方から義家らの軍に襲いかかり、挟撃による殲滅作戦を展開されてしまいます。

また、義家らが沼柵を先に攻撃する場合でも、金沢柵から家衡軍が打って出れば、同様に挟撃されるリスクがあります。

よってこのリスクを回避するには義家らは兵を2分して、それぞれの柵に当たらせなければなりません。戦力に分割損が出ます。そうこうするうちにまた冬将軍到来で義家軍は敗退せざるを得ないでしょう。

⑦家衡は金沢柵へ防衛拠点を動かすこ
とにより義家連合軍のかく乱を狙う
しかし、義家側も前回の戦の敗退の要因分析は充分に行い、沼柵の攻略検討もさることながら、ある1つの結論に達しています。
それは単純に兵力数です。

兵力の詳細は未だ不明で諸説ありますが、元々、沼柵に動員した家衡軍が1千、対する義家軍が5千、5倍で攻めても落ちませんでした。家衡征伐第2陣は、義光や鎌倉権五郎景正(かまくらげんんごろうかげまさ:絵⑧)らの支援もあり、2万の軍を出します。家衡側も叔父の武衡軍が多少増えたので2千にはなりますが、それでも10倍の差です。これなら分割損があろうとなかろうと流石に落とせるだろうと考えるのです。

ただ欠点は、この頃はまだ兵農分離が全くされていない時代ですので、これだけの兵力を集めるのは稲の刈り取り農作業が完了する11月頃まで待たなくてはならず、また出羽の冬将軍到来のリスクを甘受しなければならないということです。

4.第2次家衡軍征伐作戦

⑧鎌倉権五郎景正
第2次家衡征伐作戦は、図⑨の通りです。義家・義光兄弟で練り上げた作戦を見て行きましょう。(図⑨)
まず義家軍は、当初2万の軍全軍で沼柵に向けて進軍します。(図中①)
しかし、実態は以下の3軍に分けてあるのです。

第1陣:鎌倉正景軍(先鋒:金沢柵正面突破軍)
第2陣:義家軍(本隊)
第3陣:義光軍(陽動作戦用遊撃軍)

一方、金沢柵の家衡軍は、沼柵の友軍を支援するために金沢柵を出発します。(図中②)

これを第1陣の鎌倉正景軍が先鋒として先回りし、野戦を開始します。(図中③)

そこに陽動作戦で、敵に気づかれないようにぐるっと迂回してきた義光軍が金沢柵の後方から家衡軍に襲いかかり、大混乱を引き起こします。(図中④)

そして、沼柵対策は本隊の義家軍が前回の戦で一番良く分かっていることから、沼柵軍の殲滅を図り、後方の憂いが無くなり次第、金沢柵へ向い、完全勝利を得ます。(図中⑤)
⑨第2次家衡軍掃討作戦概略図
この作戦の結果は次回お話します。

5.おわりに

⑩鎌倉景正の活躍を現す功名塚(金沢柵)
この金沢柵の3軍の中に沼柵での戦い時に、1軍を担った清衡の名前が出て来ません。どうしたのでしょうか?
これも文献等ではっきしたことが書かれておらず諸説ありますが、1説には清衡と義家は前回の沼柵の失敗で反目しあうようになり、第2次家衡征伐作戦時、清衡は義家の軍に従軍しますが、積極的に活用されない立場にさせられたというものです。
私は、実は沼柵の戦い時、清衡があえて冬将軍の到来による撤退の忠告を行い、義家を煽り嫌われ、わざと一線から引いたのではないかとさえ思っています(笑)。

清衡と義家は「たぬきとキツネの化かし合い」、この戦で弟と死力を尽くして戦っては義家の思うつぼ。ほぼ共倒れになり家衡も自分も易々と義家に滅ぼされてしまう。
清衡軍は来るべき義家軍との戦いに備え、体力温存しなければと考え、あえて消極的参戦に止めたのだと思えますが、皆さんどう思われますか?(笑)

最後までお読みいただきありがとうございました。
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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
 

中尊寺金色堂④ ~後三年合戦 その2~

①源義家
前回からはじまりました後三年合戦。長男の清原真衡(さねひら)が叔父秀武(ひでたけ)討伐の留守に、彼の屋敷を襲った清原清衡(きよひら)・家衡(家衡)の前に立ちはだかったのは、レジェンド源義家(よしいえ)。(絵①)

流石に軍神の異名を取るだけあって義家は滅法強いです。
清衡・家衡兄弟、馬1頭に2人で乗り、ほうほうの体で戦場から脱出するのでした。

この話の続きです。相変わらず登場人物が色々と出てきますので、図②に前回作成しました人物相関図を、今回の話の展開に合わせ更新しました。(図②)

前回のblogの図との違いが分かりますか?同じに見えるかも知れませんが、その違いが今回のお話の核となるところです。(前回の図はここをクリック

是非、話の途中で人物が良く分からなくなった時に図②をご参照ください。
②後三年合戦人物相関図(更新)
※絵は 胡原おみ氏「漫画後三年合戦物語」から
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます

1.金売り吉次


この時秀武討伐で遠征中の真衡、自陣で急死します。
それまで、すこぶる元気で病一つ冒したことのない真衡が、「急な病死」とのこと。

清衡と家衡は、戦の対象が急死したので、戦う必要が無くなったことに、ほっと安堵します。しかし清衡は考えます。

あやしい!

清衡は、奥州の忍者のようなもの「金売り吉次」を調査に真衡陣に潜入させます。
②金売り吉次(イメージ)

また脱線しますが、「金売り吉次」と言うと、義経を京の鞍馬山から連れ出し、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)に仕えさせた大商人のイメージが定着してきましたが、実は「金売り吉次」は固有名詞ではなく、既に清衡の時代から何人も居た隠密行動をする連中の事を指すとの説があります。(絵②)

彼らは、戦国時代の忍者のような術こそ使いませんが、最大の武器があります。

「金」です。

当時の奥州は玉山金山(たまやまきんざん)などの大規模な金鉱がありました。

ここから産出される金は、後に中尊寺金色堂を造るくらい豊かなものでしたが、この金を上手く使うことによって蝦夷(えみし)の地は力を持ったと同時に、朝廷からは危険視された訳です。

金を制すものは奥州を制す。

これを制した清衡が奥州を制した訳です。

2.真衡暗殺

さて、話を戻しましょう。真衡は公式には「病死」となっていましたが、「金売り吉次」が、真衡軍が秀武討伐から帰陣する中に潜入し、関係者に「金」を掴ませて話を聞いたところ、どうやら義家の刺客が真衡を暗殺したことが分かってきました。

「金売り吉次」からその報告を受けた清衡は全てを悟りました。

義家は、清原一族を恨んでおり、根絶やしにしたいのだ」と。
つまり、今回の戦で義家は、秀武を成敗に行った真衡と組んだように見せかけて、自分は真衡の留守を襲った清衡・家衡を戦で潰し、真衡は秀武討伐中の陣中で病死に見せかけ殺害。一気に清原一族の中核を殲滅しようとしたのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

21年前の前九年の時、義家は18歳の若武者で、安倍一族との戦いで大敗を喫した「黄海川の戦い」では、たった7騎でのみ逃走し、その活路を切り開いた活躍は、後に軍神と呼ばれる程の武勇を発揮しました。

③「義家、てめえ清原家の臣下になるって
言ったじゃねえか!」叫ぶ清原軍
※詳細は次回以降
そのような英雄的経歴を持つ彼が一番恥辱を感じたのは、父・頼義が、安倍氏討伐のために、清原一族の支援を求め、「一緒に戦ってくれるのであれば、私たち源氏は清原一族の臣下となって構わない。」とまで、自分達を卑下する必要があったことなのです。(絵③)

また、安倍一族を破った後の所領(奥6郡)も、本来頼義らが受領して良い筈なのですが、清原一族の臣下となり、支援して貰った立場上、実質的には清原一族が治めることになったのです。

源頼義・義家親子が苦労して戦った前九年の役は、結果的に彼ら親子にとってなんら益になることは生じず、役が終わった翌年、頼義は朝廷へ他国の国守へ転勤願いを出している程です。

これくらいの事で、清原一族を根絶やしにするなんて・・・と思うのは現代の感覚で、この証左は、後、この合戦中に出てくる史実が語ってくれます。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

④多賀城跡にある多賀神社
ということは、義家の屈折した野望と、清衡の野望はある意味一致します。事態は上手く使えば、清衡の野望を遂げることに大きく寄与することになるかも知れません。

彼は筆を執り、義家と秀武叔父に文を書きます。それを吉次に持たせ、夫々の館に向かわせます。

義家は、その書面を読み終えるとニヤリとします。

3.家衡との所領分配

それから1週間程経つと、清衡のところに、義家から使いが来ます。「至急、義家の館に来て欲しい」とのことでした。

そこで、清衡・家衡は、多賀城の義家の館に向かいます。(写真④)
家衡は敗北後の呼び出しですので、陸奥国守としての裁きを言い渡されるのだろうとビクビクしています。

⑤清衡と家衡の土地割譲
※水色が家衡、ピンクが清衡
予想通り、裁きの言い渡しでした。ただし、真衡が家長として治めていた奥6郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えるというものです。(地図⑤)

地図⑤の北3郡(点線内水色部分)が家衡、南3郡(ピンク部分)が清衡の土地として割譲すると義家は言います。

義家に敗れた清衡・家衡なのですから、斬首や領地召し上げ等の沙汰であってもおかしくないのに、領地までくれるとは・・・。ちょっと疑問に思う家衡に義家は云います。

「今回の兄弟ケンカの原因は自身の短慮にあったと、秀武殿から詫びを入れて来た。そして自分はどうなっても良いので、清衡・家衡2人には寛大な措置を!という嘆願があった。予は秀武殿の心意気に感心し、2人を許し、真衡の土地を割譲したいという訳じゃ。」

家衡は感激してその場を辞します。

この後、清原一族と義家は、束の間ですが平和な日々が続きます。
清衡は割譲された土地が義家の居る多賀城に近いこともあり、また以前お話した魂胆もあるので、義家に急接近します。

ところが、土地割譲当初感激していた家衡は、徐々に不満を募らせて行きます。
それは、この土地割譲が清衡にとって非常に有利であることに気が付くからです。

まず、多少土地が広くても、南3郡に比べると米の取れ高が小さいのです。まあ、それだけであれば兄弟の差なので我慢も出来ますが、最大の差は良い金鉱の有無です。

⑥玉山金山
以前お話しました玉山金山をはじめとする金は、この清衡側の土地で採掘可能なのです。

この採掘される金を使い、清衡はありとあらゆる周旋を行っているのです。(写真⑥)

実は、清衡はここから産出される金を使い、義家に土地割譲について自分が優位になるよう周旋したのです。

清原一族を殲滅したいと考える義家の考えを察知した清衡は、なんとか自分が殲滅候補の最後になるように工夫・調整するのにも金を使ったのだと思います。そして、それに成功します。

義家は清衡・家衡が連合する清原一族には、先の戦などから自分だけでは勝てないと正確に認識しました。なので、順番に1人づつ始末します。
その場合の次のターゲットは、清衡ではなく、家衡になったのです。

家衡も、この不公平な土地割譲をした義家や、それに急接近する清衡が気に入りません。

このような対立が熟したところで、清衡が兄弟紛争を仕掛けます。

ただ、この紛争は単に戦を清衡と家衡ですれば良いというものではありません。
清衡は義家を味方につける大義名分が必要なのです。
それには家衡側から、清衡を最初に攻撃させる必要があるのです。

家衡から攻撃された清衡は、その正当防衛に、役人(国守)である義家に陳情し、味方についてもらう。そして家衡を滅ぼす大儀名分と義家を味方に付けた清衡は易々と家衡を滅ぼす。

清衡はその役を、かつて真衡の庭にお祝いの品を投げつけることで後三年合戦を引き起こした秀武叔父に、担ってもらうのです。

⑦「平安の風わたる公園」にある
平安当時の館再現
4.清衡館への夜襲

秀武叔父も、既に清衡に調略されています。秀武叔父は滅ぼした安倍一族から清衡を連れて来た時から、彼に同情的でした。

秀武叔父は清衡が生き残り、清原家がまとまれば良いと考えていたのでしょう。

よくよく清衡とも相談し、先に描きました義家への取成しの対応や、今回の家衡との衝突の発火役も担ったのだと想像します。

秀武叔父は、家衡の屋敷に行き、彼に言います。(写真⑦)

「兄・清衡は、家衡さまをないがしろにしています。清原武則の直系である家衡さまこそが、清原家の家長であって良い立場であるのに!」

「秀武どうすれば良い?」と家衡は秀武に問いかけます。

「清衡の館に夜襲をかけるべきです。焼き払えば良い。」
「しかし、清衡の館には母が居る。」
「お母上は、この秀武が事前にお逃がしいたしましょう。」

家衡は清衡の館を夜襲することを決心します。

⑧清衡館襲撃
実は、この母上を逃すことは、当然清衡の母上でもあることから、空約束ではなく、清衡からも固く言われていることです。他にも清衡の妻子も皆、夜襲と同時に避難させる計画でした。

ところが、家衡が清衡館を襲う夜、何者かが家衡軍の襲来の少し前に、館に火を掛けるのです。(絵⑧)

清衡は慌てて消火し、母・妻子を避難させようとしますが、そこに家衡軍が攻め寄せ、わやくちゃになり、結果母、妻子全員焼死させてしまうのです。

清衡は、これは家衡のものがやったに違いない。家衡は、清衡が自分を陥れるために自作自演でやったことに違いないと確信しあい、本当にこの2人は憎み合い始めるのです。

5.おわりに

この清衡の作戦の想定外の失敗についても諸説ありますが、やはりこれも義家が画策したとの説が強いです。

清衡は義家を甘く見ていますね。義家は、清衡に気を許しているように見せかけますが、実は、清衡と家衡が心の底から憎み合い、加速して互いに力を奪い合うよう仕向けているのです。そして清衡と家衡がお互い死力を尽くして闘った後に、漁夫の利を狙うかのような形で、義家が清原家を易々と殲滅することを考えているのですから・・・。

先に描きました義家が清衡から貰った書面を読んでニヤリとしたのは、清衡が義家の計画が見通せたように、義家もまた清衡の計画が見通せてしまったからなのです。
⑨金沢柵から沼柵方面を臨む
(両柵とも合戦のクライマックス)

この時点で、この後三年合戦は、清衡と義家の「たぬきときつねの化し合い」の様相を呈して来るのです。

ただ、外面的には、清衡&義家軍 v.s.家衡軍の戦いがこの合戦のクライマックスとして続きます。
次回描きたいと思います。(写真⑧)

最後までご精読ありがとうございました。
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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館

中尊寺金色堂③ ~後三年合戦 その1~

このシリーズ、3作品目に入りますが、前の2つは、「前九年の役」についてお話しました。
①前九年の役概念図

結局、前九年の役は、図①の東北の雄、陸奥国(岩手県)の安倍氏と出羽国(秋田県)の清原氏の2大有力者のうち、安倍氏が清原氏&源頼義(みなもとのよりよし)連合軍に滅ぼされた戦いということになります。(図①)

そして、この後に続く、後三年合戦(後三年の役とも言う)は、この安倍氏を滅ぼした清原氏の中の一族紛争に、先の源頼義の息子、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が介入して大乱戦になるというお話です。

では順に見て行きましょう。

1.前九年後の清衡

まず、前回のblogで、安倍氏に味方した藤原経清(つねきよ)について思い出して頂けますか?
あの首をなまくら刀で切られた経清です。(忘れた方はここをクリック

その経清の息子が、清衡(きよひら)です。後の奥州藤原家三代の基(もとい)を築く漢(おとこ)になります。

脱線しますが、この藤原一族の先祖は、平将門と戦った藤原秀郷(ひでさと)となります。
藤原秀郷については、平将門を描いた拙著blog(ここをクリック)と、ゆかりの深い新橋の烏森神社等を描いたblog(ここをクリック)がありますので、時間がある時に別途、ご笑覧ください。

さて、安倍氏が滅び、前九年の役が終わった時に、清衡は7才。まだ幼子でした。
②清原一族系図と後三年合戦など
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます

藤原経清に嫁いできた母親は、元々清原氏の出身でした。前九年で安倍氏を滅ぼした清原武則(たけのり)の息子、武貞(たけさだ)と再婚します。(図②参照)
実は、この武貞が清衡の父経清の首を、わざとなまくら刀で苦しみが続くように切った本人なのです。

つまり清衡は、父親の仇を継父として持ったことになります。

前のblogで取り上げた前九年の役の中、黄海川(きみがわ)の戦いで、源頼義率いる朝廷軍に大勝利を収めた安倍氏の蝦夷(えみし)軍は、再び朝廷軍が清原氏と連合を組んで戦いに来るまでの5年間は、「蝦夷国再建!」とばかりに、朝廷支配の及ばない理想郷の建設を夢見ていたのです。
③藤原(当時は清原)清衡

清衡の父・経清も、蝦夷の地における朝廷への貢租を全て安倍氏側で徴収する制度を設ける等、この理想郷の構築を着々と進めていたのです。

そして、その父の構想にかける情熱は、まだ幼子であった清衡にも感覚的に伝わったのでしょう。

前九年の役が終わり、21年が過ぎた1083年。

清衡は28歳となりました。(絵③)

清衡の父の構想への回帰のための戦略が花開きます。

後三年合戦です。

2.後三年合戦の捉え方

さて、後三年合戦は、極端に単純化すると清原一族の抗争に、陸奥鎮守府の源義家(みなもとのよしいえ)らが絡んで、最後は清原氏の3兄弟の中で、清衡だけが生き残るという抗争話です。

図②の肌色でハッチングしてある箇所の人物、特に清原武貞と清衡の母との間の息子3人の間の抗争劇です。兄弟3人仲良く暮らせばいいのにとも思いますが、やはり父親違い、母親違いのこの3人、仲良くできなかったのでしょうか。勿論、取り捲き連中が乗せたということもありますが・・・。

前九年に比べると、この合戦、史料等が乏しく、不明なポイントが多いのです。

その要因として、実はこの合戦は、朝廷からの勅命で行った前九年と違い、清原氏内の内部抗争とされ、源義家らの参戦も、朝廷からの公式な指示ではないとされたのです。

なので、前九年は朝廷公認の公式な戦、これを「役」と言いますが、後三年は朝廷非公認、非公式・私戦、これは「合戦」と言います。

最近までは後三年も「役」と言っていましたが、色々と調査の結果「合戦」であることが明らかになってきました。
④後三年合戦 最後の激戦地だった金沢柵に建つ金沢八幡宮

話を戻します。不明なポイントが多いからという訳ではありませんが、私はこの合戦を自分が勝ち抜くように仕向けたのは、この清衡なのではないかと考えています。

そこで、その観点から、この合戦について史実を紐解いていきたいと思います。

3.戦の発端

まず、この歴史上に残る合戦をする前の21年間のあいだに、清衡は清原一族の重鎮、吉彦秀武(きみこのひでたけ)と何度も深く語り合っています。(秀武は図②参照)

秀武は、前九年でも清原軍として参戦し、清衡の母と清衡を保護、出羽(秋田県)に連れ帰った人物で、清衡も幼少の頃より頼りにしていた叔父です。

また、清衡は、父親の酷い仕打ちの最期の話も、この秀武叔父から沢山聞かされ、彼の中にはいつしか潜在的に滅ぼされた安倍一族への深い憐れみと、朝廷軍である清原氏と源家に対する復讐の気持ちを持つようになっていたのかも知れません。

さて、秀武は清衡がそんな裏腹な心を持つとは知らず、清原氏の棟梁である真衡が、自分一人の権力増長に力を入れ、あまりに一族をないがしろにしつつあることに深い憂慮をしていることを話します。

秀武はこの時既に70歳、私利より清原一族の先行きを本当に心配していたのでしょう。
この老人、純粋なだけ逆に喜怒哀楽が激しく、気が短いところがあります。
⑤真衡にお祝いの品を献上する秀武

その性格を熟知した清衡は、秀武に言います。

「一度、叔父上は兄・真衡に対して徹底的にへりくだってみてください。もし、叔父上程の重鎮がへりくだっているにも係わらず、兄が横柄な態度を取った場合には、私や弟・家衡は兄・真衡を家長とは認めません。」

◆ ◇ ◆ ◇

さて、上記清衡の言を実行する機会がやってきました。

真衡は息子が出来ず、養子入りをさせています。そしてその養子の妻を迎える結婚式でのことです。

70歳以上である秀武は、40歳そこそこの真衡に、祝いの品として金等を献上します。(絵⑤)
しかも、清衡に言われた通り、へりくだって、庭先で自ら献上の姿勢を取り、真衡からのねぎらいの言葉を待ちます。

しかし、真衡はねぎらいの言葉どころか、坊主と囲碁に耽り、献上の姿勢を取り続ける叔父秀武を無視するのです。

⑥怒る秀武
半刻も経ったでしょうか?秀武は、顔を真っ赤にして、祝いの品を庭に投げつけ、肩を怒らせ、叫びます。(絵⑥)

「なんたる侮辱!!」

そして、秀武は出羽の国に戻ると軍備を整えます。真衡と戦う気満々です。

「想定通り!」

と言ったのは、事の次第を聞いた清衡です。早速、秀武の所に赴き、

「秀武叔父、やはり兄・真衡は、叔父上が家長として仰ぎへりくだっても、徹底して見下した態度を取りましたね。もはや、彼に清原家一族の家長としての器量はございません。ついては、清衡・家衡兄弟は、兄を倒すために叔父上への支援を惜しみません。」

そして、清衡・家衡兄弟は、秀武征伐のために出兵した真衡の留守中、陸奥にある真衡の館(岩手県胆沢郡)と付近の村400戸を焼討にするのです。(絵⑦)
⑦真衡館の焼討

4.真衡の逆襲

流石に、弟達に留守中の虚を衝かれた真衡は動揺します。

秀武討伐は中止。慌てて出羽から陸奥へ軍を引き揚げます。

そして再度、秀武や弟達を討伐するために再軍備をしているところに、源義家(よしいえ)が陸奥の国守として赴任してきます。

先の前九年の時にも、数々の武勇伝を築き、父・源頼義を助けた義家。後に八幡太郎義家と源氏の守り神として神格化される程の彼が戻ってきたのですから、真衡は当然彼に取り入ろうとします。
「三日厨」(みっかくりや)という3日間にも及ぶ盛大な歓迎会を開き、このヒーローを味方に付けます。(絵⑧)

この義家の登場を、出羽の国に居た清衡・家衡は知りませんでした。
そしてまた、秀武叔父の討伐に出陣した真衡の館を、前回同様手薄になったとばかりに、襲撃・焼討に向います。

⑧着任前から既にヒーローである源義家
襲撃当初、真衡の館は前回と同様の守備兵しか居ません。しかし源義家の軍略で、襲撃されたら、真衡の妻の一報により、義家の軍が直ぐに駆けつけるように手配していたのです。

義家の軍が現れたのは清衡にとって想定外でした。

流石はヒーロー義家の軍団。軍の数も、戦略も戦闘能力も義家軍の方がはるかに清衡・家衡軍を上回っています。

「くそっ!抜かった!」

と計画の失敗により、自滅を覚悟した清衡ですが、弟・家衡が乱闘中でピンチだった清衡を自分の馬上へ引き揚げ、一頭の馬で清衡・家衡が逃げるという形でこの危機をなんとかやり過ごしました。

5.おわりに

いかがでしょうか? 
後三年合戦はまだまだ続きます。

この後、清衡は、強い強い義家と敵対するのではなく、味方に付いて、父の仇、父の野望だった蝦夷の国復権を追求するための廻り道をするのです。

話は単純ではなく、かなり複雑です。
⑨シャア・アズナブル

この話を描いていて、何かに似ているなと思いました。
1st ガンダムの中のシャア・アズナブルです。「赤い彗星のシャア」として人気の高いキャラですね。(絵⑨)

ご存知の方多いと思いますが、簡単に解説しますと、彼はジオン公国の創始家ダイクン家の跡取り息子だったのですが、このダイクン家がサビ家に滅ぼされたので、親の仇を討つ計画を建てます。

しかし、その復讐のために彼が取ったのは、親の仇のサビ家に取り入り、ジオン公国の有能な将官となって活躍し、次々にサビ家の同族支配者を狡猾な方法で葬り去っていくという手法です。

まさに清衡は、このシャアのようです。

ダイクン家は前九年で滅ぼされた安倍家または自分の父だった藤原家。
サビ家は、同役で安倍家を滅ぼした清原家として考えるとピタッとはまります。

ファンの皆さんも同じだと思いますが、シャアのキャラって、ストレートじゃなくて、このようにちょっと曲がっているからこそ、カッコいいのですよね。

ただ、現実の歴史の中にもこれに近いキャラはやはり居るのだろうと思います。

勿論、色々な歴史書物の中では、清衡は非常に中立的で、心が寛(ひろ)く、良心的な人物として描かれていることが多いです。
⑩秋田県の沼柵付近(後三年史跡)

しかし、後三年の舞台となった秋田県横手市等の史跡を巡りながら、私なりにこの後三年の数少ない史実を基に色々と考えると、清衡がわざと仕掛けない限り、清原氏内の同族の争いがここまでエスカレートする理由を説明することが出来ないとの結論に至りました。

なので、史実は曲げずに、清衡らの心の動きには、私の解釈を加えて、このまま続きを描いていきたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
【沼柵】田県横手市雄物川町沼館沼館

中尊寺金色堂② ~前九年の役~

①安倍氏v.s源頼義 家系図等(再掲)
「前九年の役」については、朝廷並びに陸奥国守源頼義(よりよし)に、恭順していた陸奥の国の安倍頼時(よりとき)が、頼義らの策謀に遭い、殺されるところまで、前回お話しました。

今回はそのお話の続きです。

この策謀に憤慨したのが、安倍頼時の息子、安倍貞任(さだとう)です。(図①)

貞任は、衣川柵にある安倍屋敷目掛けて攻めてくる源頼義ら朝廷軍を、父・頼時の弔い合戦であると気炎を上げ、蝦夷の兵4000を揃え、迎撃の準備をするのです。

1.黄海川の戦い(源頼義の大敗北)

②安倍貞任・宗任の軍を描いた絵巻
多賀城で1800の朝廷軍を整え、安倍氏の蝦夷軍を討伐に出発した源頼義。

しかし、彼ら朝廷軍に待っていたのは、東北地方特有の極寒です。寒さに馴れていない朝廷軍は疲れ切ってしまうと同時に、補給路もかなり伸び、食料が兵士全体に上手く行き渡りません

それに対して、衣川柵の安倍屋敷を出発し、南下した蝦夷軍は河崎柵という場所で朝廷軍を待ちかまえます。(場所は、図④参照)

軍勢数も4000対1800、更に蝦夷軍は、前回書きましたように、殺された安倍頼時(貞任の父)の弔い合戦の勢いですからモチベーションも違います。
蝦夷軍は、吹雪きの中、河崎柵内に止まらず、出て、黄海川(きみかわ)で朝廷軍を迎え撃ちます。(写真③)

③黄海川
極寒の吹雪きが激しい中、黄海川を挟んで、蝦夷軍と対峙していたつもりの朝廷軍は、吹雪きで視界が悪いため、土地を知り抜いている蝦夷軍に、包囲されていることに全く気が付きませんでした。

戦が開始され、黄海川正面の敵にばかり気を取られていた朝廷軍は、四方から押し掛ける蝦夷軍に完全に囲まれた形となりました。その上、寒さと飢えの朝廷軍、何から何まで不利である彼らに勝因はありません。結果はやはり、ボロ負けに負けて撤退します。

この負け戦中、源頼義の息子の義家(よしいえ)の大活躍で、何とか活路を開き、頼義らは命辛々何とか落ち延びることが出来たのですが、多賀城まで落ち延びたのは、たった6,7騎だったと云います。朝廷軍大敗北です。


④前九年の役 源頼義軍進軍状況(再掲)
2.清原氏の参戦

蝦夷は強い!

と敵に感心している源頼義に対し、折角、戦上手であろうと彼に期待をした朝廷はがっかりです。

ただ、何故か彼は多賀城では周囲の国人等からも信頼が厚く、朝廷が頼義の代わりに送ってきた陸奥国守にはなかなか従わないので、結局、源頼義がまた引き続き国守に返り咲きます。

それから数年は、源頼義は軍編成をすることが出来ず、復活に専念しなければなりませんでした。

逆に、朝廷軍に勝利した安倍貞任や藤原経清(つねきよ)らは勢いが付き、従来図④のピンクの部分のみが安倍氏所領内でしたが、衣川柵より南側にも勢力を拡大しました。

特に、藤原経清は、この地域での朝廷への貢租に使った赤札の代わりに、自分達の白札を使い、この貢租を全て安倍氏側で徴収するという朝廷への対抗措置を取りました。(写真⑤)

⑤藤原経清を演じる渡辺謙さん
(大河ドラマ)
朝廷としての面目丸潰れです。

「何をしている!!早く安倍一族を討て!!」

朝廷から陸奥国守源頼義へのプレッシャーは日に日に大きくなります。

頼義は早く兵力を増強するために、関東や東海、近畿等の源氏一族に働きかけて徴兵を加速すると同時に、もう一工夫考えます。

それは、寒冷地に強い安倍一族とその軍に対抗するには、やはり寒冷地仕様の軍が必要であり、それらは前述地域での徴兵ではなんともなりません。

そこで前回お話しました東北地方の安倍氏以外の一大勢力、仙北三郡を所領する出羽(秋田県)の清原氏を頼ることにしました。

この軍なら安倍氏と同じ寒冷地仕様ですし、勢力も十分に大きく、かつ大体隣国同士はライバル意識が強いので、源頼義ら朝廷軍の力強い味方になると考えたのです。(図⑥)
⑥源頼義は出羽の清原氏と連合を組む

当初、清原氏の当主は拒否したとのことですが、何か「珍妙」な贈り物を源頼義がしたところ、1万の兵を弟の清原武則(きよはらたけのり)につけて源頼義軍に合流させました。

清原軍との連合により、朝廷連合軍は1万3千となったのです。先の戦が1800だったことを考えると、かなりの大軍です。

3.安倍氏領内への侵攻

安倍氏率いる蝦夷軍も、この清原軍が源頼義軍と合流した直後、衣川柵(平泉)の一歩手前、現在の一関市辺りで朝廷軍を迎撃します。

朝廷軍はこの時も、長雨で進軍を中止し、補給物資が欠乏しかけていました。
また、更に既に2回蝦夷軍に負け、「蝦夷軍強し!」いうトラウマが朝廷軍の中に蔓延していました。

しかし、今回の遠征では、源頼義のリーダーシップが今までより遥かに発揮されたのです。この時の源頼義は、あえて前向きな事ばかり言うことで、「また負けるかもしれない」という意識を改革します。

敵が攻めて来た事に対し、源頼義は「好機到来!」「今の朝廷軍の勢いは侵略する水火の如く!」等々
⑦中尊寺月見坂にある八幡堂(上)
※下は八幡堂向かって右手にある月見坂
全軍を盛んに鼓舞し、ネガティブシンキングを除去します。

これが上手く働き、今まで負け続きだった朝廷軍は蝦夷軍に緒戦で勝利を収めることに成功するのです。勿論、軍勢が増えたことや清原軍の援軍要因も大きいとは思いますが・・・。

また、源頼義は、この進軍中にも戦勝祈願もあちこちで行っています。(写真⑦)

平泉中尊寺にある月見坂の脇に八幡堂という源頼義が緒戦の勝利と安部氏討伐祈願をしたお堂があります。金色堂に比べると地味で訪れる人も殆ど居ませんが、ここを訪れた頼義は、やっと幸先が良くなりかけて来た時だけに、かなり熱心に祈願をしたと想像できます。この祈願を行った経緯と、藤原清衡がここに中尊寺を建立したことに何か関係があれば面白いのですが、今回の調査の中では残念ながら、それは分かりませんでした。

4.厨川柵の戦い
⑧衣川柵跡

八幡堂で祈念したことが効いたのかどうかは分かりませんが、この後、朝廷軍は図④のように安倍屋敷のあった衣川柵を落とし、安倍氏の所領奥六郡に侵攻することが出来ました。(写真⑧)

そして、北へ落ちていく安倍一族の蝦夷軍を鳥海柵等でも破り、厨川(くりやがわ)柵へと追い込んでいきます。(写真⑨)

この厨川柵は、安倍一族の本拠であることから、安倍貞任らも、ここをとられたら終わりと考えます。なので、蝦夷軍は決戦覚悟なので、流石の朝廷連合軍も歯が立ちません。

そこで、源頼義らは、厨川柵の対面に薪を積み上げ火を付けようとします。

勿論、蝦夷軍も、それに火を付けること位は分かっています。しかし、朝廷軍は柵に薪を立てかける等ではなく、あくまで蝦夷軍の矢雨の中、矢立を柵近くまで前進させ、そこに薪を積んでいるのです。

そんなものに火を付けたところで、柵まで火は廻らず、精々煙による突撃陣の目くらましくらいだろうと、蝦夷軍は高を括ります。

さて、この作戦、実は最後は神頼み戦法です。
総大将源頼時は、前線に出てきて祈ります。

⑨厨川柵跡(盛岡市)
※現在は天昌寺が建っている
「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。どうか皇国をお守するために、これらの薪にくべる火をもって逆賊安倍一族を葬り去り給え!」

そして柵近くに設置した薪に火矢で火を付けます。単にそこで燃え広がる薪を見て、蝦夷軍は笑います。

「やはり、そこで燃えているだけじゃないか!(笑)」

と言った次の瞬間、大風が吹いてきて薪の火は一気に大きく燃え広がり、柵にまで飛び火します。そして柵はどんどん延焼して燃えるのです。

蝦夷軍は大混乱、そこにすかさず源頼義・義家をはじめとする朝廷軍は踏み込み、見事蝦夷軍を撃滅。安倍貞任をはじめとする一族や、藤原経清を捕縛・斬首することに成功。

ここで蝦夷の王者、安倍氏は滅ぶことになり、これが世に云う前九年の役のあらまわしです。

5.源頼義・義家の戦勝祈願について

前九年の役、如何だったでしょうか?

源頼義が神頼みで祈る中に出て来た「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。」について、補足説明を最後にさせて下さい。

⑩杉並区にある大宮八幡宮
源頼義は、この戦に臨み、既にお話しました月見坂の八幡堂以外にも、2か所で八幡様に戦勝祈願をしているのです。

それは、陸奥国守に任命され、安部氏討伐を朝廷から拝命された時、源頼義は相模国守だったので、陸奥国行きの前に、相模国内・鎌倉の鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮に戦勝祈願をしています。

また、鎮圧軍を進め、現在の東京杉並区の辺りに差し掛かると、空に白雲が八条にたなびき(イメージは写真⑫参照)、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となったため、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜び、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈ったのです。(写真⑩)

戦後、鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮ならびに、杉並区には大宮八幡宮という大きな神社を建立し、戦勝祝いの印としたのです。両八幡宮とも京都の岩清水八幡宮の八幡大神を勧請して創立されています。
⑪鈍刀で藤原経清の首を斬る頼義
「後三年合戦物語」より

ということは、もしもの話で恐縮ですが、源頼朝が、関東の何処を首府とするのが一番良いかの結論を、鎌倉ではなくて、後の徳川家康のように江戸とチョイスしていたのであれば、この杉並区の大宮八幡宮も、鶴岡八幡宮のような機能を担っていたのかも知れません。つまり江戸の守り神ですね!

勿論、大宮八幡宮は、現在も写真⑩のように大きな神社ですし、鶴岡八幡宮と大きな差があるとは思いませんが、ここが鎌倉の鶴岡八幡宮と同様、江戸という都市の中枢的な役割になっていて、多少、江戸の町の機能も変わっていたらと想像すると面白くありませんか?

6.おわりに

前九年の役で、捕らえられた安倍一族もさることながら、源頼義が一番憎んで余りあったのが、藤原経清です。

それは、かれの離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰されたことにあります。頼義は、引き出された経清を罵倒し、わざと切れない鈍刀を使って、苦しみが長続きするように、経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らすのです。(絵⑪)

ただ、経清の妻は清原氏の長男に再婚させるのです。この妻は、連れ子がありました。それが、このシリーズの中心人物、後に藤原清衡となる清衡なのです。

⑫東北の雲・空
さて、この清衡が、次の後三年の役(後三年合戦とも云う)の中心的人物になって行きます。また陸奥国守の源頼義の息子たち、義家(八幡太郎義家)や義光(新羅三郎義光)らも後三年では清衡らとともに大乱闘をしますので、続きを楽しみにお待ちください。

最後の最後に一言だけ、現首相の安倍晋三氏は、この安倍頼時(ちなみに図①の安倍宗任)のご子孫にあたります。

やはり蝦夷は現代まで強いです。

今回私が蝦夷地へ向かう東北自動車道からも、写真⑫のように、雲が綺麗に見えました。源頼義が東北に向かう途中、杉並区でみた雲もこんな感じで、印象的だったのでしょうか。(写真⑫)

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【黄海の合戦】岩手県一関市藤沢町黄海町裏63
【八幡堂(月見坂)】岩手 県 西磐井 郡 平泉 町 平泉 衣 関 46
【衣川柵】岩手県奥州市衣川区並木前
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目
【大宮八幡宮】東京都杉並区大宮2丁目3−1