マイナー・史跡巡り

日曜日

為朝の矢② ~伊豆大島~

①為朝から天然痘の
疱瘡神が逃げるの絵
為朝の話から、話がいきなり逸れ失礼します。

江戸時代、天然痘が爆発的に流行り病として登場し、種痘によるワクチン製作を西洋医学から学び、大阪や江戸の民の治療にあたった緒方洪庵の活躍等は、皆さまご存じの通りです。

しかし、種痘を施すようになる前の時代、これらの流行り病は、罹ってからでは手の施しようがないため、罹患しないための予防に腐心していました。

その1つの手段として、家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼るというものがあります。

何故なのでしょうか。(絵①)

為朝の生涯の後半を描くこのBlogでは、その辺りの経緯も含めてお話したいと思います。

1.伊豆大島での流刑生活

前回、為朝が保元の乱で敗れた後、捕縛され、弓が射れないように肘の健を切断され、伊豆大島に流されたところまでを描きました。(詳細はここをクリック

②伊豆大島にある為朝の館跡
罪人とは言え、源氏の血統、かつ有名人の為朝の事、写真②のような立派な赤い門の屋敷に住んでいました。(写真②)

私が伊豆大島に訪問した時も、流石にこの赤い門は良く目立ちました。勿論、現在はここを所有するホテルが何度も塗り直しているのですが、当時も為朝を貴人扱いして朱塗りの屋敷に住まわせたと伝わっています。

また、一説には、昔は有力者の怨霊封じ込めは必須の事でしたので、為朝亡き後、その怨霊を慰撫するための赤という説もあります。

話を戻しますが、この伊豆大島に流された為朝は、腕の肘の健の治療に励みます。
そして、かなり治ったと思われる頃に、為朝は弓の試射を行って、その恢復度合いを測るのです。

「兄・義朝のやろう!鎌倉でのうのうと過ごしているのかあ!」

③伊豆大島の為朝館
から鎌倉へは64.6㎞
ついつい伊豆大島で無為に過ごす為朝の脳裏に、保元の乱で、矢を威嚇射撃した時の兄・義朝の姿が目に浮かびます。

「まあ、ここから撃っても、流石に兄者には当たらないだろう。」

と、為朝は、義朝の起居する鎌倉へ向けて思いっきり弓を番え、ヒョーと射るのです。(地図③)

ところがこの矢はなんと、弾道ミサイル宜しく、鎌倉まで届いてしまうのです。地図③でもお判りのように、距離は64.6km離れています。

畏るべし為朝!!

前回のBlogの冒頭に述べた知人が算出した為朝の矢の初速度は時速3000㎞以上、プロ野球の剛速球ピッチャーの球速の20倍、新幹線速度の10倍以上という値は、この事実を基に空気抵抗が殆ど無いとして計算したものです。この初速度で射ても、実際の空気抵抗等を考慮すると絶対届かない、自律的に推進力を持つミサイルのような矢でない限り、64.6㎞矢が飛ぶことは無理という結果に達しています(笑)。
ただ、万が一届いたら、恐ろしい勢いということになりますね。

ですが、その時放った矢が、恐ろしい勢いで地面に刺さり、深く穴を開け、そこから水が湧いたという井戸が鎌倉の材木座に残っています。(写真④)

④六角の井
※右の石碑は左の建物の裏にある
写真でも分かります様に、住宅街の一角に何気なくあります。

井戸を覗いてみると、確かに水が湧き出しています。その時の矢じりが井戸の水の中にあるということですが、深くて確認することはできませんでした。(写真⑤)

本当か嘘か怪しい井戸ではありますが、一つ素晴らしいと感じたのは、この史跡もやはり、付近の方々から愛されているのですね。

暑い中、茫々に生えた井戸の夏草を一生懸命刈り込む方がいらっしゃいました。(写真⑥)

こういう何気ない活動が、古(いにしえ)の日本を大切にする心に繋がっているようで、とても嬉しくなりました。

2.伊豆七島の征服と破滅

さて、肘も治り、また元の剛弓を番(つが)えることができるようになった為朝は、また暴れ出します。

まず、島の代官の娘と結婚し婿になり、伊豆大島は本国から独立すると言って年貢を納めなくなります。

⑤井戸は水が湧いています
矢じりは見えません
次に、伊豆七島の制圧に乗り出します。大体九州に放逐された時も、九州を制圧し、「鎮西」と名乗った位ですから、為朝は行った先を制圧するのが好きなのですね。

しかし、この鎮圧話は保元の乱のように公式文書が残っている訳ではないので、多分に伝説的です。

例えば、鬼の子孫が暮らす島に渡り、鬼の子孫である大男達を相手に大立ち回り、島を平定して、一人の大男を従者として伊豆大島に連れて戻ってきました。まあ、たまたま島の大男を従えて帰った時に、そのような作り話をしたのだと想像されます。

別の話の例で恐縮ですが、昔北欧のバイキングが「この大海原の先に、このアイスランドよりはるかに豊かな緑の大きな島がある。」と云って人々を移住させた島がグリーンランドだったように、その島に実際に行ってない人には嘘か本当か分かりません。グリーンランドはご存じの通り、実際には寒冷地でアイスランドより緑が少なく、現在その作り話の名称が正式な島名になってしまいました(笑)。

更に、少々下品ですが、美女ばかりとの噂の島があり、そこに行った野郎は誰一人として戻ってこないという伝説がありました。為朝らは、この島に調査に出かけます。すると出てくる女性は本当に美人ばかりで、到着した野郎の理性を完全に痺れさせ、事に至らせようとします。

⑥為朝の井戸の雑草刈りをする住民の方
ところが至ろうとすると、女性器には隠れた「歯」が付いていて、男性器を切り落としてしまうため、男性が絶命するというカラクリだったのです。道理で誰も帰ってこない訳です。それを見破った為朝は、そうなる前に海岸で手ごろな石を拾い、「ガリっ」と噛ませて、その歯を折ってしまう方法で、この島を制圧(?)するのです。

島の間に伝わる御伽噺と為朝伝説が完全に融合していますね(笑)。

3.疱瘡の神様

伝説ついでに、もう一つ。

冒頭にお話ししました、天然痘が流行った時に、江戸時代の人々が家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼った理由も、この伊豆七島を制圧した時の話に由来します。

⑦疱瘡神が為朝に手形を渡す絵
(国芳画)
絵⑦を見て下さい。この絵は、為朝が八丈島を制圧した後の事を描いた絵です。(絵⑦)
八丈島には疱瘡神(ほうそうしん)という疱瘡(水疱瘡、はしか、天然痘等)の神様が、他の獣霊等と一緒に暮らしていました。

絵の中の黄色い服を着た老人が疱瘡神です。

天然痘等の医学的知識が乏しかった当時は、天然痘等がどうやら海外からもたらされる、特に南国から来るとの認識から、どこぞの南国の島に疱瘡の神様が住んでいるに違いないとの迷信が盛んでした。

なので、南国で、当時は良く分からない島である八丈島(?)辺りが疱瘡神の居る島と思われたのではないかと推測します。

さて絵の中で、他の獣霊らと一緒に制圧された疱瘡神が手にもっているのは、為朝に提出を求められた手形です。

「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」と為朝は書かせたと言われています。

この話が基で、繰り返しになりますが、江戸時代の人々は家の門に、天然痘除けとして「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼ったのです。

4.破滅&逃亡伝説

このように、九州に行けば九州を、伊豆大島に行けば、伊豆七島を制圧してしまう為朝。

彼が豪傑なのは、彼が住んでいた当時の社会システムに全く興味が無く、まるでガキ大将のように、喧嘩勝ちし、相手を服従させていく という単純さにあると思います。

しかし、子供じゃないのですから、社会システム側は、こういう大人のガキ大将を抑制しに来るのが道理です。九州で暴れている時も、朝廷が為朝の父親の官位剥奪という手段で、為朝を抑制しました。(前回のブログ参照

⑧左側の為朝が矢を放ち右側の軍船を沈める
今回は、伊豆七島を領有する伊豆国の伊東・北条氏らが朝廷に陳情し、為朝討伐の院宣を取り付けます。

そして軍勢500で、伊豆大島へ船で繰り出します。
この船が島に近づくのを見て、為朝は観念します。

しかし、彼は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵⑧)

しかし、残りの200が到着する前に、彼は9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

⑨大島を脱出した為朝とその息子を救出するの絵
(国芳画)
しかし実は、この割腹自殺したのは為朝の替え玉であり、為朝は息子らと一緒に大島を抜け出し、海上を琉球(沖縄)に向け逃げたという説があります。

右の絵は、有名な歌川国芳の画ですが、逃げる為朝らが大嵐に遭い、船が難破しかけた時、為朝が保元の乱で味方した祟徳上皇配下の烏天狗(絵中白抜き)が現れて為朝を救い、海に投げ出された為朝の息子は、海底から現れた大怪魚に助けられるという場面が描かれています。(絵⑨)

そして、為朝の息子は、後に琉球王国の初代琉球王「舜天(しゅんてん)」になったとしています。この手の話を聞くと、皆さまの中には「まあ、義経も北海道経由で満州に渡り、チンギスハーンになったという伝説もあるし・・・」と思われるかも知れません。

⑩沖縄にある為朝上陸の碑
しかし、これは琉球王国の正史『中山世鑑』に記載されている事なのです。

この時為朝が沖縄に上陸した場所に、今も祈念碑が建っています。(写真⑩)

5.おわりに

為朝の生涯、如何でしたでしょうか?

実は、為朝に関係する伝説は、まだまだここにご紹介させて頂いたもの以外、山ほどあります。

また、為朝を扱った浮世絵等のコンテンツ、これもWeb上にわんさかあります。

勿論、為朝の豪傑としての資質や、豪傑故のレジェンド話等、皆が為朝に対する尊敬と愛情の念を抱いているからではあるのですが、江戸時代にこの為朝ブームに火を付けた立役者がいます。

先程、疱瘡神除けに為朝のお札を家の門に貼る風習についてお話しましたが、これは江戸時代だけです。その前の鎌倉・室町・戦国時代には、このような風習は無かったのです。

なぜでしょうか?
これも、その立役者のお蔭なのです。

滝沢馬琴(たきざわばきん)

⑪九段下にある馬琴史跡
ここで彼は読本を執筆
そう、「南総里見八犬伝」で有名な江戸時代の読本作家です。

当時(19世紀初頭)は、まず為朝伝説を扱ったデビュー作「椿説弓張月」の評価が高く、売れに売れ、読本家としての地位を確立した馬琴が、ライフワークとして手掛けたのが「南総里見八犬伝」。(写真⑪)

なので、この為朝の「椿説弓張月」が馬琴を読本世界のスターダムにのし上げ、歌舞伎での上演や、浮世絵で第一級の歌川国芳らにも盛んに取り上げられる等、それはそれは大変な人気でした。

それで、この小説に出てくる疱瘡神との話を元に、「為朝公のお宿」の札を貼る風習が生まれたのです。なので江戸時代だけという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

馬琴も取り上げ、江戸時代当時もベストセラーになった為朝物語。

為朝は、頼朝が「蛭が小島」に流されいる1160年当時も、伊豆大島に居ました。伊豆大島で自決または脱出するのは、頼朝が挙兵する3年前の1177年です。

本来、源氏の血統を汲むのですから、近くの伊豆半島に居る頼朝らと連絡を取り合い、頼朝挙兵に、その英雄振りを発揮すれば良いのに!と思うのは、下衆の発想なのでしょうね。

なんと言っても鎮西八郎為朝の魅力は、ノンポリ(Non-Political)で権力に依らず、子供のような単純無垢な強さとやさしさを兼ね備えたヒーロー性にあるのでしょう。

私も色々と調べるうちにすっかり為朝に魅了されてしまいました(笑)。
皆さまは為朝についてどう思われますか?

長いお話にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
それではまた次回!

【伊豆大島為朝館跡】 東京都大島町元町1丁目16−7
【源為朝上陸記念碑(沖縄)】沖縄県国頭郡 今帰仁村運天47
【滝沢馬琴硯の井戸】東京都千代田区九段北1丁目5

為朝の矢① ~保元の乱~

さて、前回まで源氏再興について、頼朝を中心として描いてきました。(シリーズの最初はこちら

①鎮西八郎為朝(国芳画)
そして、富士川の戦い以降、宇治川合戦から平家打倒の中心人物は、義経になると前々回のblogで書きました。(ここをクリック

義経は父義朝(よしとも)の八番目の子なのに、九郎(くろう)殿と呼ばれる理由をご存じでしょうか?

源氏は必ず〇郎(〇は何番目の子かを表す)をミドルネームにしていました。

義経は、自身が元服して牛若丸から義経を名乗る時、その時永久欠番の「八」を遠慮し、一つ下の番号「九」を使うことにしたのです。なので九郎義経。

では、その永久欠番の八郎は?というと、頼朝が挙兵する24年前、1156年の保元の乱で、大活躍した源氏のヒーロー、源為朝(みなもとのためとも)のミドルネームなのですね。

鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)

今回から、この豪快なヒーローを描いてみたいと思います。(絵①)

1.鎮西(ちんぜい)

為朝は、頼朝の父、義朝(よしとも)の弟にあたります。為朝は弱冠13歳にして、父親の為義(ためよし)に勘当されてしまいます。

素行が相当な悪(わる)で、気性も荒かったようです。しかも、体がデカい。2mを越えていたとの記録があります。また、13歳の頃ということですから、反抗期でもあったのでしょう。

②鎮西山から佐賀平野を見る
彼の母親は、当時の大阪東淀川にあった江口の遊女でした。名家の母を持つ長男義朝等に対する反骨精神もあったと想像します。

勿論、彼は八郎というくらいですから、兄弟は他にも沢山居るのですが、どうも長男の義朝に対し、次男坊的性格の為朝は、そのやんちゃさが、後々の平家の在り方や、更にその後の源氏の再興後の武家社会の確立に影響を及ぼしたように見えるのです。

さて、勘当された為朝は、九州の有力者を頼り、13歳にして、その家の婿になります。そして、手下を次々に従え、九州の地を15歳までに制圧するのです。

なので、鎮西(ちんぜい)

佐賀県には鎮西山という佐賀平野が良く見える山がありますが、ここに鎮西八郎為朝が城を築き、5万の兵を撃ち破ったところとして伝説化しています。(写真②)

2.為朝の剛弓ぶり

このように九州で大暴れ、制圧までしてしまう程に、やたらと強い為朝のシンボルは何といってもです。彼の左腕は右腕より12cmも長く、剛弓を引くために進化したようです。

詳細は次回お話しますが、伝説だけを頼りに、為朝の弓の凄さを、ある理系に優れた知人が定量的に計算してくれました。

③大人2人が引いてもビクともしない為朝の弓
(葛飾北斎画)
まず、プロ野球で剛速球ピッチャーでも球速は時速150~160kmで、大体新幹線の半分の速度であることは皆さんご存知でしょう。

為朝の矢は、新幹線の10倍以上、つまり時速3000km以上です(笑)。

大体物理的にそんな矢を撃てる弓が存在する訳はないのですが、昔の人がそこまで誇張するからには、やはり相当迫力ある弓だったのでしょう。葛飾北斎は、2人の大の大人が為朝の弓を引っ張っても、弦がビクともしない様子を描いています。(絵③)

私も子供の頃、5人の大人が一緒にうーん、うん言いながら、弓の弦を引く横で、「一寸でも俺の弦を引けたら、平定した九州のうちの一国をやるぞ!」と左手で弓を持ち、右手で骨付き肉を持ち、それに武者ぶりつきながら話すワイルドな為朝の漫画絵を強烈な印象で覚えています。

3.京へ戻る為朝

破竹の勢いの為朝に、困った九州の国人たちは、こぞって朝廷に為朝の乱暴振りを訴え出ます。朝廷は為朝に京に戻ってくるように命令するのですが、流石為朝、朝廷の命令さえも無視します。

ところが、この為朝の態度が、頭に来た朝廷は、為朝の父・為義を解任するのです。父親に勘当されたはずの為朝でしたが、これを聞くと慌てて28騎の伴を従えて、京都へ上洛します。

やはり、実は暴れん坊の為朝も、父親思いの根はやさしい漢(おとこ)なのですね。

さて、帰参した為朝に待っていたのは、また上皇対天皇の政治的対立に伴う武家の対立、1156年に起きた保元の乱でした。(図④)

④保元の乱対立図
※実際には信西等も天皇側に加わり
 もう少し複雑な様相を呈している
4.保元の乱

拙著blogの「道鏡」でも書いた上皇vs天皇対立図(ここをクリック)ですが、やはりこの対立構図は、歴史上何度も繰り返され、それだけに現代の皇室典範の改編等にも慎重にならざるを得ない訳です。

崇徳上皇と後白河天皇の対立に巻き込まれ、特に源氏は父・為義と子・義朝が敵味方に分かれて戦うという悲劇が発生しました。

この時、為朝は九州から駆けつけた28騎と一緒に、例の剛弓を持って崇徳上皇の御所(白河北殿)の西側の門を守りました。(写真⑤)

崇徳上皇を始め、公家たちは為朝に興味深々です。何故なら彼は前にも書いた通り2m越えの大男、味方として頼もしい限りです。そこで、彼を見たいばかりに、軍議に上皇や公家たちも参加するのです。

「おおっ、さすがにでかいですなぁ」と扇子を口元に当てて囁き合う公家たちを尻目に、為朝は、彼が思う作戦を述べます。

⑤保元の乱の中心となる白河北殿址
(崇徳上皇の御所)
「夜討ちです。この為朝、九州でも多くの戦場(いくさば)を踏みましたが、夜討ちに敵うものはございません。直ちに後白河天皇の本営に攻め寄せ、3方から火を放ち、残る1方の門から逃げ出てくる敵を、この為朝の剛弓で迎え撃てば、兄・義朝を含む君側の奸(くんそくのかん)らの殲滅は必定。出て来る後白河天皇だけを保護します。」

天皇を討ち取るという発想は当時も無く、悪いのはその取り巻き、つまり君側の奸にあるとされ、この作戦も後白河天皇だけは敵方より助け出すというものです。

「後白河天皇側には大した奴はおりません。兄である義朝くらいは多少刃向かってくるかも知れませぬが、この為朝が必ず射貫いて見せます!」

「平清盛ですか?ああ、あいつは「へろへろ矢」しか撃てません。鎧の袖ででも、彼を払いのけて、蹴り倒せばそれで終わりです!」

清盛を「へろへろ」と言うとは・・・。為朝、体もデカいが、態度もデカすぎます。最初は好意的に聞いていた公家たちも、段々と為朝に反発したくなります。昔も今も謙虚でない者は「打たれる杭(くい)」の法則です。

「夜討ち等は、武士同士の私戦でする乱暴な方法です。為朝殿はちと若すぎますな。上皇殿と天皇殿の間の対立回避という今回の仕儀は、正々堂々とすべきです。吉野と興福寺の僧兵が加勢に来て下さるので、それまで待つべきと存じます。」

と落ち着いた長老格の公家が言うと、皆上品なこの人の発言に素直に従うのです。そして、体躯も良く、ワイルドな雰囲気の為朝は、完全に公家たちから下品な武者として見られてしまうのです。

為朝はがっかりです。「戦(いくさ)は武士に任せるもの。それを公家が出てきて掻きまわすのは止めて欲しい。兄の義朝は絶対夜討ちを仕掛けて来るぞ!」と周囲に愚痴るのです。

◆ ◇ ◆ ◇

為朝の予想通り、源義朝と平清盛は、夜討ちを掛けてきます。上皇は、あわてて為朝をなだめるために急遽役職を上げますが、為朝は鎮西のままで良い、とこれを拒否。こうなっては致し方ないと、剛弓を取って、当初の配置である西側の門に立ちます。(地図⑥)
⑥保元の乱 配置図

そこに攻め入ってきたのは、あの「ヘロヘロ」と揶揄された清盛の軍勢です。

早速為朝は、示威行動のため、矢を番(つが)えて放つと、やはりこれがロケット弾なみ。
3人の兵士を貫き、まだ矢速が落ちず、そのまま3人を空中搬送するありさま。
これを知った清盛、たった一矢(いっし)にも係わらず、驚愕し軍を北門へと移動させ始めます。残念ながら清盛は「ヘロヘロ」返上には至りませんでした。

次に、為朝の兄、義朝が攻めてきます。為朝28騎に対して、義朝200騎。(絵⑦)

⑦馬上の義朝と郎党たち
接近戦では為朝得意の弓等が役に立たなくなります。そこで為朝は、門の上に立ち、迫りくる軍の大将、兄の義朝に矢の照準を当て、今にも義朝を射抜かんばかりの構えをします。

すると恐れをなした義朝が、大声で叫びます。

「兄に弓引くとは、神仏の加護を受けられなくなるぞ!為朝!」

為朝も返します。
「では、父・為義に弓引く兄者はどうか?」

「・・・」
言い返せない義朝は悔しくなり、自軍に対し、

「ものども、為朝は脅しているだけだ。矢を兄に対しては放てまい。馬上での戦なら我々坂東武者の方が技に長けている。恐れず白兵戦で為朝を討ちとれい!」

と下知しますが、その発声が終わるか、終わらないかのうちに、義朝の兜の鍬形を矢が射削るのです。勿論為朝の矢です。為朝が狙った通りです。為朝は優しい漢なので、流石に兄を射殺すことは出来ず、兜の一部を綺麗に射削ることで、威嚇をしたのです。

義朝は「こ、こ・・・」と一瞬言葉を失います。しかし、流石は義朝です。
「こ、こいつ(為朝)の矢の命中度は、これこの通り、大したことは無い。皆のモノひるまず戦え!」

◆ ◇ ◆ ◇

さて、白兵戦の結果は、義朝の坂東武者を53騎も倒した為朝たち九州武者も、28騎中23騎も討ち取られてしまいます。為朝たちはやむなく西門から撤退します。

それにより、門の中に入った義朝らは、次々に上皇側の白河北殿の建物に火を付けて廻ったため、崇徳上皇らは総崩れとなりました。

崇徳上皇は後白河天皇側の追捕により捕まり、為義・為朝らは個別に脱出、東国での再挙を図るべく、都落ちをするのです。

後白河天皇、平清盛、源義朝側の勝利に保元の乱は終わりました。

5.為朝の隠れ里(伝説)

⑧上大岡の隠れ里にある為朝の祠
さて、私の横浜の実家の近くに上大岡という大きな駅があります。子供の頃から良く行ったにぎやかな街を見下ろす東側の傾斜地に「八郎ケ谷」という土地があります。

実は、この場所、この保元の乱で東国での再挙を図ろうとした為朝が、隠れ住んだ里とされています。そこに「為朝の祠」があります。(写真⑧)

祠の写真では、私がいつも持ち歩く1m程度の杖が右側に立てかけてありますので、大きさが分かると思います。

非常に小さく、駐車場の一角に隠れるようにある祠ですが、そのマイナーさが却って本当にこの辺りに隠れ住んでいたのではないかというリアリティを感じさせてくれます。

実際に、明治2年にこの祠近くの丘の崖が崩れ、横穴が発見され、更にその中から古い鏡の入った壺が見つかった時には、ここが為朝の隠れ穴だったのではないかと大騒ぎになったそうです。(写真⑨)

⑨横穴が発見された八郎ケ谷の斜面(左、右上)
右下は八郎ケ谷から見た上大岡駅
他にもこの周辺一帯には彼の妻の墓石や地蔵等があります。

私が思うに、義朝が住んだ鎌倉に近いこの上大岡の地に、為朝は隠れ住み、乱後の対応について、義朝のところに忍んで交渉に来ていたのではないでしょうか?

というのは、この保元の乱で、源氏が上皇側と天皇側に分かれたのは、戦国時代の真田家が徳川側と豊臣側の両軍に別れ戦ったのと同様、一族の存続を図ったという説もあるのです。

私は、心優しい為朝のこと、兄・義朝に父・為義の助命を嘆願していたのでは?と想像しながら、この八郎ケ谷周辺を歩きました。

6.おわりに

しかし、父・為義の助命はなりませんでした。自首してきた父・為義を、義朝も泣く泣く斬首せざるを得ない状況になったのです。(絵⑩)

実は、これを源氏の勢力縮退の絶好の機会と捉え、為義の斬首を強烈に主張する貴人が居ました。またご存じのように、後白河天皇は、のちに法王になってからの義経の使い方等を見ても分かるように、武士のパワーバランスをコントロールするのに長けた大狐でしたので、ここは助命受け入れずで対応します。

⑩源為義
これにより、源氏は弱体化します。代わりに「ヘロヘロ」と為朝に揶揄された平清盛が台頭し、この3年後に起きる平治の乱にて、「平家にあらずんば人にあらず」の世を造るのです。

面白いことに、この源氏の一族内の争い・凋落を反面教師とし、清盛は平家一族の結束強化を推進するのです。

ただ、これが頼朝が挙兵する20年後になると、一族の横の繋がりばかり重視する平家に対し、主従の縦の関係強化を欲する全国の武士にとっては、大きな不満の種(たね)となり、結果はご存じの通り、平家一門は壇ノ浦で滅びてしまうのです。

そう考えると、この時敵味方に別れて戦った源氏と、結束を強めた平家どちらが良かったのでしょうか?

皆さんはどう思われますか?

ところで、このようにその後の源平の在り方にも大きな影響を残した為朝はどうなったのでしょうか?

逃亡生活を続けますが、最後は捕らえられます。
しかし、武勇を惜しまれ助命され、得意の弓が撃てないように、肘の健を切られ、伊豆大島へ島流しとなるのです。

鎮西八郎為朝の後半の生涯、島流し先等での大活躍(大暴れ?)ぶりは、次回お話をさせてください。

長文ご精読、誠にありがとうございました。

【鎮西山】佐賀県三養基郡上峰町堤
【白河北殿址】 京都府京都市左京区東丸太町
【為朝の祠】神奈川県横浜市港南区上大岡東1丁目7

土曜日

マイナー・史跡巡り一覧表


1.鎮西八郎為朝
為朝の矢① ~保元の乱~ ←UP!
為朝の矢② ~伊豆大島~ ←UP!

2.三浦一族
三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~
三浦一族② ~石橋山合戦~
三浦一族③ ~衣笠城落城~
三浦一族④ ~富士川の戦い~
頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

3.日本三悪人
日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~
日本三悪人② ~失意の道鏡~

4.幕末日露交渉とプチャーチン
幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~
幕末の日露交渉② ~ヘダ号の進水~
幕末の日露交渉③ ~外伝~

5.タイ国
戦場にかける橋 ~タイ・クワイ河から~
山田長政 ~タイ・アユタヤから~

6.一の谷の戦い(源平大合戦)
一の谷の戦い① ~逆落とし~
一の谷の戦い② ~敦盛~
一の谷の戦い③ ~平家の武者たち~

7.三増峠の戦い
三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~
三増峠の戦い② ~武田信玄の小田原攻め~
三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~
三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~

8.唐人お吉
唐人お吉① ~ハリスの介抱~
唐人お吉② ~お吉の横浜暮らし~

9.首洗井戸
首洗井戸① ~護良親王の逃亡劇~
首洗井戸② ~土牢~
首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~
首洗井戸④ ~雛鶴姫 その2~
首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~

10.深大寺
深大寺縁起について
深大寺 ~「水」に関するパワースポット~
北条五代記② ~深大寺城と牟礼砦~

11.北条氏(後北条)関連
北条五代記① ~高縄原の戦い~
北条五代記② ~深大寺城と牟礼砦~
北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~
滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~
小田原城・石垣山城
北条氏康の娘たち① ~北条夫人~
北条氏康の娘たち② ~早川殿~
のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~

12.小机城
小机城① ~城址跡を訪ねて~
小机城② ~硯松~
小机城③ ~支城 茅ヶ崎城址~

13.松姫
松姫と八王子① ~武田家の滅亡~
松姫と八王子② ~松姫の八王子への逃亡~

14.お江の位牌
お江の位牌① ~満願寺~
お江の位牌② ~化粧面谷公園~

15.明日香村
明日香村① ~高松塚古墳と亀石~
明日香村② ~石舞台・飛鳥寺~

16.幕末単発もの
伊豆下田 旧村山邸 ~松陰の疥癬が治っていたら~
日本で最初にパンを焼いた?~江川邸と韮山反射炉~
お台場
大桟橋通り
八木邸 in 京都(∀)!

17.その他
善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~
鍋島松濤公園
シドニー小旅行
お三の宮 ~吉田新田と人柱~
笹山城と鎌倉街道
驚神社
荏子田横穴(かんかん穴)
覚永寺(横浜市青葉区)
子規庵
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頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

源平合戦というと、つい義経の華々しい活躍に目が行きがちなので、今回は頼朝の挙兵と、それを助けるのに功績の大きかった三浦一族等に焦点を当ててシリーズを描きました。

今回は、このシリーズの中で出て来た人物等について、私の生活圏内にも沢山の、マイナー史跡があることが分かりましたので、番外編という形でお送りしたいと思います。

1.二枚橋
①二枚橋

最初は義経です。挙兵した兄、頼朝がその後石橋山合戦で敗れたとの報を聞き、奥州藤原秀衡の元に居た義経は心を痛めます。

ところが、頼朝が安房国に舟で脱出し、また再起の旗を挙げたと聞いて、居ても立っても居られなくなった義経は、藤原秀衡の許可も得ずに、さっさと弁慶と一緒に頼朝のところに駆けつけ、少しでも役に立ちたい、兄を助けたいと、東北から関東へ南下します。

前のシリーズまでに書いた通り、頼朝の動きは迅速で、旗揚げから1か月半で5万騎に膨れ上がった頼朝軍は鎌倉入りを果たします。

義経も、南下途中で、頼朝の鎌倉入りの話を聞いたのでしょうね。急遽鎌倉に向ったのだと思います。そこで、私の近所に残っている、鎌倉へ向かう道の途中にあるのが、写真②の「二枚橋」です。

小さな橋ですが、当時、ボロボロだった木橋では、義経が騎馬で渡れないため、弁慶らが強化工事を施したようです。橋板を二重化し強度を上げることで、騎馬での通行を可能にしたので、二枚橋と言われたようです。現在の橋には、写真のようにわざわざレリーフまで彫ってあります。(写真①)

しかし、こんな小さな橋に、そんな大層な工事をしていたからでしょうか?(笑)
義経らが鎌倉入りすんでのところで、頼朝は、富士川の戦いに繰り出してしまうのです。

なので義経主従は、前回のblogに描いたように富士川近くの対面石まで頼朝軍を追いかけることとなるのです。

しかし、この工事をした当時の私の家の周り(小田急百合ヶ丘駅付近)の住民は喜び、義経主従に感謝したことでしょう。
やはり、義経は頼朝程、冷徹に成れなくても、住民にまで情に篤い良い奴ですね。

2.馬頭観世音と佐々木高綱(たかつな)
②近所(新横浜)にある馬頭観世音

その対面石で義経と再会した頼朝は、この後の戦には出ず、源範頼と義経に任せてしまいます。富士川の戦いの次の戦は、平家との対決ではなく、実は平家を都から追い払った木曽義仲との戦、宇治川合戦になります。

この宇治川合戦に関する佐々木高綱のエピソードを1つ描きます。

これも奇遇なのですが、我が家から私の実家に行く途中の抜け道に、写真②のような馬頭観世音があります。(写真②)

馬頭観世音なんて、大体石碑一つみたいなものが多い中、この立派な馬頭観世音はなんだろう?と常日頃思いながら、通過していました。

今回の調査で、実はこれが、頼朝の山木判官屋敷襲撃で大活躍した佐々木兄弟の3番目佐々木高綱、及び宇治川合戦と関係が深いことが分かりました。(写真③)

石橋山合戦で、頼朝らを大椙の洞で発見した梶原景時は、これを見逃すことで、後日、頼朝が鎌倉入りしたタイミングで味方に付き、軍監として範頼・義経軍に従軍します。
③佐々木高綱の屋敷跡(現 鳥山八幡宮)
綾瀬市の渋谷氏の早川城から高綱は 
現在の新横浜近辺に移住したらしい 

また、この時、景時の嫡男、景季(かげすえ)が張り切って義経らに同行し、木曽義仲・平家討伐軍に参加します。

そこで、景季は頼朝の第1の名馬、生唼(池月)(いけづき)を、今回の討伐に貸して欲しいと頼朝に懇願します。

武士は命を懸けて戦うので、特に最大の兵器である馬に関して無心することは恥とされなかった時代です。

しかし、頼朝は「あれは、いよいよ私が平家討伐の出馬となるまで厩で取り置く」と言って拒否します。しかし、そんな優秀な馬を厩に繋いでおくのは勿体ないと食い下がる景季に根負けし、「では第2の名馬、磨墨(するすみ)を貸そう」ということになりました。

磨墨もかなりの名馬です。(拙著「驚神社」にも出てきます。リンクはこちら
④佐々木高綱屋敷跡(鳥山八幡宮)から
新横浜の日産スタジアムを臨む  

景季は喜び、磨墨を連れて西に向かいます。

ところが、名古屋辺りで、途中休んでいると、佐々木兄弟の高綱が、この第1の名馬、生唼を曳いて歩いてくるのを目撃します。

景季はショック大です。あれだけ頼んだのに頼朝は自分にはくれなかった生唼を、高綱には与えた!なんたる恥辱。

景季は、高綱を殺して、自分も自害して果てようと考えます。

高綱の所にやってきて、景季は言います。

「おい、高綱、それは生唼だな?どうしたその馬。頼朝殿に下賜頂いたか?」

「景季か、この馬か?この馬はな・・・。実は、頼朝殿に頼んでも貸してもらえないと思い、厩から盗み出してきた!」

景季は、目を丸くします。そして

「あははははは。そうか、盗み出したか!その手があったか!」

と高らかに笑うと、上には上が居るものだと、磨墨を曳いて、また京を目指して元気に歩き出すのです。

実は、高綱のこの盗み出したという話は、全くの嘘。真実は高綱も頼朝に欲しいと食い下がり、頼朝も「またか!」と面倒になり、「では絶対誰にも借りたと漏らすなよ。」と念を押して高綱に貸したのです。

⑤宇治川合戦で一番乗りで競う高綱と景季
奥で馬の腹帯を直しているのが景季
手前急ぎ渡河中の佐々木高綱と生唼
なので、高綱は磨墨を曳く景季を見て、咄嗟にこの嘘をつくことを思いついたと言います。

この話と写真②~④を見れば、皆さんはもうお判りでしょう。そう、この近所(新横浜)にある馬頭観世音は、佐々木高綱が頼朝より借り受けた生唼を祀ったものです。

彼の屋敷の近くに生唼の墓があるということは、この名馬、結局頼朝に返さなかったのですね(笑)。

3.宇治川合戦

さて、平家を京都から追い払った木曽源氏の木曽義仲ではありましたが、京における木曽軍の態度は横柄で、義仲自身も宮中の堅苦しい雰囲気に馴染めず、時の権力者である後白河法王と対立します。頼朝を頼りとする後白河法皇が呼んだ範頼・義経軍は、木曽義仲と宇治川を挟んで対峙します。

この時、この合戦の一番乗りをしようと2騎の武者が競い合います。

そう、頼朝から馬を借りた例の2人です。2人とも頼朝から借りたからには、自分こそ一番乗りを果たさなければならないと懸命になっていました。

最初にざんぶと川に乗り入れたのは景季、磨墨は泳ぎが得意なのです。
高綱も、急ぎ生唼の尻に鞭を当てますが、生唼は水が嫌なのか、なかなか川に入ろうとしません。

⑥馬頭観世音の左側にある説明看板
下半分が剥がれ落ちています。
「ヤバい、これでは第1の名馬の名折れ!」

とばかりに高綱は、嫌がる生唼を何とか川に入れ、磨墨の後を追わせますが、もう磨墨は対岸に乗り上げかけ、一番乗りを達成しかけています。(絵⑤)

そこで高綱は、磨墨の馬上の景季に向けて叫びます。

「おうい、景季!馬の腹帯が落ちかけているぞ!」

慌てて、腹帯のチェックをしている梶原景季を横目に、大至急対岸に渡り終えた佐々木高綱は、大音声で「やあやあ、我こそは近江源氏佐々木家~云々」と一番乗りの名乗りを挙げてしまうのです。

このように宇治川の合戦で、一番乗りを果たした名馬生唼のお墓である馬頭観世音も、写真⑥のように、説明看板の下半分が剥がれ落ち、「生唼」という文字も1つも見えない状態が放置されている無関心さが残念でなりません。
今度この記事の打出しをクリアフォルダに入れて、この看板に貼ってこようと思います(笑)。

4.太刀洗の水
⑦梶原景時

さて、梶原景季と佐々木高綱では、上記2つの事例より、何となく佐々木高綱の方が一枚上手のような気がします。

では、景季の父親である梶原景時は如何でしょうか?(絵⑦)

義経ら平家討伐軍に軍監として従軍した景時は、かなりうるさかったようで、何かにつけ頼朝の威を嵩に「下知だ!下知だ!」と叫ぶので「げち、げち⇒ゲジゲジ」と呼ばれ、義経ら現場の武者からは嫌われました。

義経の判官びいきな物語では、頼朝に義経の悪口を伝え続けた景時を、頼朝に見捨てられた義経が「誰かが兄上に讒言を入れている!」と云ったのは有名です。

しかし、そんな嫌われ役の景時も、やはり頼朝に信頼されているだけあって、色々な汚れ役を自ら買っていたのです。
確かに、多分に官僚的なところはありますが、実直で勇気ある武将でもありました。

その代表的な話として、上総広常成敗に関する彼の話をさせてください。

⑧逆落し中の佐原十郎義連
上総広常は、やはり2万騎を引き連れて、頼朝軍の挙兵初期に重要な役割をなしただけに、前回のblogで描いた参陣時に頼朝に怒られた時こそ、しおらしかったのですが、その後はダメでした。

頼朝が鎌倉入りの後、三浦一族が頼朝を自分達の本拠三浦半島に招いた時、以下のような横柄な態度は有名になりました。

まず、三浦一族の館に頼朝が到着時、全員下馬して頼朝への礼を取ったのに対し、先に三浦一族のところに郎党らと一緒に来ていた広常は、「義朝、義平、頼朝と源家三代に渡り、そのような礼は取ったことが無い」と主張して、下馬の礼を取りません。

次に、頼朝歓待の酒宴の席で、岡崎義実が、息子佐奈田与一の石橋山合戦での落命に落ち込んでいるのを見かねて、頼朝が自分の水干(すいかん)を義実に与えました。ところが、その水干を広常は強引に横取りし、「このような老いぼれ(義実のこと)に与えてもしょうがないだろう。むしろ俺のような役に立つ者にこそ与えるべき。」と自分も高齢なのに吐いた暴言で義実と大喧嘩に成りそうになったということです。

前々回のblogに出て来た三浦一族の佐原十郎が仲裁に入り、何とか押し止まりました。(絵⑧)
⑨上総広常の屋敷があった朝比奈切通しの滝

この一連のやり取りを黙って見ていた頼朝は、後日佐原十郎を褒め、かつ寵臣に取り立てるのです。

多分、これだけではないのでしょう。
広常の尊大な態度が、頼朝を困らせていたのだと思います。

そこで、立ち上がったのが梶原景時です。

現在の朝比奈切通しの滝(写真⑨)近くにあった広常の屋敷に、あるモノを持参して訪問します。

「京の雅(みやび)な遊びで、今大流行している双六という遊戯ですぞ。」(写真⑩)

この頃に近い白河法王が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心に叶わぬもの」と語ったというのは有名ですが、それ程、この当時流行っていたようです。

⑩平安末期の双六(すごろく)
後の時代の、紙上で、コマをサイコロの目の分だけ進ませるという双六とは違い、現代で言うbackgammonのようなルールでした。

当然、賭ける訳です。

広常は直ぐに、この景時の持って来た双六にハマります。激しやすい感情型の広常ならきっとハマるだろうというのは景時の計画内です。

ゲーム当初、景時は広常を勝たせ続けます。

気を良くした広常に対し、途中から景時は本気で行きます。そのうち広常は負け始め、急激に機嫌が悪くなってきます。まるで高いところから急に突き落とすような感情の変動を故意に起こすのです。

ついに、「景時、てめえいかさま使ってるな!」といつもの暴言。

「使える訳ないじゃないか!貴様こそ、いつもそうやって人を罵倒し、我々の輪を乱す馬鹿者だ!」と景時が叫ぶと、「なぬっ!」と広常は、刀の柄に手を掛けます。

⑪梶原景時が上総広常を斬った
刀を洗った「太刀洗の水」
次の瞬間、景時の刀が一瞬光ったかと思うと、広常の首が双六盤の上にドシャと落ちます。そのまま、景時は庭から広常の屋敷を優雅に出、近くの清水で広常の血に塗られた刀を綺麗に洗い、鞘に納めます。(写真⑪)

そして何事も無かったかのように立ち去るのです。

現在でも、この朝比奈切通しの横を流れる綺麗な小川は「太刀洗川」という名前が付いています。(写真⑫)

双六に興じた上での事故、しかも正当防衛であるかに見せかけた梶原景時の計画、見事だと思います。

しかし、こんな梶原一族も、頼朝が落馬して死去すると、汚れ役だっただけに、急に立場が悪くなります。

結局、また三浦一族ですが、三浦義村、和田義盛らをはじめとする諸将に鎌倉の政所を追放され、相模の自領に引っ込みます。

⑫朝比奈切通しの川は、広常を斬って
以降太刀洗川
そして、景時・景季親子を含む一族は、上洛し生きて行こうとします。

ところが、上洛途上、駿府の国の山中にて在地の武士に襲われ、奮戦するも敵わず、景時・景季親子は自害、一族33人も討ち取られてしまいました。

頼朝を助けた箱根の山に近い駿河国の山中で、梶原一族が滅びたことは、何らかの因果を感じずにはいられません。

彼は頼朝を箱根山で助けた事は、梶原一族にとって本当にラッキーだったのでしょうか?

5.おわりに

さて、この番外編を「〇〇と愉快な仲間たち」を文字って「頼朝と愉快でもない(?)仲間たち」とさせて頂いたのは、ここに出てくる人物(源義経、弁慶、佐々木高綱、梶原景季、梶原景時、上総広常)という頼朝の旗揚げ時から絡む取り巻きの中で、唯一最期までまともに生き抜いたのは佐々木高綱だけだからです。他は大体嫌疑を掛けられ殺されるという悲劇の中の人です。それはやはり「愉快でもない」人たちだったと思うのです。

⑬宇治川合戦の一番乗りの佐々木高綱
こんなに矢が飛んでくるのによく
生還できますね。       
一応、「(?)」を付けたのは高綱が居ますので・・・。

余談ですが、佐々木高綱の末裔は、明治の大将 乃木希典(のぎまれのすけ)や吉田松陰の師匠玉木文之進(たまきぶんのしん)等なのです。この辺り実は私の遠戚らしいので、高綱が生き抜いてくれなかったら、私がこうやって呑気にblogを書いていることが出来なかったかも知れません(笑)。

話戻りますが、このように鎌倉時代に、人から誤解を受け、人に依って簡単に殺されてしまった時代に比べれば、多少、会社から、近所から、妻・子供から(?)誤解を受けたところで、これらの「愉快でもない」彼らよりは、余程毎日を感謝して過ごさなければならないと思いませんか?

長文ご精読ありがとうございました。またこの頼朝時代の三浦一族シリーズも、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

また他の時代の三浦氏の話をいつか再開します!引き続き宜しくお願いします。

【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【馬頭観世音】神奈川県横浜市港北区鳥山町
【佐々木高綱屋敷跡(現 鳥山八幡宮)】神奈川県横浜市港北区鳥山町281−3
【朝比奈切通し太刀洗の水】神奈川県鎌倉市十二所

三浦一族④ ~富士川の戦い~

前回まで頼朝が挙兵し、山木判官屋敷襲撃の成功、石橋山合戦での敗退と、一進一退を繰り広げ、源氏再興の緒戦が、三浦氏の衣笠城落城等も含め、決して楽なものでは無かったことを描きました。

しかし、それが、それまでお気楽な配流生活をしてきた頼朝の精神を強靭なものにしたようです。

では、頼朝が石橋山合戦敗走後、真鶴から安房国(千葉県)に逃亡してきてから、義経らに平家打倒の引導を渡すまで、つまり富士川の戦いまでを、ざっと見て行きましょう。(地図①)
①石橋山合戦場脱出後の頼朝の足取り

1.上総広常軍との合流


安房で三浦義澄や上総広常(かずさひろつね)の弟らの歓待を受けた頼朝ですが、僅か7人程度で安房国(千葉県)へ来た彼らは、三浦一族らを入れても100騎程度の小集団です。

平家の追手が来れば、即滅亡という危険な状況なのです。
②千葉城にある千葉常胤像

そこで、頼朝は迅速に動きます。まずは、千葉県の有力者、上総広常への援軍を、安房国で一緒に居た弟を介し要請します。そして地元千葉県のもう1人の有力者、千葉常胤(ちばつねたね)にも支援要請をします。(写真②)

千葉常胤は、即これに応じます。常胤この時62歳。三浦義明と同様、保元の乱等で頼朝の父義朝の家来として活躍した彼は、その貴種の旗揚げに感涙したとの話があります。

しかし、頼朝は爺さん泣かせですね。この後頼朝に従う上総広常も生誕年月は不詳ですが、多分常胤と同じ世代のようです。そしてそれらの有力爺さん達は、また皆頼朝の父親に非常に恩を受けているようです。このパターンは多く、これが頼朝が本拠を鎌倉に置かざるを得ない原動力となっているのです。

兎に角、300騎という兵力ですが、常胤も頼朝の元に馳せ参じます。
まだ寡兵ですが、頼朝は房総半島を北上します。(地図①参照)

不思議なのですが、合戦で敗軍の将となった人物に、その後の敗者復活戦で、これ程兵が集まってくることは珍しいのではないでしょうか?

「なんだ!やはり旗揚げ失敗か、鳴り物入りで、源氏再興と出た割に、頼朝は大したことないなあ。」と思うのか普通だと思うのですが、頼朝の場合何故かこの房総半島北上で、少人数づつですが、兵が集まってきます。

どうやら、負けても源氏再興という行動自体に、当時の武士たち皆が「いいね!」を付けまくったようです。それだけ平家一門ばかりに益の行く中央政権のやり方に不満を持った坂東武者が多かったことと、父、義朝の恩顧を受けた武将が多かったからでしょう。
③頼朝軍が渡河したとされる地点(白髭橋)

脱線しました。話を戻します。

そして、墨田河(現在の隅田川)の河畔に渡河のため、陣を張ったのが9月17日。(写真③)

当時の墨田河は現在の隅田川とは違い、江戸時代に水流を変更された利根川を源流に持ち、氾濫も多く、現在の川幅の2倍程度はあった大きな河だったと言われています。

既にこの時点で頼朝軍も数千騎まで増大。既に石橋山合戦時の軍勢を遥かに上回る数だったのです。
なので、渡河も結構大変ですし、一説には、墨田河の西岸には平家軍が構えていたというものがあります。そこでこの陣を張って滞留していたのです。

そこへ、兼ねてより支援要請をしていた上総広常が、なんと2万騎を引き連れて、頼朝の陣に参上します。
④参陣した上総広常

上総広常は馬上から、頼朝の家来に、「上総広常、2万騎を引き連れ参陣つかまつった。頼朝公ご照覧あれ!」と「ドヤ顔」で伝えます。

しかし、取り次いだ家来に頼朝は言います。

「遅参だ!追い返せ!引き連れて来た軍勢の寡多ではない。謁見する気はない!」

この言葉、家来が広常に取り次ぐまでも無く、陣外の広常や、弟を含む一族にまで聞こえていました。広常の顔色がさっと変わります。(絵④)

一族の中には、「頼朝の支援要請から2週間という短期間で2万騎を捻出するまでの苦労も知らずに、何てことを言うんだ。こんな生意気な若造、さっさとこの場で戦って首を挙げて清盛入道に差し出すべき!」と言う者も出る始末。中には、この侮辱的な態度に涙を流す者も居ます。

実は、広常も上総で2万騎集まった時点で考えました。「この兵力があれば、寡兵の頼朝なぞ簡単に打ち滅ぼせる。参陣した時に頼朝がどういう人物か視てやろう。大したこと無ければ、打ち滅ぼす。」と。

しかし広常は、この頼朝の超何様路線に心服してしまうのです。

⑤豪傑 藤原秀郷の大百足退治
それは、平将門の故事を思い出したからです。(平将門については、拙著blog「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご参照ください。ここをクリック。)

blogでも書きましたが、平将門とその従兄弟である平貞盛が対立した時に、豪傑 藤原秀郷はどちらに付くか悩みました。(絵⑤)

そこで秀郷は、大軍を率い、将門軍に参陣したところ、将門が嬉しそうにして出てきて、涙を流さんがばかりに秀郷の手を取り、「宜しく頼みますぞ!!」と本気で言ってきました。
ところが秀郷は「こらあかん!」とばかりに将門を見限り、逃げて平貞盛への陣へと鞍替えしたという逸話があるのです。

つまり、少しでも感情が支配する男は、指導者としてダメだと・・・。

この広常、次回の番外編にも書きますが、私から見てかなり感情的な武将です。老年だけあって、自分とは違う、この手の感情に支配されない人物が良く分かるのでしょう。

頼朝は合格です。感情に支配されない冷徹な指導者として。

上総広常は、その場で下馬し、地面に頭を擦り付けて平伏します。何時間も。

夜の帳(とばり)が降りる前、頼朝は陣所から寝起きする近くの民家に移動しようとすると、1人平伏したままの武将が目に入ります。

「あれは誰ぞ?」と周りの家来に尋ねると、「今朝方参陣し、謁見を所望した上総広常です。」と。

⑥関東勢力図
※Wikipediaより
頼朝は、広常に近づき、

「私と一緒に行きましょう。貴殿の心は良く分かり申した。」

と優しく言い、自ら広常を抱き起し、自分の駿馬に乗せて宿所まで手綱を自ら曳こうとします。

この緩急極まる頼朝の行動に、広常は増々心服してしまい、この話を周囲に漏らすと、あっという間に坂東武者の間に広まりました。

2.鎌倉入り

さて、この頼朝美談が広まったお陰でしょうか?

千葉県の有力者2人を従えて、墨田河を渡った頼朝には、あの畠山重忠や、河越・江戸氏など、三浦義明を衣笠城で討ち取った面々も味方に付きます。(地図⑥)

畠山さん、そりゃあないでしょう。だって1か月前だよ。頼朝軍の三浦義明を斬首したのは!

と言いたくなりますが、その当時の「大人の事情」って奴ですか?ちょっと理解し難いですが・・・。

また秩父平氏等、武蔵国の有力者を皆従えます。実はこの時、墨田河渡河から2週間も、東京の都心部に滞留して、武蔵国連中の参陣を待つのです。頼朝軍は5万にまで膨れ上がりました。(注:兵数については諸説あります)

⑦亀ヶ谷切通し(鎌倉)
もしかしたら、このまま江戸を本拠にするつもり・・・・?

な訳はありません。やはりそこは500年後の家康に渡して(?)、鎌倉に向かうことが決定しました。前にも述べた通り、千葉常胤、上総広常等、頼朝の父義朝の恩寵に付した有力者ならびに亡き三浦義明の嫡男義澄ら、付き従ったもの全員、義朝の住んでいた鎌倉が源氏の古里との意識が高く、これを活用しない訳には頼朝としてもいかないでしょう。また、頼朝はそういう配慮は、もし誰も進言しなくても決して欠かさない漢でした。

そこで、当初、鎌倉は義朝の屋敷のあった亀ヶ谷という、現在でも「亀ヶ谷切通し」で有名な狭い土地に屋敷を建てて住もうと考え、調査します。(写真⑦)

しかし、そこではあまりに狭く、行政をするには不向きな土地であったため、頼朝は断念しました。

頼朝は実は蛭が小島に居る時から、武士の行政組織の構想を持っていたらしく、それを実行するため、鎌倉の土地を上手く利用します。

つまり、まず武士の精神的支柱として、鶴岡八幡宮を鎌倉の中心に据えます。若宮大路を鎌倉海岸から山側奥に通し、その東側に、政所をはじめとする行政機能を作るのです。頼朝の屋敷も勿論その近くに建てます。

⑧ご存じ鶴岡八幡宮
行政機能等を設計する論理性、それと相反するように見える鶴岡八幡宮等の精神性、この2つをバランス良くミックスできる冷静さが頼朝の素晴らしいところなのでしょう。(写真⑧)

3.富士川の戦い

さて、頼朝最後の出陣となる富士川の戦いです。
(地図①参照)

実は石橋山合戦後で、頼朝がまだ生存しているとの噂を聞き、この合戦の大将である大庭景親はがっかりします。しかし、彼は合戦の一週間後、1180年9月1日には京の清盛へ向けて頼朝挙兵、討伐軍を送るよう連絡を入れているのです。

平清盛は「あの恩知らずめ!!」(`A´)と、討伐軍を9月5日には組織するのですが、この頃平家は、清盛以外は既に京の雅に馴れきっていて、討伐決定は早かったのに、出陣の吉凶を占い、9月22日予定が29日予定になるなど、悠長なものでした。

これでは、頼朝が鎌倉に入り、源氏勢力の拡大基盤の時間まで与えてしまいます。大変な失策ですね。

平維盛(これもり)を総大将とした平家軍は7万と言われますが、当時西国は飢饉があったようで、なんとか掻き集めた烏合の衆でした。

それに比べると源氏は、人気絶頂の頼朝のところで出せる軍が20万。まあ、数は吾妻鏡や平家物語等大袈裟なところはありますが、重要なのは、中央政権より多くの兵が出せた、この復活ぶりです。大体、こういう上がり調子の時には絶対負けないものですよね。
⑨富士川(武田軍の渡河場所?)

また、木曽義仲や甲斐源氏の武田信義(たけだのぶよし)等も盛んに活動を開始しています。後に木曽義仲が平家を京から追い出しますし、武田信義は、この時頼朝と組んで、富士川を源氏軍の最前線として対峙するお膳立てをします。

多分、富士川で対峙することに決まったのも武田軍が、甲斐から駿河へ侵攻する時は、大体この身延山から富士川沿いを下ってくることが多いので、その要因が大きいのではと思います。

400年後に、武田信玄が駿河の今川氏真を攻める駿河侵攻時もこのルートでした。(拙著「北条氏康の娘たち② ~早川殿~」の地図⑤等を参照)

10月18日、武田軍と合流した頼朝軍は、あまり戦意の出ない平家軍と、富士川を挟んで対峙します。(写真⑨)

⑩富士川沿いに布陣する源平
武田軍は平家軍の裏に廻り退路を断とうとするが
水鳥の群れに遭遇。飛立つ音で平家軍は撤退
この最初の源氏本体と平家本体がぶつかりあう源平合戦の矢合わせを10月24日と決めます。

ところが、活発に活動する武田信義は、この24日の戦が始まる前に、平家軍の布陣の更に西側に自分達が布陣することで、平家軍の退路を断ち、平維盛らを殲滅しようと考えます。(地図⑩)

そこで、4日前の20日夜半に、富士川の上流側を、そーっと渡河するのですが、水鳥の群れをたたき起こしてしまい、バタバタと夜中に飛び立つ水鳥の音に、平家軍が一斉に「頼朝軍が攻めてきたあ!夜襲じゃ、夜襲じゃあ!」と言うことで、殆どの装備品やら雅なものやら(歌仙道具、扇子等々)を残して撤退した話は有名です。

実際には、水鳥が飛び立つ音で、敵の来襲を感知するように平家側が仕向けていて、来襲時に戦準備が出来ていなかったので、撤収したと言う説もあります。

まあ、いずれにせよ、平家が京の雅に馴れきっていて、泥臭い戦が出来なくなっていたのは事実なのでしょう。

4.義経との対面

さて、源平合戦で大活躍する義経はどうなったのでしょう?
この富士川の戦いの後のタイミングで、義経が頼朝の陣営に訪ねてきます。
⑪頼朝と義経が対面したという対面石

義経は奥州藤原秀衡を頼り、源氏再興を夢見て身を寄せていましたが、兄である頼朝挙兵の話を聞いて、急ぎ富士川に来るのです。

涙の対面石という史跡が沼津市の近くにあります。(写真⑪)

富士川からは少し離れていますが、後方部隊ということで、ここの黄瀬川という河畔に、頼朝が陣を敷いていたという話です。

ここで頼朝は、「おおっ、きっと参陣してくれるであろうと兼ねてから思っておった。貴殿を忘れたことは1日とて無い。こんなに嬉しいことは無い。共に戦おうぞ!」と涙を流しながら、義経の手を取ります。

義経も頼朝の手を握り返しながら、「私も鞍馬山へ預けられ、後に奥州にて源氏再興を夢見る中で、いつも兄上の事を考えておりました。」と涙ながらに応えるのです。

このシチュエーション何かに似ていませんか?そうです。先程の平将門が藤原秀郷の手を取り、「宜しく頼みますぞ!」という場面です。

この2つのシチュエーション、似て非なるものであることは、後程解説します。

⑫頼朝と義経の対面石の義経の石に座る猫殿
※私は頼朝の石に座って涙の対面です(笑)
この「涙の再会」以降、源平合戦の主役は義経に移ります。

義経の活躍については、拙著「一の谷の戦い① ~逆落とし~」からの3シリーズをご笑覧いただければ幸いです。(リンクはこちら

5.おわりに

頼朝の上総広常に対する緩急入り乱れた態度は、やはり故意なのでしょう。

そういった自制が出来ることは、新しい体制を作る人物には必要な資質であり、少しでも感情的な人物は義経であれ、この上総広常であれ、最後は滅ぼされています。

もっと言ってしまえば、平家も感情的な人物が多いため、最後は滅ぼされます。

先程の平将門の例ですが、将門が秀郷に「宜しく頼みますぞ!!」と涙を流さんばかりに本気で言った将門を、秀郷は感情に流されやすく、指導者としての器ではないと見抜きました。

しかし、義経は頼朝が「共に手を取り合って戦おうぞ!」と感涙してみせた時に、これが感情から来るものではなく、冷徹で緻密な計算の上に成り立つものだとは見抜けなかったのでしょう。頼朝の涙は、本質的に将門のそれと違うのだと思います。

結果は、秀衡は将門と共に敗れることにはならず、義経は惨憺頼朝に使われた挙句・・・。

上総広常に頼朝の冷徹さが見抜けて、義経に見抜けなかったのは、老練か若いかの違い、または血縁の関係の有無でしょう。まあ、見抜けても、見抜けなくても、結局どちらも頼朝に利用されて、終わりました。
⑬頼朝・義経兄弟の黄瀬川河畔での対面(絵)
しかし、感情的な人物は、そうでない人より、人間的には魅力的に見えることも多いから不思議です(笑)。

あなたはどちらのタイプだと思いますか?

勿論、人間性の一面だけを捉えて、全部のように書いていることは色々と誤解を生じるかも知れません。ただ、歴史を紐解くと、この辺りの性格の違いが覇者と滅ぼされる者の違いになっていることがあるようにも思うのです。

長文ご精読ありがとうございました。
次回は、幾つかの武将等の番外編をお送りしたいと思います。

【源頼朝上陸の碑】千葉県安房郡鋸南町竜島
【墨田河渡河想定地】東京都荒川区南千住3丁目38
【亀ヶ谷切通し】神奈川県鎌倉市 扇ガ谷3丁目11−7
【対面石】静岡県駿東郡清水町八幡39


三浦一族③ ~衣笠城落城~

①畠山重忠と三浦軍が戦った小坪の海岸
頼朝たちが石橋山合戦で敗走し、箱根の山中を逃げ回っている間、酒匂川で足止めを食らっていた三浦軍はどうしていたのでしょうか?

今回は、三浦一族の石橋山からの行動について描きたいと思います。

1.小坪合戦

石橋山方面へ向かう三浦軍は、小田原手前の酒匂川の増水により、行く手を阻まれ、仕方なく、軍の周辺、酒匂川の東側(寒川町、茅ヶ崎辺り)が大庭景親の所領であることから、建物に火をかけて廻ったことは、前回描いた通りです。

しかし、8月23日の暴風雨の中、大庭軍が頼朝軍へ攻撃を強行し、頼朝軍が敗走した情報は、三浦軍にも24日未明には伝わります。

②三浦軍の動き(右上)
頼朝の生死も分からない中、三浦義明とその息子、義澄(よしずみ)は、とりあえず衣笠城へ戻り、情勢を見極めようという結論に達し、軍勢を退却させるのです。(図②)

三浦軍が海岸沿いに軍勢を進め、鎌倉由比ガ浜の小坪海岸まで戻ってきたところで、この時平家方の畠山重忠の軍勢が追い付いて来ました。

畠山重忠、私のblogには3回目の登場です。「一の谷の戦い① ~逆落とし~」でも書きましたように、義経の鵯越の時に、「愛馬三日月が可哀想だ!」と、重忠自身が自分の馬、三日月を背負って降りた話は有名です。(写真③)

畠山重忠、この時は源氏側ではなく、平家方でした。それは彼の父親が清盛に仕えて在京中だったからです。

しかし、武蔵野国から大庭軍へ参陣した畠山重忠に対し、大庭景親は意地悪な指示を出します。

「退却する三浦軍勢を追撃せよ。」

というものです。畠山重忠の母親は三浦義明の娘、つまり三浦義明は畠山重忠のお爺ちゃんなのです。

鎌倉小坪海岸で、三浦軍とにらみ合いとなった畠山重忠は、三浦義明と和議を結びます。重忠としては、無碍に祖父との戦をしたくは無かったのでしょう。

③鵯越で愛馬を担ぐ畠山重忠
そして、三浦軍は衣笠城へ、畠山重忠は武蔵国へ戻ろうとした所に、三浦軍本体とは別のルートを通って衣笠城へ戻ろうとしていた別働隊(和田義盛(わだよしもり)の弟部隊)が、畠山軍が三浦本軍と交戦中と勘違いし、喚き散らしながら畠山軍へ突入して来ました。

畠山重忠も、これを見て、「折角、親族の情を掛けてあげたのに、和議と見せかけ、騙し討ちとはなんと卑怯なやり方か!」と激怒し、結局、この小坪で両軍は戦闘を開始してしまいます。(上の写真①参照)

畠山軍の方が約2倍の軍勢で、三浦軍に襲いかかりましたが、三浦軍は、個別に小隊に分かれ、小坪より丘陵地へ逃げ込み始め、追い縋る畠山軍には、引きながらもゲリラ的に攻撃を仕掛けてくるのです。

この辺りにお住まいの方なら分かると思いますが、三浦一族の住む三浦半島一帯は、海蝕が進んだ急斜面を持つ丘陵地帯が連続する土地です。

三浦一族の中で、鵯越を真っ先に駆け下ったことでも有名な佐原十郎義連(さはらじゅうろうよしつら)は、鵯越の急斜面にビビる諸将を見渡し、「こんな崖、三浦では朝夕毎日駆けている馬場みたいなもの、楽勝だね!」と言って、義経より一歩先に崖に飛び込みました。

このように、山岳形態に馴れた三浦氏ではありますが、そのような険しい地形が三浦半島はどの辺りから始まっているかというと、ちょうどこの小坪から始まっているのです。(写真④)
④小坪の海蝕丘陵

一方、畠山軍は、武蔵野国(今の埼玉県)の広々とした平地育ちですし、この辺りの土地は三浦氏に比べると殆ど何も分かっていません。畠山重忠が「馬が可哀想だ」と鵯越で馬を負武う程、急斜面に馴れていないので、追撃は失敗します。

三浦軍は、結局大した損害を受けずに衣笠城へ逃げかえることが出来たのでした。

3.衣笠城落城

さて、この戦ぶりで、畠山重忠は、三浦一族に対する誤解が更に昂じ、怒りプンプンになってしまいます。
親族である三浦氏に情けを掛けて和議に持ち込んであげたのに、裏切る上に、小馬鹿にしたようなゲリラ戦。

三浦義明らは、小馴れた土地での戦で、かなり余裕があったのだと思います。
逆に、孫である畠山重忠を殺さないように配慮したことが仇となったようです。

⑤怒田城址
本丸の向う側は現在久里浜駅
方面であるが当時は海だった
誤解の解けぬ畠山重忠は、三浦一族の主城である衣笠城を攻め落とすことにしました。

彼は、8月26日、自軍の体制を立て直すと、同じ武蔵国の河越(川越)氏、江戸氏らと協働し、数千の兵で衣笠城を目指し進軍します。

この畠山重忠らの攻撃に対し、三浦一族の間でも、迎撃に対しての議論が行われます。

一族の和田義盛は、開口部が多い衣笠城よりも、三方を山に囲まれ、一方が久里浜の海に開いた怒田(ぬた)城の方が守りやすいと主張します。(写真⑤)

しかし、三浦一族の宗主である義明は言います。

「我々三浦一族は、今この時、日本国の軍勢を敵に回して討死しようという覚悟である。ならば一族を代表する衣笠城を枕に討死すべきである。」

彼の決意に基づき、三浦一族は房総半島から駆けつけた上総広常(かずさひろつね)の弟らも、一緒に衣笠城に立籠もりました。
⑥衣笠城の物見岩
※ここの私が座っている辺りから経筒等が
大正時代に発見されたそうです

衣笠城跡からは、平安末期の経筒等が発見されており、この城は、防衛拠点という機能だけの城ではなく、三浦一族の心の拠り所となっていたのでしょう。(写真⑥)

さて、軍勢数千の畠山・河越・江戸連合軍が、衣笠城500の兵に襲いかかります。

三浦軍は奮戦しますが、やはり寡兵、矢も尽き、もはやこの城もこれまでという時に、義明は、残る三浦一族らにまた言います。

「良くここまで戦った。お前たちは、急ぎこの城を退去し、頼朝様の安否を確認せよ。
私は累代の源氏に仕えてきた者として、この歳(89)にして、幸いにも源氏再興の機会に巡り合うことが出来た。これ程喜ばしいことは無いであろう。
自分がこの先、生きられる年月は短い。そこで、自分は老いた命をここで頼朝様に捧げ、子孫の手柄にしたいと思う。
自分1人でこの城に残り、偽って兵が沢山いるように見せかけ、見事全軍が退去できるよう奮闘しよう。」

三浦義澄や佐原十郎、和田義盛ら一族は、これを聞きながら泣きますが、義明の源氏再興への命を懸ける熱意にほだされ、「きっと頼朝様はご無事です。源氏再興のために、命を懸け奮戦します。」と言い残し、26日の夜陰に紛れて、怒田城へ移動します。

そこに、頼朝宛てに出していた何人かの密使の1人が、平家の厳しい監視下にある陸路を避け、湯河原から相模湾を横断し戻ってきました。

そして、頼朝が土肥実平の領内に逃げ込み、「しとどの窟」にて平家の目を盗み隠れ、無事であることを伝えると、三浦一族は「おおっ!」と歓声を上げます。
⑦旗立岩

早速、義澄はまた命がけの密使を、相模湾を西へ、湯河原から「しとどの窟」へと行かせ、以下の主旨の文書を持たせます。

「房総半島は安房に、お迎えの準備が出来ておりますので、至急海上を使い、安房迄お越しください。我々もそちらでお待ちしております。」

一方、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをするのでした。(写真⑦)

この時間を有効に使い、三浦義澄ら一族は、怒田城近くの久里浜から房総半島へ、頼朝を迎え入れる準備に、上総常広の弟らと船を漕ぎだすのです。

翌朝、明るくなった空の下で畠山・河越・江戸の連合軍は、初めて衣笠城がもぬけの殻である事を知ります。

⑧三浦義明(平家物語)
そして、1人城の奥で、カカカと笑う不気味な老人を見つけます。

「どうせなら、孫の畠山重忠の手に掛かり、冥途の土産話にしたいものよ。」

と血走った目で言うのを将兵らは聞いて、「すわ、畠山公の祖父ということは、こやつは三浦義明であるぞ。素首刎ねよ!」と襲いかかります。

齢89歳の高齢等吹き飛ばしてしまうような気概の持ち主、三浦義明。(絵⑧)

最期まで華々しい活躍の武将でした。

4.おわりに
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結局、義澄らが送った密使により、28日頼朝らは、湯河原の「しとどの窟」を出て、真鶴岬へ向かいます。そして、土肥実平らが用意していた小舟で戦場を脱出し、かねてより三浦一族と約束していた安房の鋸南町竜島に上陸するのです。(写真⑨)(戦場脱出のルートについては、前回の図、こちらを参照)

三浦一族、とりわけ義明と佐奈田与一の命を懸けた行動で、頼朝のピンチの5日間は過ぎ去りました。

⑨千葉県鋸南町にある頼朝上陸記念碑
石橋山合戦での敗走後の5日間、頼朝たちも箱根の山々を逃げ回り、大変な思いをしながら、安房に脱出してきましたが、これを喜び迎えた三浦一族らも、小坪合戦、衣笠城落城と目まぐるしい運命の変化の渦に巻き込まれているのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

三浦義明が命を捨ててまで守った頼朝。

義明は若い頃から、頼朝の父、義朝(よしとも)と行動を伴にし、保元の乱等で活躍します。また、この後に、幕府が開かれた鎌倉も、元はと云えば、義明が義朝を、ここに手引きし、住まわせたことが発端なのです。(後、頼朝が父が住んでいたことを理由に、ここに幕府の礎を築くのです。)

更には義明の娘を義朝へ嫁がせ、義朝の長男、義平を産ませている等々、義朝と義明の間柄は相当深く固い同志の絆があったのではないかと思われます。

三浦義明にとって、義朝の三男の頼朝は、亡き父義朝と走り回った夢のある壮年時代を彷彿させるものがあったのだと思います。ですので、義明は頼朝に賭けたのです。

義明は、頼朝が蛭が小島へ流され、旗揚げするまでの20年の間に、彼と何度か会って、「こやつならやれる」と、源氏の貴種たる才覚を頼朝に見出していたのではないでしょうか。そして、その話を北条時政にもし、時政をこの旗揚げの後見人に仕立てる程にしたのも、もしかしたら三浦義明なのかもしれません。
⑩満昌寺にある三浦義明の墓

私がそう考えた根拠は、石橋山合戦で北条時政の嫡男が討死したことを始め、この後の平家討伐に於いても数多くの武士達が戦死しているにも係わらず、頼朝本人が直接係わる形でその菩提を弔う寺が建立されたのは、三浦義明のための満昌寺と、前回出て来た佐奈田与一と岡崎義実のための證菩提寺(写真はここをクリック)の2つしか無いのです。(写真⑩)

頼朝も源氏再興の心の拠り所としたのは、三浦義明だったのでしょう。

石橋山合戦での苦しい経験と、心の支えであった三浦義明亡き後、頼朝は正観音を握りしめ、祈るというようなイメージの人物とはうって変わり、源氏の統領としての風格と威厳を発揮していきます。

お読みいただき、誠にありがとうございました。

【小坪合戦場】神奈川県逗子市小坪5丁目14−7
【衣笠城址】神奈川県横須賀市衣笠町29
【怒田城】神奈川県横須賀市吉井1丁目-1-23 
【源頼朝上陸の碑】千葉県安房郡鋸南町竜島
【満昌寺】神奈川県横須賀市大矢部1丁目5−10