マイナー・史跡巡り: 松姫と八王子① ~武田家の滅亡~

土曜日

松姫と八王子① ~武田家の滅亡~

前回、北条氏の滅びの象徴として、八王子城を取り上げました。実は八王子は北条氏が滅びることに関係が深いだけでなく、武田家の滅亡ともゆかりの深い土地なのです。

滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~

まっぴ~
今回、武田家の滅亡を松姫にスポットを当てて書いてみたいと思います。

この方、普通のお姫様とは違います。滅亡の中でこそ、燦然と光を放つ活躍をしたこのちょっと変わったお姫様について調べてみました。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.松姫

はい、松姫。右の写真です。

「ふざけるな!」と怒られそうです。どう見ても着物ではなくて、ドレスですよね?第一、頭についているのもティアラでは?日本のお姫様というより、西洋の女性?とにかく、滅亡とか悲劇の匂いは全く感じられません。

このゆるキャラ、「まっぴ~」こと松姫です。八王子市のゆるキャラの一人です。

松姫をゆるキャラにと発想された八王子市職員の方は、歴史通と思いましたが、そういえば、最近三谷幸喜監督の映画「清州会議」では剛力彩芽が、この松姫を演じて、かなり微妙な雰囲気が有名になりましたね。

剛力彩芽が演じる松姫(映画「清州会議」)
それから、昔(昭和61年頃?)TVドラマ「おんな風林火山」で岡田奈々や鈴木保奈美が演じていました!

そう考えると松姫自身は、全然マイナーではないです。

と思いましたが、この姫は調べれば調べる程、興味の湧くキャラクターで、また感動的な人物である割には、やはり世間からの注目度は少々低いように見えたので、続きを是非書きたいと思います。笑

少し長くなるので2つにブログを分けて話を書きます。

前半は、武田家の滅亡とその中の松姫、後半は滅亡直後の松姫の八王子へ至る脱出ルートについて書きたいと思います。

2.武田氏の滅亡

さて、1575年 長篠の戦で、当時最強軍団であった武田の騎馬隊を、柵の後ろの三列からなる鉄砲隊が、交代交代で鉄砲をつるべ打ちに打って、大勝利を収めた信長の話はあまりに有名です。
 
武田二十四将
確かにこれが武田家の滅亡に繋がって行ったのは間違いないでしょう。

武田信玄を支えた二十四将のうち、重鎮の家臣たちは殆どが玉砕。勝頼の側近との対立でそのようになったとの説が有力です。

長篠の戦いの後、織田信長は「武田家は放っておいても内部から崩れ去る」と言い放ったようですが、まさに重鎮の消滅した武田家という大木は、中からどんどん腐り、残った武将は猜疑心と不忠の塊状態になっていたのです。

長篠の戦から7年後の1582年、信長が、武田勝頼を滅ぼすために木曽路から伊那を経て、甲州街道沿いに甲斐に攻め入った時には、それこそ、朽木を倒すが如くでした。

次々に、かつての勇猛果敢だった家臣たちが武田家を寝返り、寝返れば許されるかというと、片っ端から信長に断首されたという崩壊の中で、武田家は田野の天目山で滅びるのです。

そんな情けない最期の家臣団の中にも、一人寝返ることなく、城を枕に玉砕した稀有な武将が居ました。

3.高遠城からの脱出

その武将の名前は仁科五郎盛信です。

盛信は母方は違えど、信玄の子なので、武田勝頼とは腹違いの兄弟です。

松姫とは母方も同じ兄弟です。

織田軍の甲州征伐が開始された頃、松姫はこの頼りになる兄の高遠城に身を寄せていました。

ここまでの松姫のトピックを簡単に書くと、1561年に誕生。この時信玄は川中島の戦いで上杉謙信と交戦中であり、誕生の報告を大きな松の木の前で聞くと、「よし!この戦、大勝間違いなし、子にはこの松にあやかり松と付けよ」と言ったとか。

それで松姫となりました。

信玄は松の木が好きですね。多くの戦場に「旗立ての松」という松の木があります。
あの有名な孫子の旗「風林火山」がそこに建てられたのです。
仁科五郎盛信(松姫の兄)

1568年 織田信長は一番恐れる信玄の懐柔作戦に出、信長の長男信忠と信玄六女の松姫との政略結婚を図ります。

松姫7歳、信忠11歳で婚約の儀を結びます。

当時信玄の古府中(甲府駅の北、武田神社のあたり)近くの屋敷に居住することとなった松姫は、逢わずとも婚約者である信忠に淡い憧憬を抱いていたようです。

ところが、この直後、信長のロボットとなって面白くない傀儡将軍の足利義昭が信長追討令を信玄を含め、あちらこちらに出します。

信玄は勿論上洛の欲があったのですが、松姫の件もあり、義昭の追討令が出ても直ぐに信長と敵対することとは躊躇しておりました。

このように信長に抑えられていた信玄は、やはり少々上洛のための更なる口実が欲しったのではないでしょうか?

更なる口実、ありました。比叡山焼討です。やはり信玄坊主と言われただけのことはあります。

流石に日本国の仏法に逆らう信長を生かしておくわけにはいかん!

と信玄が言ったかどうかは別として、この翌年の1572年、上洛を開始しております。

遠州 三方が原で織田・徳川連合を破った信玄は、松姫と信忠の婚約も破ったことになります。

松姫11歳、信忠15歳、思春期に入り始めた頃ですね。多感な松姫は以下のように、まるで未亡人のような落ち込みようだったと古文書の記録にあります。

 「生レテ容色志操アリ、、略、、居止言行孤孀ノ者ノ如シ」(信松院由緒記)

この状況の中、心の支えとなってくれていた、父信玄も上洛途中の野田城攻め後に病気で亡くなります。
織田軍甲州征伐経路

更に落ち込んだ松姫を、やさしい兄の盛信は、自分のところに保護します。まだ15歳の兄ですよ。しっかりしてます!

さて、この兄盛信はそれから7年後、22歳で高遠城主になります。

3つ年下の松姫も美人の名高く、城下でも噂されたそうです。ある意味松姫にとっては幸せな日々だったのかもしれません。

しかし、そうは長くこれらの日々は続かないのですね。長篠の戦い後7年、盛信が高遠城主になって2年後、織田軍が甲州征伐を始めます。

甲州征伐は、今の中央高速自動車道路沿いに行われるとお考えください。(右上図)

木曽義昌の織田方への寝返りで開始された甲斐征伐、木曽から諏訪湖方面へ駆け抜ける織田軍に、武田支配下だった豪族は次々と投降していきます。信玄公の頃の結束は全くありません。武田二十四将は崩壊していたのです

そんな中、唯一圧倒的な信長軍に対して、厳然と抵抗した唯一の武将がこの若き盛信です。穴山梅雪等、古老の武田家血縁筋が平然と裏切る中、若いのに大したものです。流石松姫の兄です!

盛信は、わずか3千の手兵を持って敢然と織田軍3万の大軍を迎え撃ちました。しかし、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3月18日に高遠城の城頭の花と散り果てます。

高遠血染め桜(と太鼓櫓)
ただ、松姫をこの1か月前の2月の頭には、逃がしているのです。この時盛信の4歳になる督姫も連れての高遠城脱出となりました。

このタイミングの良さ。もう少し遅ければ、女性と、幼い姫を連れて逃げるのは、幾ら高遠城が玉砕する程の抵抗を見せても、3万の軍に押し切られ、その後に追いつかれてしまうリスクを考えてのタイミング調整だと考えられます。

流石、信玄公の血筋、盛信ですね。

さて、城頭の花と散った彼らの血を吸った高遠城は、その後、植えた桜がその血を吸ったせいか、赤めの桜が咲くということで、「高遠血染め桜」という名桜が出来ました。それは本当に「タカトオコヒガンザクラ」という小ぶりながら赤みが強い桜の品種を作ってしまった程の凄惨を極めた凄い戦いとなったようです。

実際高遠城の血染め桜を見てきましたが、確かに少々赤みがありますね。
ただ、正直「血染め桜」というくらいだから、桃の花位赤いかなと想像していました。

お花見で楽しく盛り上がっている本丸の、その桜の横の小さな看板に、「盛信は最期に、腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てた」と記載がありました。凄まじい死に方です。

4.その後の松姫の逃亡と武田家の滅亡

さて、下の図は、高遠城を松姫が出発してから、八王子にまで逃げるルートを示した図です。
 


高遠城から盛信の四歳の娘を連れて、脱出した松姫は、杖突峠(右下写真)を経て、勝頼が造った新府城に到着します。

杖突峠から新府城方面を臨む
脱線しますが、武田信玄は、「人は石垣、人は城」とか申して、領内である甲斐の国には城を造らなかったと言われています。

「攻撃こそ最大の防御」ということで、他国を攻めることこそ、自国を守る上策という訳です。

ただ、こんなカッコいいことを言えるのも、武田家臣団の強固な結束があったことの現れです。

長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、その後どんどん家臣団との結束は崩れ、その象徴が新府城です。城を造らなければならない程、弱体化していました。

北条の小田原城は、北条氏の強みのシンボルでしたが、新府城は武田勝頼の弱みのシンボルですね。

新府城本丸
高遠城が落ちたと聞くと、武田勝頼は、もとより新府城に籠城し、織田軍と戦う気力もありません。

上杉景勝に援軍をお願いしていたのですから、しっかりとした信頼関係が築けていれば、新府城に籠城し、上杉軍が駆けつけてくれるのをじっと待つ という手もあったのでしょうが、彼はやはり父親とは違い、家臣団はもとより、人との信頼関係を築くのが下手だったのでしょう。

これは滅びる人物には必須の人格的要素であり、私はそういう人が実は好きですけど。

多分、高遠城を落とした織田軍が標高1247mの杖突峠から、松明の列を成して、甲府盆地に降りてくる遠望を、勝頼は新府城の窓から見て、伝統ある武田家の滅亡の危機をひしひしと感じたのでしょう。そして、自らまだ完成していない新府城に火を掛けます。

この時、勝頼の落ち延びる先として、名乗りを上げた武将が2人居ます。1人は真田昌幸、もう1人は小山田信茂です。真田昌幸は上州岩櫃城へ、小山田信茂は、大月市の岩殿山城へ落ち延びるよう勧めます。

最後の最後まで人を見る目が無かったのか、武田家の因に負けたのか、勝頼は小山田氏の方を選びます。小山田氏は、武田家とは古くから隣国同士で姻戚関係も深いのに対して、真田氏は、武田家にとって外様であり、信玄の頃にようやく家臣となったことから、やはり血筋で行ったのかも知れません。

返す返すも残念なのは、この時、あの徳川秀忠率いる4万の軍を2千の兵で長期間足止めした真田昌幸について行っていたら、また大きく歴史は変わったかもしれないですね!
昇仙峡

さて、岩殿山城目指して、落ち延びる勝頼一行は、上記地図の黄色いルートで織田軍から逃げようとするのですが、一時は昇仙峡の辺りに隠遁していたようです。あの風向明媚な昇仙峡でも、勝頼一行にとっては決して心安らぐ場所では無かったでしょう。

そして甲府盆地に戻り、石和を通り、勝沼を経て、これから小山田氏の領内に入ろうとした時に、小山田信茂の裏切りに合います。

もはやこれまでと、勝頼一行は、天目山にある栖雲寺を目指します。この寺は歴代の武田家の墓もあり、武田家の最期の地としてふさわしいこと、山奥なので、少人数でも敵と戦い易いことから選定されたと思われます。

ところが、今の笹子トンネルの辺り、笹子峠の麓の田野まで来ると、織田方の滝川一益の別働隊が待ち伏せておりました。この時勝頼一行はたったの43人。
千人切りの渓流

御旗(右)・楯無(左レプリカ)
(雲峰寺)
この時、土屋昌恒という家臣が渓流の断崖絶壁の場所で、一益の別働隊に対し千人切りという決死の働きをしたことで、時間稼ぎをしてくれました。

この時間稼ぎ中に、勝頼は何をしたかと言うと、右下の写真にある松の木に武田家代々に伝わる「御旗」を立て、「楯無」鎧を16歳の世子信勝に着せて、「環甲の礼」(甲州を治める権利を継承する)をにわかに行ったと伝えられています。

自分の代で武田家が滅びるのを見るに忍びないとの意識からでしょうか?

信勝もこの後直ぐに、滝川一益の軍と戦い、一番槍を先頭の敵兵に喰らわせると、勝頼が「あっぱれ、信勝!一番槍!」と言われたのが嬉しくて、笑顔を見せながら自害したとあります。
環甲の礼を信勝にした松

信勝の死が、武田家の実質的な滅亡です。

また、当時まだ19歳であった北条氏から勝頼のところに嫁いで来た北条夫人は、自害に当たり、以下の辞世の歌を残しています。

「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」

「黒髪の乱れたる」の辺りに、最期に臨んでも、若い女性としての自覚が自然に出ているところが意地らしく感じられます。ですが、まさに戦国時代という乱世を生き、そしてこの場所で散っていくことを潔く受け入れた、その立派さに心打たれます。

勝頼&北条夫人自害松(田野)
私の右の松が勝頼公自害石
左が北条夫人
この「環甲の礼」や辞世の歌は、今目の前で起きたばかりの事のように感じられ、誰も居ない寂しい田野の土地に、大きな喧噪がまだ残っているようにも感じられます。鎌倉時代から続く甲斐の名家が、何故か最大の勢力に拡張してから、1転して1代で滅びるとは、勝頼でなくても無念だったと、この場所で痛切に感じました。

このようにして、武田家は滅びるのですが、この時松姫はどうしていたのでしょうか。冒頭申し上げたように、八王子に逃げ切った松姫については、次回詳細を述べたいと思います。

【高遠城】長野県伊那市高遠町西高遠1806
【新府城】山梨県韮崎市中田町中條
【景徳院(田野)】山梨県甲州市大和町田野389