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土曜日

首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~

横浜市戸塚区にある護良親王の首洗井戸
さて、護良親王の首洗井戸について、このブログで取り上げたのを覚えておいででしょうか?

その時に、首洗井戸で洗った護良親王の首の行方や、それを騒乱の鎌倉から持ち出して脱出した雛鶴姫は、どうなったのか?を描くと言って、はや9か月(笑)。

かなり期間が空いてしまいましたが、レポートを再開したいと思います。

期間が空いたこともあり、今回から2回に渡り、主人公を護良親王ではなく、雛鶴姫にスイッチし、なるべく過去のブログを見なくても分かるように、遡って描くよう工夫します。

しかし、やはりこのブログを描いていると、どうしても前のシリーズを私自身が参照してしまうという事態が発生しています(笑)。

そこで、各所各所で、必要に応じ、前回、前々回のシリーズのリンクをしますので、お時間があればクリック頂き、該当箇所を並行して読んで頂けると理解が更に深まると思います。

1.十津川での出会い

20代前半で比叡山の天台座主を務めていた護良親王は、後醍醐天皇の第3皇太子です。
谷瀬の吊り橋(十津川)

後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対し、反幕府軍を組織し、挙兵しましたが、失敗に終わり、捕縛されます。

護良親王は、一計を持って、父である後醍醐天皇の救出作戦を展開します。

もう少しで成功仕掛けますが、世間はそんなに甘くなく、最後の最後で大失態を犯しました。(シリーズ①参照

折角、護良親王が組織した反幕府軍の再挙兵も大混乱、鎌倉幕府軍も再起し、あっという間に護良親王は鎌倉幕府軍に追われる身となりました。

京都から紀伊半島の吉野方面へ逃亡する護良親王を、鎌倉幕府軍は執拗に追いかけます。

途中、般若寺での3つの経櫃を上手く使った逃亡劇は、明治時代からの尋常小学校の教科書にも載ったエピソードとしても有名です。(シリーズ①参照

その後、護良親王は奈良県の十津川村で約1年間潜伏します。
黒木御所跡

有名な「谷瀬の吊り橋」に行かれた方は、護良親王が過ごされた場所はその辺りですので、ご想像ください。(写真右上)

そこに「黒木御所」という、護良親王が居た仮の御所がありました。(写真右)

十津川という土地は、昔から京都・奈良等の都から近い割には、かなり山奥なので、潜伏し都の動向に関する諜報活動をするのに便利な土地だったようです。

護良親王は、ここの豪族、竹原八郎という蘇我入鹿の末裔の豪族の庇護の基に、鎌倉の北条氏の動きを追いかけ、再起する機会を伺うのです。

また楠木正成らとも、ここで盛んに情報交換をしていたようです。

護良親王がここに逃げている間に、挙兵失敗により捕えられた父、後醍醐天皇は隠岐へ配流となります。これにより、護良親王は倒幕に本気を出します。

比叡山の天台座主だった彼は、還俗をし、倒幕の令旨を発出するのです。

さて、この護良親王のエンジンに始動が掛かった1つの大きな要因に、竹原八郎の娘の滋子との恋愛があります。
雛鶴姫と護良親王
「キミノ名ヲ。」から抜粋)

実は還俗した理由が、この滋子を手に入れたいからとの説もある程です。

確かに帝(みかど)の子と言っても、ここ十津川での生活は素朴でしたので、人との触れ合いも、京の都で格式張った世界よりは遥かに、純朴で濃いものだったのではないでしょうか?

もしかしたら、右の漫画のように、出会った当初、滋子は護良親王の素性を知らず、それが却って、地位に拘った恋心ではないからこそ、最後の最期まで想い続けられる絆が2人の間に芽生えたのかも知れません。

この竹原滋子が、後の雛鶴姫と呼ばれます。実はしっかりした姫であったことから、成鳥の鶴のように、(手元から)飛んで行って欲しくない、鶴の雛のままでいてほしいということを、護良親王が強く願い、雛鶴と呼ぶのです。

雛鶴姫と護良親王の出会いは、以上のようなものでした。
護良親王22歳、雛鶴姫17歳です。

2.京での雛鶴姫

雛鶴姫は、護良親王が征夷大将軍に任じられる頃は、護良親王の側にいるために、京の名家である北畠家の養女となり、都にいました。

またこの頃、護良親王の第1子を宿し、出産をしています。

阿野廉子
この子は、雛鶴姫のその後の話に関連がありますので、また次回のシリーズで描きます。

シリーズ②で、征夷大将軍となった護良親王を、後醍醐天皇と足利尊氏で亡き者にしようとしたと書きました。

実は、後醍醐天皇の後ろで、護良親王を亡き者にしようとした黒幕は、後醍醐天皇が隠岐に配流の時も一緒だった寵妃の阿野廉子です。(右絵)

彼女は、自分の子供たちを後醍醐天皇の後継者として天皇に据えたいという野望を持っていたので、当然、後醍醐天皇の他の女が生んだ子で、世間からの注目度も高い護良親王を疎みます。

そして、護良親王が後醍醐天皇の王位簒奪計画を練っていたとの罪状をでっちあげ、親王を足利家預けにしました。なんと根拠が十津川での令旨を護良親王が勝手に発出したということです。後醍醐天皇の事を考え、実施したことが謀反の根拠という仇になりました。

東光寺跡(現鎌倉宮)
白い鳥居の下で仲間たちと
当時、鎌倉府の総督をしていた足利尊氏の弟、足利直義は、護良親王を鎌倉の東光寺の土牢(写真右下)に幽閉するのです。

廉子は、ゆくゆくはまた何か理由を付けて護良親王を斬首しようと考えていました。

可哀想に、この時既に護良親王は、後醍醐天皇や阿野廉子からは完全に見捨てられていたのです。

でも、時の政権である自分達が、実子の護良親王を殺害すれば、世間からの評価に罅(ひび)が入ります。

そこで、護良親王を足利家預けにしたのです。斬首でも何でも、足利家の好きにせいという訳です。

足利家も本当は斬首しても良いと思っているのですが、流石に、今は建武の新政時代、つまり皇室が偉い訳です。

その皇子を斬首するということは、皇室を軽んじるということになり、最悪の場合、後醍醐天皇から「足利家は皇族を斬首した」と言掛りを付けられ、攻め滅ぼされる線も考えられます。

このような微妙なパワーバランスの上に、護良親王の命は、かろうじて土牢の幽閉に止めて置かれていたという訳です。

護良親王の幽閉された土牢
可哀想な護良親王(右下絵)。もう誰も彼を必要としていないのでしょうか?

3.中先代の乱

さて、愛する護良親王が鎌倉の東光寺の土牢に幽閉されたとの報を聞き、雛鶴姫は愕然とします。そして、情熱的な彼女は、幽閉された護良親王を助けたい、助けられなくても近くに居たいと鎌倉行きを強く想うのです。

しかし、護良親王は謀反を企てた罪人という扱いですので、そう簡単に雛鶴姫が鎌倉に行って会えるものではありません。

そこに、好機が訪れます。

土牢に幽閉される護良親王
(歌川国芳:画)
滅ぼされた鎌倉幕府の最後の執権北条高時の遺児、北条時行が信州の諏訪で、足利氏に対し反乱を起こします。「中先代の乱」です。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれています。

建武の新政は、やはり無理が祟ったのか、この乱は不平不満武士が沢山集まり、勢いがありました。

彼らは、鎌倉に幽閉されている護良親王を皇族として反乱軍に導き入れ、令旨を得て足利尊氏を撃つという作戦を立てます。

鎌倉時代の征夷大将軍に位置する源氏の代わりに護良親王、執権は反乱首謀者の北条時行と、鎌倉時代の武家体制に戻すのです。

京に居る護良親王の取り巻き達は、親王救出の可能性が出てきた事に色めき立ちます。
そんな中、雛鶴姫は取り巻き達に言います。

「私も親王が居る鎌倉へ連れて行って下さい。」

実はこの時、雛鶴姫は、親王の二人目の子を妊娠しています。この時幽閉されて8か月目ですから、少なくとも妊娠8か月に入っています。

彼女が妊娠を隠していたかどうかは分かりませんが、強硬な彼女の想念の基、京から甲州街道沿いに、親王救出隊と一緒に北条時行の反乱軍に追いつき、京からの総距離500kmの鎌倉を目指しました。
井手の沢古戦場(町田市)

4.護良親王の首

反乱軍は快進撃を続けます。

後醍醐天皇らは、当初この反乱軍は、足利尊氏や後醍醐天皇が居る京に向かってくるものと思い込んでいました。

なので、鎌倉府側への反乱軍の情報伝達が遅れたことが、快進撃を許した一つの要因と言われています。

この後の鎌倉府側と雛鶴姫達の動きは前シリーズ②の方で詳しく書きましたので、ここでは話を要約して進めます。

鎌倉府が、やっと反乱軍がこちらに向かっていると気が付いた時には、既に反乱軍は鎌倉から歩いて1日の距離の井手の沢(現在の町田市:写真右上)近くにまで進軍していました。

もう、鎌倉府総督である足利直義が出馬しなければならない程、深刻な事態です。
淵辺義博に斬首される親王
(尾形月耕:画)

そしてあえなく鎌倉府側は敗退。

この時、直義はかねてから決めておいた護良親王の対応策を実行に移します。

護良親王を斬首する。

先に述べました通り、親王は後醍醐天皇と足利家との微妙なバランスの上で、幽閉という無期懲役で生き永らえています。つまり天皇に申し開き出来る口実さえあれば、足利家も即彼を斬首したいのです。今がその時です。

直義は家来の淵辺義博を親王に向かわせます。(右上絵)

少し、話が横に逸れますが、この護良親王の斬首後、足利家は、本当に後醍醐天皇を軽んじはじめます。

北条時行のこの乱は、鎌倉占拠後、20日で足利尊氏により鎮圧され、鎌倉に入った尊氏は、この乱鎮圧の論功恩賞を後醍醐天皇を無視して行っています。

護良親王の斬首は、この尊氏の後醍醐天皇軽視行動の試金石として予め準備されていたのです。つまり、斬首しても本当にお咎めが無いかどうか、何か問題がないかどうか。無ければ後醍醐天皇怖れるに足りず。

この乱に対する一連の対応で、武士の心は、かなり天皇家を離れ、足利家側に傾き、建武の新政は頓挫するのです。

言い換えると、廉子の自分の子供を天皇につけたいという近視眼的な謀略が、却って天皇中心の体制をあっという間に崩壊させたことになりますね。残念です。
まあ、武士の世に戻るのは時間の問題でしたが・・・。

話を戻しますが、北条時行の反乱軍と行動を共にしている雛鶴姫と、その御付き、藤原宗忠、馬場小太郎は、護良親王の命が危ないかも知れないということを察知します。

反乱軍は、井出の沢での大合戦をしなければならないので、先に雛鶴姫らは鎌倉へ向かうこととしました。
親王の首が捨てられていた藪

身重な体でありながらも、懸命に護良親王の身を按じ、雛鶴姫は鎌倉へ急ぎます。

鎌倉の東光寺に到着した雛鶴姫たちは、空になった土牢、その中に、既に時間が経ち酸化してどす黒くなっていた流血の跡を発見します。

その血の跡を辿ると、藪の中になにやら光るものと一緒に転がっている血だらけの生首を見つけます。(右写真)

淵辺の刀を咥えたまま、くわっと目を見開いたまま絶命している護良親王の首です。

今一歩間に合いませんでした。

雛鶴姫は、走り寄り、刀を口から外し、首を抱きかかえます。

本当に一人ぼっちで孤独に耐えながらも、決して絶望しきることなく生きてきた護良親王。

彼は、自分の命が不安定な政局のバランスの上に成り立っており、かなり危い立場だということは、冷静に分析していたと思います。

しかし、彼も人間です。

暗い土牢の中では、世間との断絶が続き、親を含め、誰も自分を愛さない、全世界が自分と対立しているという超ネガティブな恐怖感と戦い続けていたのです。

それでも、一縷の望みに賭けて来た彼に、最後に突き付けられたのは、9か月間もの土牢生活で足腰が弱くなり、抵抗できない彼の首を刀で掻き取られるという冷酷極まりない運命。

彼はそれでも必至に淵辺に抵抗します。(右上絵)

そして首を切られても、淵辺の刀に喰いついて離さず、目をくわっと開いて彼を見つめたのです。

彼は淵辺自身を憎しと思って喰らい付いたのではなく、親である後醍醐天皇、全世界の人間に対する怒り・哀しみを持って喰らいついたのでしょう。

くわっと開いた彼の両目からは、涙が流れていました。
淵辺は、この恐ろしい形相の親王の首を、怖くなって直ぐ近くの林に投げ捨てました。

その首を抱きかかえ、雛鶴姫は慟哭します。

護良親王の首を洗った井戸
こうしてここまで500km以上の道のりを身重の体でありながら来たのは、世界中が敵でも自分だけは護良親王の味方であること、彼の一縷の望みは叶えられることを伝えたかった、いつも彼の事を想っていることを伝えたかった、助けたかった。

生きている間に会いたかった!

5.首洗井戸

雛鶴姫は、親王の首を抱きしめながら長い事、哭き続けました。

しかし、この場所も実は、まだ足利軍の配下であり、いつ雛鶴姫たちも捕まるか分からない状態です。

雛鶴姫は、御付きの宗忠らに促され、立ち上がります。

そして、目を閉じてあげた護良親王の首を、宗忠に預け、彼女らは鎌倉街道を南下している反乱軍と合流するために、この街道の北上を急ぎます。

そして、鎌倉から約10㎞北上した今の横浜市戸塚区柏尾町のあたりで、反乱軍と合流するのです。(詳細はシリーズ②

そして雛鶴姫らは、血だらけの親王の首を、また泣きながら井戸で清めます。(右上写真)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
雛鶴姫の墓

長くなりましたので、首洗井戸で首を清めた後の雛鶴姫らの行動については次のシリーズで書きたいと思います。

最後に一言。私には冒頭の写真の「首洗井戸」と書かれた碑の銘文が、「建武の新政の墓」と見えてしまいます。上述しましたように、護良親王を斬首した瞬間、「建武の新政」の崩壊が始まったのですから。

ご精読ありがとうございました。