マイナー・史跡巡り: 大桟橋通り

金曜日

大桟橋通り


【※写真はクリックすると拡大します。】


職場の前とハマスタの間にあり、山下公園まで一直線に伸びている道路が大桟橋通りです。

なんか横浜っぽい名前ですね。歩いてみると、これがマイナー史跡の宝庫のような通りです。

まずは、旧居留地消防隊地下貯水槽遺構です。

明治4年から、居留地消防隊、つまり当時の異人さんが住んでいるところの消防隊の防火貯水槽として造られたようです。

今もまだ地下水の流入があるようで、確かに水が溜まっていました。
レンガ造りだし、なんか貯水槽ごときでもかっこいいのが横浜?

でも、この辺は元々海か若しくは浜ですから、地下水の塩の心配は無かったのでしょうか?

最近原発冷却に海水を使ったところ、塩が酷く、給水口やポンプの傷みが激しいため、真水に切り替えたと新聞にありましたが、消防隊の消防車は塩害の問題はなかったのでしょうか。
それから、電話交換創始の地 これは、私の職場では一言ありそうな方多いです。

なんたってこの碑のような交換とか言う概念が通信にはあったため、「交換の人」「伝送の人」「無線の人」「線路・土木の人」等という面白い分類が出来たのですから。

ちなみに、最初の交換は交換手4人で開始。横浜の加入者は42人で、市内通話の料金は年間35円の定額制だったそうな。

今でこそWebは定額制ですが、電話は従量制ですね。でも電話も最初は定額制だったのですね。Webも従量制に変わっていくかな?

さらに海側に歩いていくと、わが国最古のプロテスタント教会「横浜海岸教会」に辿り着きます。

当然明治に入るまで、キリシタン弾圧の江戸時代でしたから、1875年(明治8年)に、横浜は港の直ぐ近くにキリシタン上陸となった訳です。

この時鋳造の鐘が現在も鳴り響いているとのことで、入口の聖句の掲示板等も、まだまだ現役の教会という感じがします。

ところでプロテスタントとカトリックは、開国後、どちらの方が日本上陸は早かったのだろうと思い、Webを調べましたところ、カトリックのジラールという神父さんが1862年に横浜に開国以来最初のカトリック教会(聖心教会)を作った方が13年程早いですね。

プロテスタントの私としてはちょっと残念です。

さて、もう少し先に行った開港広場の横浜開港資料館の前に、教科書で習う有名な条約、日米和親条約締結の地という碑がポツンとあります。

なんだか変哲のない碑ですが、近代日本の精神は、ここから出発していると言っても過言ではない場所なんですね。

3月31日です。ちょうど157年経ちます。

この間色々ありました。

強硬に条約締結をした井伊直弼は、安政の大獄により、攘夷派を弾圧。桜田門外の変以降は、維新に向かって、新撰組だの赤報隊だの、坂本竜馬、高杉晋作、西郷隆盛、大村益次郎だのって、うじゃらうじゃらと組織、人が出てきました。

そして、戊辰戦争、西南戦争はあったものの、維新が旧勢力のトップである徳川慶喜の首を取らずして成り立ちました。日本は一致して外圧にあたらねばならないという危機感と、武士道があったことによると無血革命の成功例として、後世評価されているのが一般的です。

この時代を動かすエネルギーの発振基は、この地で結ばれたこの条約。成立したのは、アメリカ(厳密には欧米列強ですが)に対する日本のコンプレックス。

ただ、私は、その後、このコンプレックスはエネルギーを温存し、太平洋戦争に突入する雰囲気を醸成していたのではないかという見方をしています。

ですので、維新の無血革命は成功したものの、米国等へのコンプレックスを100年間抱えたまま、知らず知らずに太平洋戦争へ日本は向かって行ったのであれば、決して無血革命だったのでは無くて、時間を空けての大流血革命だったとの見方は極端でしょうか?


こんなちっちゃな碑から、そんな大袈裟な思いを巡らして歩いているうちに、大桟橋の横にある象の鼻パークに出ました。

晴天は気持ちいい!横浜港最高です!

昔は、今の成田や羽田空港のように、ここから船で海外に旅立つのにワクワクしたんだろうなぁ。

実は、この紀行は、会社の昼休みの20分間の出来事です。帰りに中華街で昼飯を食べなければ。

ということで今回も、中華街ではあまり多くはない四川料理の店の一つ、有名な景徳鎮にお昼に来ました。

こちらも麻婆豆腐の旨辛さは本物ですが、さすがにいつも麻婆豆腐では能がないので、エビチリ定食を取りました。写真+杏仁豆腐で700円です。

結構このエビチリでも辛いんです。(麻婆豆腐程ではありませんが。。。)

でもやっぱりおいしいですよ。一度食べてみてください。

ということで、今日も午後は仕事になりませんなぁ。

ではまた!


【日本キリスト教会横浜海岸教会】 神奈川県横浜市中区日本大通8