マイナー・史跡巡り: 伊豆下田 旧村山邸 ~松陰の疥癬が治っていたら~

木曜日

伊豆下田 旧村山邸 ~松陰の疥癬が治っていたら~


伊豆下田に行ってきました。

下田は、1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、即時開港します。

この下田も幕末の話題には事欠きません。幾つかこのマイナー史跡巡りでも取り上げたいと思います。

今回は、その中で、吉田松陰に関係するマイナー史跡と言っては失礼なのですが、村山邸を巡ってきましたので、ご報告します。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.吉田松陰の隠れ家
松陰が疥癬治癒に使った温泉

嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航しました。

この時、吉田松陰は、予てから金子重之輔と二人で、米国へ渡航し、勉強したいとの大志を抱き、伊豆下田へ潜伏しました。

ところが、下田は、米国船への乗船機会を窺うどころか、黒船が来ている間は下田奉行所の厳重な警備のため、日中、海岸に近づくことすら出来ません。

途方に暮れた二人は、警備の手が及ばない海岸から稲梓川を2kmも上流に遡った蓮台寺の共同温泉に寝泊りしていました。

当時、村人しか入浴することが出来ない共同温泉に何故二人が逗留しようとしたのでしょうか。

それは、松陰が疥癬(皮膚病の一種)に罹っており、かなり苦しんでいたようです。
(痒いのですよね。)
温泉は効果が高いと考えたのでしょう。必死だったと思います。

ただ、日中入湯すると「他所者が入っているぞ!」と村人に通報されてしまいますので、真夜中にしたようです。

この、入湯する二人の夜中の変な物音を聞いて、駆けつけたのが、近所の医師である村山行馬郎氏でした。

匿われていた二階への階段は
普段は外されていた
こっそりと自宅(村山邸)に二人を泊めた村山行馬郎医師の人柄を信頼したのか、松陰は、渡米の計画を村山医師に打ち明けます。

松陰の大いなる志に感服した村山医師は、彼が密航するまでの間、彼の邸宅の二階に、二人を匿うよう便宜を図ります。

また、彼の邸宅には、右上の写真のような温泉もあり、松陰の苦しんでいた疥癬についての湯治も手伝ってくれたようです。

いたせりつくせりですね。松陰も偉いが、この村山医師もかなり偉い方です。

匿われていた二階は、写真の急こう配の階段を登ります。この階段普段は外してあります。(二階があるように見せないためです。)

松陰隠れの間
二階の座敷は二人で住むには十分なスペースだと思いますが、兎に角天井が低いです。

当時の日本人体形に合わせた造りなのでしょうか。それとも、隠れの間故のサイズなのでしょうか?

この二階、高さが低く屋根裏とも間違えられやすく、障子窓も、樹木で外からは分かりづらく造られているようですので、隠れ家にはもってこいだったのでしょうね。

松陰隠れの間と銘が打ってありました。

ここで数日間逗留し、黒船に乗り込み、密航方式で渡米しようという大胆な計画実行の機会を窺っていた訳です。

日中はこの2階で金子と二人で隠れており、夜になると、はるばる往復4kmの道を歩き、海岸線に出て、黒船の様子を窺っていました。

2.渡航失敗の本当の理由

弁天島
さてその後、下田港、弁天島の辺りに、日中金子と二人で潜み、夜を待って海岸につないであった漁民の小舟を盗んで、ミシシッピー号に漕ぎ寄せました。

船員との会話に苦労しながらも、なんとか甲板に上がることはできたのですが、渡航を判断するのは、旗艦に行って、ペリーに聞けと言うことで、また小舟へ戻されてしまいます。

それでも、なんとか旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、ペリーとの面会を求めます。

しかし、「至誠天に通ず」の勢いの渡航懇願も、残念ながら、幕府とのいざこざに発展することを恐れたペリーは、二人の渡航をきっぱりと拒否します。
ミシシッピー号

小舟はポーハタン号乗船中に、流れてしまったので、黒船のボートにて、松陰と金子は、無念にも下田へ戻されてしまいました。

ここまでの次第は、ペリー等の配慮もあって、夜半に行われたので、もしかしたら密航計画は露呈しないで済んだかもしれません。

ですが、松陰は自首します。

ポーハタン号
ここは、良く小船が流されたために下田奉行所に自首したような事が言われますが、それよりも松陰の思想的な側面が強かったのでしょう。

下田奉行所も話を小さくしようとしたようですが、松陰が「この壮大な計画」的な発言を控え、奉行所に調子を合わせないため、やむなく伝馬町牢屋敷に投獄ということになったようです。

まあ、松陰はそこが良いところですが・・・

ちなみに、ペリーはこの時の松陰らの行動を高く評価して、「命がけで、渡米して学ぼうというこの国の若者の姿勢は、かならずや将来この国を伸ばす」と言ったとのことです。

うーん、逆に、日本のアメリカコンプレックスは、この頃既に顕在化しはじめ、昭和まで引き続いたのではないかということは、当時のペリーさん始め、誰も想像できなかったのでしょうね。

という一方で、実は渡航に連れて行かなかった、最大の理由が、このブログの冒頭にお話ししました吉田松陰の疥癬という説もあります。

疥癬は伝染しやすく、船で長旅などしたら、かなりの米国の乗組員が疥癬になってしまうことでしょう。

それを米国側は恐れたという訳です。
村山邸口

もし、そうであるならば、村山邸で、もっと疥癬を治していれば、松陰らは、もしかしたら、渡航でき、彼は幕末を生き抜き、大きく歴史が変わっていたかもしれません。


どんな歴史になっていただろう?想像するだけで、この村山邸も、ある意味日本の歴史の大きなカギを握っていた場所だと思えます。

やはりこの史跡の見え方も変わってきます。

【蓮台寺村山邸】静岡県下田市蓮台寺300