マイナー・史跡巡り: お台場

水曜日

お台場

韮山反射炉
久しぶりに幕末をテーマに書きたいと思います。

2年前、伊豆旅行をした時に江川邸と韮山反射炉について書きました。(リンクはここをクリック

この時はまだ韮山反射炉は世界遺産には登録されてはおらず、遺産登録活動が盛んな時でした。
この当時以下のような私見を述べております。

「鉄の大砲が日本には無い!との危機意識で作った反射炉ですが、その後、日本の八幡製鉄所へその技術はトランスファーされ、「鉄は国家なり!」と国の基となった発祥なのですから、世界遺産登録されてもおかしくないと思います。

特に生糸により、明治政府のお財布を作ったことによる功績で、富岡製糸工場跡が世界遺産に登録されるのであれば、韮山反射炉も同じような歴史的意義があると思います。」

第六台場(第三台場から)
これと同じような思いは、この反射炉を訪れた多くの方々が抱かれたと思います。

それらの思いが世界遺産登録を成り立たせる原動力だったのでしょうね。

ということで、これから少し幕末について、時代を順に追いながら、調査してみたくなりました。

お付き合いいただけたら幸いです。
さて、まず今回は、「お台場」です。  

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.産業革命と黒船来航との関係

「黒船を見た当時の日本人は、その西洋の文明、特に蒸気船の技術に驚いた。」

小学生の頃から幾度となく聞かされたお話です。

鎖国していたため、受け入れるのに日本が100年遅れたと言われる産業革命の波が、黒船来航という出来事で日本に来たのでしたね。

一番鯨油が採られたマッコウクジラ
でもどうして、産業革命直後ではなくて、100年も経ってから日本に黒船は来たのでしょうか?

ずっと疑問に思っていましたが、最近からくりが分かりました。

結論から言うと、彼ら欧米人は産業革命後の主動力に必要な「鯨油」がほしかったのです。

産業革命は単純化すると「人間や動物以外のエネルギー源による駆動装置(モータ)を作った」ということに集約されるでしょう。

エネルギー源は化石燃料(石炭・石油)ですね。

化石燃料を燃やして、蒸気圧を利用して輪(モーター)を回す。

これがとてつもないエネルギーを発揮するので、機関車も、蒸気船も、紡績機械も、およそ人が千人かかっても出せないような力をコンスタントに昼夜関係なく継続することができるのです。
蒸気圧により舷側にある両輪を回転させ推進する

これによって生産性も行動範囲も飛躍的に人類は向上したのが産業革命。

ただ、この蒸気圧によるモーターの回転をコンスタントに動かし続けるのに重要な役割を果たしたものがあります。

それは、「あぶら」です。そう潤滑油。

これが無いと、強力なモーターは直ぐに熱を帯び、大破しちゃうのです。

潤滑油はモーターが動作している間中は、ひっきりなしに必要になり、生産性が高ければ高い程、潤滑油が大量に必要となった訳です。

そこで世界中がこの潤滑油の確保に走りました。当時の一番の潤滑油、それはクジラから採れる鯨油でした。

産業革命当初は、色々な潤滑油を試していたようですが、結果的に何十年も経って鯨油が非常に効率良いということが分かってくると同時に、鯨油を採るための捕鯨、その他の技術的なノウハウが固まってくるのに100年かかったという訳です。

特に鯨油の抽出は、クジラを捕まえると直ぐに、捕鯨船上で薪によりボンボン火を焚いて、吊り上げたクジラから、たらーり、たらりと「ガマの油」よろしく採ることが主流技術として確立されたようです。

このため、大量の薪等が必要でした。これの供給基地が必要だったのです。

当時、欧米はクジラを追いかけ、捕鯨船を太平洋・大西洋あちこちに出していました。特に北洋は捕鯨適地だったようで、産業革命に係った欧米諸国は、殆どこの辺りの捕鯨に乗り出していますね。

ちょうど日本のあたりに、この捕鯨船の薪などの補給基地があると、彼ら欧米人にとっては非常に都合が良かった訳です。それが開国に対する一番のモチベーションだったとすると、今捕鯨に関して、色々と国際的に揉めていますが、なんか矛盾を感じますね。

2.江川坦庵と海防について

ということで、黒船来航のかなり以前から、欧米の船籍が日本の周囲に出没しておりました。
江川坦庵(太郎左衛門)

幕府をはじめ、国内の有識者は、アヘン戦争での清国の辿った道は長崎の出島を通して良く分かっていたため、海防に対する意識は高まって行きました。

そんな中の一人に江川坦庵が居ます。かれは伊豆の代官でしたが、伊豆半島の周囲にも欧米船籍の影が跡を絶たなかったのです。特に伊豆半島の中心部は天城山等の高い山が多く、人口は海岸線側に集まっているという地形に特徴があるため、これらの欧米船から砲撃でもされようものなら、ひとたまりもありません。

そこで坦庵は、伊豆半島の沿岸警備の危機意識から、西洋砲術を学び、大砲設計・砲台設計等、当時の日本の海防論の草分け的な存在になっていったのです。


3.黒船来航と防衛線構築

さて、お台場、お台場と言ってもフジテレビがある場所あたりだけがお台場ではありません。
言葉通り、お台場は、対黒船防衛線のために、江戸幕府が海上埋め立てをして築いた島の集まりなのです。

当初、東京湾の奥にある江戸城を守るためには、湾の入口の方に蓋をするように台場を沢山作りましょう 的な発想で、江川は台場設計を開始しました。


上の図は、当初のお台場の計画と実際に構築されたお台場の位置関係を表したものです。
当初は、千葉の富津市と横須賀市を結ぶ赤い線に20もの台場を造る計画だったのです。

確かに、このラインに台場が出来れば、東京湾自体、安全ですね。そもそも1853年にペリー達を引き入れることに成功した浦賀も、この防衛ラインの外側ですし。

レインボーブリッジから手前が第6台場
奥写真左の橋下に見えるのが第3台場
ところが、この計画は20年近く掛かるとの推測から、翌年ペリーが米大統領の親書の返事を受け取りに、また江戸に戻ってくるのには到底間に合いません。

そこで、とにかく、江戸城を守るという目的が果たせる現実的な案として、手近なところの品川沖、今のベイブリッジ沿いに8か所の台場を構築することになった次第です。

その8か所についても、ズームアップした図を入れてみました。

現在は、お台場公園の横にある、第3台場、ならびに立ち入り禁止になっている第6台場しか残っていません。


第二台場は船の運航の邪魔なので、水没させ、他は品川地区の埋立て地に吸収されてしまいました。


4.当初計画の台場について

第一海堡
上図の東京湾の入口に台場を構築して、黒船が入ってこられないようにしようという江川坦庵の防衛構想は、壮大すぎる空論ではなったようです。

その証拠に、その後、明治から大正期にかけて、ここに、第2の台場というべき、海堡が2つ作られます。

この海堡、場所も坦庵が提案した東京湾入口というだけでなく、坦庵が設計したお台場の形に良く似ています。

写真右が、海堡の形で翼を広げた形をしており、それぞれの翼に砲台を置くという設計思想ですね。

ただ、坦庵の設計図(右下)では、真ん中に5角形の島が描かれていますが、この部分はちょっと違いますね。逆に現在のお台場にある台場は、この形に近い(?)ものがあります。
江川坦庵の台場設計図

いずれにしても、江川坦庵さんの海防に関する匠は、幕末から近代にかけて、広く応用される程、本物だったことが分かります。

3.第3台場と韮山反射炉

第3台場は公園になっていて、気軽に中の遺構を楽しむことが出来ます。

レインボーブリッジのお台場側の袂の辺りの駐車場に車を止めて、お台場海浜公園を経由して歩くこと5分。

この海浜公園は、子供連れが多いですね。

お台場海浜公園(奥に見えるのが第3台場)
波が無くて、良い雰囲気です。とても、黒船騒ぎの時代の動乱があった場所とは思えない程です。

さて、海浜公園を歩いて、第3台場に来ると、看板が立っています。

そこには第3台場が出来た背景情報と、公園利用上の注意が書かれていますが、第3台場の構造を知る上で大事な図面がありました。

右下の図です。

ほぼ正方形ですね。ただ、方位磁針の図が表しているとおり、南から江戸城に向かう黒船に対しては、菱型状に相対する形となり、3点から狙えるようになっています。

第3台場の見取り図
四辺は海面から5~7mの石垣積みの土手がぐるっと覆っている形で、内側の真ん中にあるのが陣屋跡です。

また、弾薬庫跡が、これら四辺の南側二辺の土手の裏側(海側から見て)にあります。

この建物の配置は、ちゃんと訳があります。

ドンパチ砲撃戦が始まれば、陣屋は黒船から見えないだけに、狙われにくいでしょうが、放物線を描いて飛んでくる砲弾も想定すると壊れる可能性は大です。

でも、陣屋なんて、壊れても、砲撃戦中、陣屋に居る兵は少ないでしょう。砲撃戦中は、この家屋はあまり意味がありません。終わったら建て直せば良いのです。

ところが、弾薬庫は砲弾が当たったら、大変です。誘導爆発の連鎖を引き起こし、お台場の壊滅的な破壊を招きます。

第3台場の中
人が立っている右上が陣屋跡、左端、中が弾薬庫
跡となっている土手。綺麗な公園になっている。
ですので、弾薬庫は土手の裏側に設置することにより、あえて砲弾が当たらないようにしたのです。なので、どの土手の裏側にも設置したのではなく、黒船が砲撃してくるであろう南側に面した2辺の土手の裏側にだけ、設置されています。

良く考えられていますね。

実はここには、後の時代になっても、例の海堡が出来るまでは、東京湾の守りとなっており、飯炊きのかまどが作られました。

写真、右です。

これについても、勘違いされていた方が2組いらっしゃいましたね。

一組は、「おおっ、これが砲台かぁ。」
⇒論外です。

飯炊きかまど跡
もう一組は「なんで陣屋の中に作らねえんだ。こんな屋外ではやられちゃうじゃないか。」

これはご尤もな意見だなと私も当初思いました。ただ、先の弾薬庫と同じく、このかまども南側の土手に隣接するように作られています。陣屋は戦で砲撃されば倒壊しますが、飯炊き場所は応戦している間、機能しなければ困ります。なので、陣屋ではなく、あくまで砲撃されにくい、土手の裏に設置しているのでしょう。

さて、理屈は兎に角、その南側土手の上に、例の砲台の土台跡がありました。

砲台跡
と言っても、この砲台の土台跡自体は、幕末より後のものが残っているのだそうです。

韮山の反射炉で鋳造された大砲でも残っていたら、お台場も一緒に世界遺産に登録されたかもしれないのに・・・残念です。

さて、台場は当時、人工島だった訳で、当然、砲弾・弾薬から食料、兵士に至るまで海上輸送し供給された訳ですが、上の見取り図を見てください。

お台場の左下に桟橋が出ています。先の南側2辺で敵と相対するのであれば、このコーナーがお台場の尻尾にあたり、敵もここから上陸するには、南側2辺の砲撃を黙らしてからでないと出来ないという仕組みになっている訳です。

その桟橋ですが、見事都心の方向を向いていますね。

桟橋跡
この場所には、関東大震災の時や、太平洋戦争の東京大空襲の時など、江戸川、隅田川を流されてきた死体が流れ着く場所だったようですね。その鎮魂の意味も含めてお台場海浜公園を整備したのかな。

さて、今回はお台場について、見て回りました。

個人的には、東京にありながら、無人島となっている第6台場や、第一海堡等に行くツアー等があれば参加してみたいと考えています。

皆さんも如何ですか?

それではまた!

【第3台場】東京都港区台場1丁目