マイナー・史跡巡り: 山田長政 ~タイ・アユタヤから~

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山田長政 ~タイ・アユタヤから~

仕事でタイに行く機会がちょくちょくありました。
バンコクの至るところに祭壇がありました

先月行った時には、プミポン国王を偲んで、あちこちに祭壇が設けられたり、看板が建てられたりしておりました。

タイの王室に対する国民の思いは本当に強いですね。

今のタイの王室はどのような歴史的な流れの中にあるのでしょうか。

ということで、今回は、今の王朝であるチャックリー王朝の前、アユタヤ王朝について、有名な日本の山田長政との関係を含め調査しましたので、レポートしたいと思います。

また、このアユタヤ王朝から現在のプミポン国王までどう繋がっているのかについても、ざっと調べましたので、ご笑覧ください。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.タイの王朝について

日本の天皇制とは違い、タイは時代と共に王朝が変わります。
スコータイ王朝時代の純金5.5トンの仏像
(於:ワット・トライミット)

例えて言うなら、足利氏が室町時代の王で、徳川氏が江戸時代の王のようなものです。

今迄の大きな王朝は以下の通りです。

スコータイ王朝(1238-1448)
 ⇒大体日本の室町時代辺り(210年間)

アユタヤ王朝(1351-1767)
 ⇒やはり室町時代から江戸時代中期頃
  (426年間)

トンブリー王朝 (1768-1782)
 ⇒これはたったの14年間
  タクシーン王のみ

チャックリー王朝 (1782- )
 ⇒江戸時代後期から現在まで
 (235年間)

ブロードウェイ「王様と私」
このチャックリー王朝が今の王朝なのですが、ここの王は代々「ラーマ○世」と名乗っています。プミポン国王は「ラーマ9世」です。

ちなみに、最近渡辺謙がブロードウェイで演じて話題となった「王様と私」の王様はラーマ4世で、ちょうど日本の幕末頃に当ります。

この王朝の中で、やはり日本の山田長政との関係が深かったのが、②アユタヤ王朝です。

2.繁栄する国際都市アユタヤ

山田長政が、このタイ(当時はシャム)国に来て活躍したのが、日本の戦国時代終わりの頃で、アユタヤ王朝も最盛期の頃です。

アユタヤ王朝が、長く繁栄した秘訣は、やはり広く海外貿易に門戸を開いたことにあります。

ちょうど、この長政がアユタヤに来た日本の戦国末期頃は、世界的には、大航海時代が終わろうとしていた頃です。

日本も信長が生きていれば、南蛮貿易等に力を入れて、それこそ、東南アジアとの交易が盛んになることが出来たかもしれません。
残念ながら、秀吉の時期に、キリスト教に対する迫害等が発生すると日本は海外貿易に対しても、段々と興味を失っていきます。
1665年にオランダで出版された
「シャム王国首都アユタヤ」

逆にアユタヤは、今のタイと同じく仏教熱心な国でありながら、他宗教・文化に対しても非常に寛容でした。

アユタヤが400年の長きに渡り、繁栄した理由が2つあります。

1つは、先に述べた諸外国の多様な宗教・文化に対する受容性が非常に高かったことです。
当時、山田長政が居た日本人街も、日本のキリスト教迫害の1つ、伴天連追放令より、逃れてきたクリスチャンが作った街のようです。勿論それ以外にも戦国期が終わった日本での武士達が傭兵として住んだ街でもありますが。

もう1つの理由は、この四方をチャオプラヤ川で囲まれた都市は、右上の地図等でも分かるように、海から内陸に100㎞以上も中に入ったところまで、交易船が入っていけるような構造になっていたことです。

というのは、この時代の東南アジアの、海に面した港というのは、大概海賊等に荒らされるという性質の場所が多く、ましてや、多文化を許容する海岸にある大都市なぞはとてもでないですが、海賊だけでなく、他国からの侵略も受けやすい状況だったのです。

ところが、アユタヤのように100㎞も遡るということは、その間、両岸から攻めることが出来てしまう。つまり海賊等が入って行きづらい、はびこりづらい構造なのです。

数珠繋ぎでアユタヤ方向へチャオプラヤ川
を遡上する輸送船(日本人街にて)
実際、私がこの日本人街に行って横を流れるチャオプラヤ川を見ていても、右の写真のように、大型の輸送船が数珠繋ぎになってアユタヤ方向に川を遡っている風景に出くわしました。

海外に対する幅広い受容性と高いセキュリテイによる大量輸送、この両方が成り立つことから、アユタヤは、国際都市として、400年間も栄えるのです。

3.山田長政のアユタヤ渡航

さて、日本からこのアユタヤの日本人街に来た山田長政は、他の多くのクリスチャンとは違うようです。
彼は、16世紀末の安土桃山時代が終わろうとする頃、尾張の国に生まれました。

下剋上がほぼ無くなったこの時代の閉塞感が嫌だったのでしょう。長政は日本に居ても「うだつが上がらない」と考えるようになり、国外追放になるクリスチャンの一行に交じり、海外へBigになる野望を抱いて渡航します。

一説には、キャプテン・クックより先に、オーストラリアに行ったのではないか 等と言われている長政ですが、1612年に台湾の高砂から、ジャンク船で、先に述べたチャオプラヤ川を遡り、アユタヤへやってきます。

山田長政
結論から述べます。アユタヤは長政の野望を受け入れますが、策士として成長した長政を抹殺するのです。

4.長政の野望と挫折

当時アユタヤでは、日本人の傭兵部隊が、ソンタム国王の護衛兵等を務めていました。長政はこの傭兵部隊長に、策謀により短期間でのし上がります。

そして、1621年の、スペイン艦隊のアユタヤ侵攻を2回も退けるという功績により、ソムタム国王の信任を得、オークヤー・セーナーピムックという欽賜名(シャムの高官に付随する名前)を貰い、またチャオプライヤ川を遡ってくる船から徴税する権利を得ました。

その後、長政の後ろ盾のようなソムタム王が亡くなると、その後継者争いが起きます。この時長政はシーウォーラウォンという摂政と組んで、政情的に不利である方の後継者チェーター王を、これまた策謀により王位に就けることに尽力します。

これでシーウォーラウォンと長政が更に王朝内で高い地位を獲得することになりました。
アユタヤの日本人
傭兵部隊

しかし、この時王位についたチェーター王が、このシーウォーラウォンに不審を抱き、これを排除しようとします。

この頃から長政は、このシーウォーラウォンの野望に気付き始めますが、このチェーター王を亡き者にする彼の策謀を止めることができません。

チェーター王は、逆にシーウォーラウォンの策謀と、これに対する長政の協力により、処刑されてしまいます。

そして、チェーター王の弟が王位に就くのですが、幼少であることを理由に、シーウォーラウォンが王位に就こうとします。

流石に長政は、これは彼と対決すべき時が来たと考えたのでしょう。強硬に反対します。

良くある話ですが、シーウォーラウォンは、長政を六昆国(マレー半島の真ん中位の場所)の反乱鎮圧の任務を課し、ここの総督として左遷するのです。

アユタヤの中心にあるワット・プラ・マハータート
長政は日本人300人とシャム人3000人を率いて六昆国に赴任し、反乱軍を難なく鎮圧します。

長政の戦い方は、日本の武将の有名な戦い方を応用し、シャムの中での戦に次々と勝利するのです。

例えば、このブログシリーズでも取り上げた倶利伽羅峠の戦いで、角に松明をつけた牛を突進させるという奇策で平家軍を破った木曽義仲の戦法を真似し、象の背中や牙に松明を付けて敵に突進させ壊乱させたり、攻めてくる象の編隊を武田の騎馬隊に見立て、鉄砲三段構えで長篠の戦いを応用したり、更には馬上筒ならぬ、象の上から大型の鉄砲を撃つという戦法も使ったと言われています。

しかし、長政がそんなことをしている間に、シーウォーラウォンは、さっさと王位に就いてしまうのです。

そして、この六昆国をいとも簡単に平定した長政を怖れ、彼を毒殺します。

シーウォーラウォンは、長政と二人三脚で、お互いの野望を達成するために、上まで上り詰めようとしますが、最後の最後は、長政と対立せねば上り詰められないことを、初期から認識し、どこかで蹴落とすチャンスは狙っていたようです。

この毒殺は、最初に長政が策謀により亡き者とした日本人護衛隊長の娘が、長政の傷口に軟膏を塗るように見せかけ、毒を塗り死亡させたとも言われています。

結局、長政も自分の野望のために、策略でのし上がり、百戦錬磨の策士であるシーウォーラウォンに、最後は負けた形となったのです。

残念ながら、我らが山田長政も、その野望が、知らず知らずのうちに、最後は「策士、策に溺れる」の状態になってしまったのかもしれません。

日本人街に残る石碑
長政毒殺直後、シーウォーラウォンは、「謀反の動きあり」として日本人街の焼討を命じています。

この時、一部の日本人はカンボジアへ遁れたようですが、その後、アユタヤがまた日本人を呼び戻した時には、江戸幕府の鎖国令も出ており、朱印船交易も廃止され、日本人街の復興にはならなかったようです。

現在の日本人街跡には、殆ど遺構のようなものは残っておらず、右の写真のような石碑しか残っていません。

右上の写真、輸送船が遡上するチャオプライヤー川の景色、これが唯一「兵どもが夢の跡」の景色として私の心の中に刻まれております。

5.アユタヤ王朝の滅亡

さて、このように勢力が拡大していた王朝にありがちな権謀術策は、保身による栄達にどうしても偏りがちで、それらが組織の崩壊に繋がります。

アユタヤ王朝もその例外ではありませんでした。特にアユタヤは貿易都市の色が濃いので、日本が早々に江戸時代になると鎖国し安定したのに比して、西洋人勢力、中国系等により、政情が大きく影響されます。

西洋による(特にフランスのルイ王朝)シャム国内のキリスト教拡大に対し、中国系商人の援助の元、仏教勢力によりクーデターが起きます。シャム革命と呼ばれ、17世紀終わり頃、フランス勢力を排除し、アユタヤを鎖国国家へ導くのです。これでかなりアユタヤは弱体化します。

破壊されたアユタヤ
(写真撮影時はこの仏頭より自分の頭が下でなければならない)
そして、更に隣国ビルマ(ミャンマー)軍の侵略により、1767年、アユタヤの町は徹底的に破壊されます。(右写真、右上のワット・プラ・マハタートの写真)

ビルマ軍が退却した後、新たに王となった潮州系の華人タークシンは、アユタヤ再興を諦め、トンブリ―(今のバンコクの一角)へと遷都します。(右下写真参照)

これがたった14年のトンブリ―王朝です。

タークシン王は中国系で、アユタヤ王朝の血を引いていないことに強いコンプレックスを持っており、晩年は精神錯乱を来たしたことから、その部下であるラーマ1世に1782年4月に処刑されてしまいました。

ラーマ1世は、同日に王位に就き、ここに今のチャックリー王朝が誕生したのです

6.おわりに

それから235年間、産業革命後の世界情勢の中、植民地化されなかった東南アジアの国はタイと日本だけです。

これは、やはりタイのチャックリー王朝が世界情勢と国内情勢をしっかり見極め、国民を良い方向に引っ張ってきた事が大きく影響していると思います。

タイに行くたびに、やはりこの国民はチャックリー王朝への深い敬愛と信頼を持ち、国としての一体感を良く維持できているなあと私はいつも感心します。

一方で、いつの王朝でもその組織自体を守ることが目的化し、保身の策を求める人が増えると、滅びの道を走り始めることを、菩提樹に抱かれたアユタヤの仏頭は警告していると思います。(右上写真)

トンブリー王朝の王宮寺院と
なったワット・アルン
滅びて地に投げ出される頭、それを優しく拾い上げ救済する見えざる手、王朝が交代していくように、交互にくりかえされる時代の流れ。勝手な私見ですが、私にはこの仏頭が亡き者にされた山田長政の頭にも見えます。一度亡き者となった長政の魂は、またこの世界で他人となって再生し、徐々に高く菩提樹によって持ち上げられますが、また樹から地に落とされる。そしてまた樹に抱かれ地を離れ上昇を開始する。繰り返し・・・

以上、日本でも有名な山田長政とシャム国のアユタヤ王朝の関係、その後のチャックリー王朝までの流れを、簡単に描きました。

今回のブログに出てくるどの史跡もタイ国では有名な史跡ばかりで、決してマイナーではありません。タイで観光される時の基本情報となれば幸いです。

長文、お読みいただき、ありがとうございました。
それではまた!

【アユタヤ:日本人街】Kamang, プラナコーンシーアユッタヤー アユタヤ県 13000 タイ
【アユタヤ:ワット・プラ・マハータート】Tha Wa Su Kri, プラナコーンシーアユッタヤー アユタヤ県 13000 タイ
【ワット・アルン】158 Wang Doem Rd, Khwaeng Wat Arun, Khet Bangkok Yai, Krung Thep Maha Nakhon 10600 タイ