マイナー・史跡巡り: 首洗井戸② ~土牢~ -->

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首洗井戸② ~土牢~

前回、首洗い井戸で洗われた首の主である護良親王の、建武の新政における具体的なアクション等を書きました。(前回を読まれる方はここをクリック

今回は、首洗い井戸までの経緯を書きたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.親王の失敗

建武の新政で、八面六臂の働きをした護良親王も、腹に一物あるような足利高氏は嫌いだったようです。

大体、寝返った幕府の時の執権北条高時から一字貰い、高氏と名乗ったくせに、後醍醐天皇側に寝返ると、今度は、後醍醐天皇のいみ名である「尊治(たかはる)」から一字貰い、尊氏に改名しているのだから節操が無いです。
護良親王
※護良親王①に掲載した漫画の
美男とは違い、天上眉ですね

最後は、後醍醐天皇までも裏切り、後の室町時代を創るわけですから。

という訳で親王は、倒幕後も上洛せずに、奈良の信貴山を拠点に、尊氏をけん制していたようです。

そして護良親王が、征夷大将軍に任ぜられます。

これは尊氏が一番欲しい官職。代々武家の棟梁である源氏が継いできたのですから。

完璧に敵対します。

これが尊氏とだけの敵対であれば、まだ良いのですが、武家を武家で滅ぼした後醍醐天皇には、この征夷大将軍が武家の最高の地位であり、これを朝廷が望んではいけないということが良く分かっていました。なので、後醍醐天皇は、護良親王にはこの官職は与えたくなかったようです。

また、護良親王は、令旨を頻発したので、後醍醐天皇が纏めようとした朝権が乱れる訳です。

これって、鎌倉幕府を作った時の頼朝と義経の関係に似ていませんか?

この似たシチュエーション時、護良親王も義経も同じ20代後半です。年齢は関係ないかもしれませんが、両者とも社会全体を冷静に俯瞰するには歳若かったかもしれません。

2.幽閉

護良親王が幽閉されていた土牢
後醍醐天皇と足利尊氏で、護良親王を亡き者にしようと画策し、親王が王位簒奪を計ったとの罪で征夷大将軍の職を解き、足利氏預けにします。

尊氏は、当時鎌倉を任せている弟、直義に、護良親王を預けました。

直義は、親王を鎌倉は東光寺の土牢に幽閉します。

3.中先代の乱

さて、幽閉されてから9か月後、倒幕された北条高時の息子時行が逆襲を起こします。

この乱、日本史の中では、非常に大きなターニングポイントとなるメジャーイベントです。

足利尊氏、新田義貞等の武家が北条の鎌倉幕府を滅ぼした、つまり武家が武家を滅ぼすことにより、武家から公家中心の世の中に戻そうとした後醍醐天皇。

井手の沢古戦場
そりゃ、無理がありますということが証明されたイベントとなった訳です。

この乱、意外と上手く行きます。

諏訪湖の諏訪氏から始まった逆襲劇は、鎌倉奪還を目標に快進撃を続け、北条時行は、鎌倉を統括する足利直義を井手の沢(東京都町田市)で破ります。

そして足利軍最後の守りである鶴見の戦い(横浜市鶴見区)に勝ち、時行の逆襲軍は今の東海道を南下して鎌倉奪還を果たすのです。

ただ、北条軍に足りないものが一つあります。

それは奉りあげる皇族です。これが無いと、後醍醐天皇を後ろ盾に持つ足利軍は官軍、自分達は賊軍となってしまいます。

そこで、この乱を起こす時から計画されていたのが、鎌倉に幽閉されている護良親王を皇族として自軍に導き入れ令旨を得て足利氏を撃つという作戦です。
護良親王の首が投げ入れられた林
※後日綺麗に石を置いたのだろう

ただ、こんな計画は当時の常識の範疇ですから、当然足利氏も手は打ちます。

井手の沢の戦いで敗れた足利直義は、逃走する前に、家臣の淵辺義博に、土牢の護良親王を斬首するよう命令します。

9か月間も土牢で足腰立たなくなった護良親王は、それでも余程口惜しかったのでしょう。
切られた首は淵辺義博の袖に喰い付いたまま離さず、その形相は恐ろしいものだったとのことです。

気持ち悪くなった淵辺は、親王の首を土牢脇の林を投げ捨てます。護良親王28歳の若さでした。

この乱は、北条時行が鎌倉を占拠することたった20日間で、征夷大将軍に任命された足利尊氏に鎮圧されました。

足利尊氏は、征夷大将軍の官職を得たことで、室町幕府を開く正当な理由が出来た訳です。

また、鎌倉に入った足利尊氏は、論功恩賞を勝手に行い、朝廷の権威失墜を印象付け、建武の新政は、この乱によって失敗に終わったと言えるでしょう。

5.雛鶴姫

さて、林に投げ捨てられた哀れな護良親王の首はどうなったのでしょうか?

ここで、雛鶴姫という姫が登場します。護良親王の側室です。

彼女が、林に捨てられた親王の首を拾い、鎌倉を脱出するのです。

この姫は逆襲軍である北条時行らと、着かず離れず共に行動します。既に護良親王脱出計画を、彼女は知っていて、行動していたのです。

右のマップを見てください。井手の沢の戦い、鶴見の戦いに勝利した北条軍は、今の東海道に当たる街道を使い鎌倉へ向かって南下します。黒い矢印のルートです。

井手の沢の戦いの翌日、護良親王は斬首されていますので、鶴見の戦いの頃には、その噂が北条軍の近くに居る雛鶴姫の耳にも届きます。

彼女は組織された北条の救援隊と離れても、急ぎ、鎌倉入りを果たします。

右図の青い矢印です。多分1日遅れ位で鎌倉の林に捨ててある親王の首を発見したのでしょう。

もしかしたら噂だけで生きているかも知れないという一縷の望みは、血だらけの首を抱いた瞬間、脆くも崩れ去ったのです。

無我夢中で、首を抱き、足利兵が残る鎌倉を脱出し、北条軍と一緒に南下している親王救援隊と落ち合うことに全力を掛けました。

落ち合えたのが、ちょうど、鎌倉街道と東海道(現国道1号線)がクロスする位置だったのです。そこに首洗い井戸はあります。辻褄が合います。
首洗い井戸周辺に残る
旧鎌倉道

鎌倉から約10kmの位置にあるこの場所で、やっと姫は親王の首を洗うことができたのでした。

この距離を無我夢中で鎌倉から逃げてきたのでしょう。大変だったと思います。

首洗い井戸の周辺には、旧鎌倉街道の名残が右の写真のように残っています。

6.その後

マイナーな首洗い井戸までの、歴史的経緯を書いていても、こんなにメジャーな歴史の数々が出てくるのですから不思議です。まるで首洗い井戸が語れと言っているような気がします。

さて、この首洗い井戸の場所で、従者と落ち合い、親王の首を洗った雛鶴姫が次にどういう行動に出たか。諸説ありますが、一番有力とされているのが、京都(または雛鶴姫出身の奈良の十津川)へ、親王の首と一緒に帰ろうとしたというものです。

彼女は、護良親王の子供を孕んでいたのです。

親王の首の変遷については、シリーズ3作目に話を譲りますが、この首洗い井戸の近くに「王子神社」という護良親王を祀った神社があります。(右写真)

一説には、井戸で洗った親王の首を、この場所に埋め、神社を作ったというものです。
王子神社にて

まあ、普通に考えれば、生首持って歩くのは嫌ですから、この神社に埋まっているとも考えられます。

ただ、ブログの1作目に出てきた復元した親王の首や、雛鶴姫伝説が山梨県の石船神社あたりにあることから、やはり、そちらに持って行ったのではないかと考え、調査します。

現地調査を踏まえ、レポートしたいと思います。

【護良親王土牢】鎌倉市二階堂154 鎌倉宮内
【井手の沢古戦場】東京都町田市本町田802 菅原神社
【王子神社】神奈川県横浜市戸塚区柏尾町939