マイナー・史跡巡り: 滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~ -->

火曜日

滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~

今回は北条氏のお城2つを紹介します。滝山城と八王子城です。

今回の調査でも感じたのですが、北条氏はやはり良い意味でも悪い意味でも「カメ」だと思います。

八王子城 御主殿の石垣
北条軍は武田信玄や上杉謙信の軍に比べると弱いと思います。この2強と国を接していてながらも、よくこの関東平野という広大な土地を支配できていたものだと感心します。

以前、このブログでも「北条氏康は、カメだ!」と書きました(拙著ブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」参照)が、多分、北条氏がこの生存には厳しい環境でも生き抜けた最大の戦法が「籠城」というカメが甲羅に入るがごとくの戦法だったのでしょう。

またもう一つの処世術は、「外交」だったのでしょう。この2つが出来れば、大体の困難は回避できます。

但し、北条氏はこの「外交」を最後の豊臣氏に対しては踏み間違えたため、幾らもう一つの得意技カメ戦法で「籠城」しても滅びるしかなかったのではないかと思います。

と前置きが長くなりましたが、そのカメである北条氏は、立派な甲羅である城を造る技術にも長けていました。今回は、その中でも名城と名高い「滝山城」と、小田原城に次ぐ2番目の規模を持つ「八王子城」に行ってきましたのでレポートします。

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1.北条氏照

八王子城の城主は、北条氏照です。

氏照は、北条3代目の名将、北条氏康の三男です。(氏康については、マイナー・史跡巡りの「北条五代記③」を参考にして頂ければ幸いです。)

うじてるくん
八王子市の
マスコットキャラ
北条家の中では、非常に評価の高い父氏康にひけを取らない有能な武将だったようで、隣接する武田家や、豪族の大石氏、梁田(やなだ)氏等、武蔵野の北西側の守りに腐心した他、伊達政宗や上杉等の外交等にも手腕を発揮しました。

また、武田信玄には手痛い敗北を喫しているにも係らず、その娘である松姫が、武田家が滅びる際に八王子に逃げてきた時も、手厚く庇護している等、人情に厚い人柄でした。

3代目氏康の継承者は4代目氏政ですが、北条氏の中にあって、対外的な渉外のメイン担当はこの氏照だったのです。

4代目の頃になると、西は武田と徳川、北は上杉と伊達等の超大物の戦国武将以外にも関東は武蔵野以北の豪族等とも複雑に絡み合い、ある意味一番支配拡大に腐心したのは、氏政よりも氏照ではなかったかと思われます。

氏照も、地元の豪族大石氏の懐柔や、武田信玄や上杉謙信の侵略・牽制、果ては豊臣軍による小田原征伐等、対外政策の絶え間ない渦の中で、自分の美学を通しながらも、滅んでいった、いわば滅びの美学を作り上げた名将の一人なのでしょう。

滝山城城郭
2.滝山城

さて、八王子城は、豊臣軍が小田原征伐で攻めてきて、落城する時まで未完成の城でした。

小田原城の次に大規模な城なので、築城にかなり腐心したのは分かりますが、それでも氏照程の人物が、20万もの兵力で来る小田原攻めの前に、自分の城が完成していないなんて、何とも間の抜けた感は否めません。

そこで、調べると、八王子城築城の前に、氏照は同じ八王子市内に滝山城という城を持っていました。(右図)

この城は、北条氏の数ある城の中でも名城とされ、堅固ながらもコンパクトで良く纏まった城でした。

ところが、この城跡に行ってみて、強く感じたのですが、城全体が多摩川方面の北側からの敵来襲に備えた造りになっていました。

滝山城から多摩川方面
(北側)の景観
私たちは、右上図の南側、三の丸方面から、この城を上ったのですが、最初は、「平城だな。あまり標高もないし。」と思いながらも、本丸方面へ深く入っていくと、中の丸あたりで急に視界が開け、右下の写真のように、多摩川方面に対しては、かなり標高を持つ山城のような景観に行き当たりました。

早速文献を漁って調べると、最近、新しい説として、この城は、北方の上杉謙信に備えて築城されたのではないかというものがありました。

また、一番有力な説は、この土地の大石氏が築城したというものです。

その当時は関東管領の上杉氏や、足利公方等、関東覇権争いをしており、これらの敵は当時ここから北側に位置していたので、大軍を連れてくる多摩川方面に対し(北側)、堅固な造りにするのは当然だったのでしょう。
 
ですので、滝山城の作りは、本丸から眼下に広がる多摩川方面からの敵に対し、堅固に作られており、隣国甲斐から甲州街道沿いに攻めてくる敵には若干弱い造りになっているように思われました。

割堀から本丸と中の丸に
掛かる橋を見る
実は、これが証明された戦いがありました。


3.廿里(とどり)の戦い

1569年、武田信玄が攻めてきたのです。

しかも、上記上杉謙信と同じく碓氷峠から北関東を通って、多摩川を挟んで、滝山城に立て籠もる北条氏照ら2千と対陣しました。武田信玄その兵力2万。(下図参照)

滝山城は、名城ですから、北側からの攻撃は10倍の兵力であっても容易に落ちる城ではありませんでした。

ところが、これが信玄得意の陽動作戦で、戦上手な信玄はそんな滝山城の作りを良く知っていたのでしょう。

実は、武田の本領甲斐国(山梨県)は岩殿城(現在の大月市)を出発した武田家譜代の家臣 小山田信茂の1隊1千の兵が、甲州街道沿いに、甲斐国と武蔵野国の国境である小仏峠を超えて、滝山城の南から迫ってきておりました。

廿里の戦い配置図
氏照はこの動きも察知して、守備兵の一部を割いて、小山田隊の迎撃に向かわせましたが、流石は武田24将の重鎮である小山田氏、今の高尾駅前あたりの廿里(とどり)で上手く待ち伏せしており、北条軍は大敗、滝山城に撤退します。

勢いに乗った小山田隊1千は、滝山城を南側から攻めます。そして、三の丸まで攻め落とされて、あわや落城寸前まで行きました。

ここで、武田本隊の2万が攻めてきたら氏照も終わりだったかもしれません。

ただ、この時の信玄はさっさと小田原城へと兵を進めます。この一連の戦いを廿里(とどり)の戦いと云います。
廿里古戦場跡(360°写真)

命拾いをした氏照は、滝山城の南側からの防御能力の低さに唖然とします。

というよりはむしろ、この当時小仏峠を一軍が超えてくるということを想像し辛いほど、小仏峠は街道の難所だったようです。それなので、滝山城も甲州街道側から進行してくる敵軍を想定していなかったのです。

そして、小仏峠を越えて来る敵に対しての防衛拠点として、八王子城は築城されたのです。

小仏峠を越えて進軍してくる敵という想定は、小田原征伐における豊臣軍が全くその通りでしたので、読みは正しかったですね。ただ、これほど多勢が押し寄せるとは想像できなかったのでしょうが・・・

4.小田原征伐における八王子城

八王子城城郭図
※平時は、右下側にある御主殿や
その八王子城ですが、滝山城が160m程度の標高に対し、右図にありますように、本丸の標高は445mと、かなり高い山城です。

ただ、この城の中核は、御主殿という麓の辺りになり、冒頭の写真のように立派な石垣で出来ています。

北条氏の中で、本格的な石垣を使った城としては、はじめてだったようで、小田原城でさえ、当時はこれほど立派な石垣は持っていないのです。

ところが、この城の面白いところは、先進的な石垣を持つ割には、すでに古くなりつつある山城タイプの城を、城の事を知り尽くした北条氏が造ったことです。

八王子城は築城思想の過渡期に造られた城なのです。

滝山城のような平山城では、全方位に対し守りを固めなければならない程の兵力が必要になるのに対して、八王子城のように山岳地形を利用すれば、寡兵にて一方向だけ固めれば守ることが出来ます。

その一方で、築城技術は進み、御主殿などの構造物は、石垣という土台の上にしっかり造った訳です。まるで固い甲羅で覆われたカメのように。

城山川に掛かる橋(復元)
この後に出来る平城とは違い、限りなく堅固を追求したという城の守りという観点では、亀の甲羅で関東支配を貫き通した北条氏らしい城の中の城という感じがしませんか?

そして、この戦国武将の中でも城作り随一の北条氏が手塩に掛けて築城した城が落ちたということ自体が、甲羅を割られた亀の如く、北条氏が滅びるしかないと覚悟した時ではないかと思います。
事実、小田原城は、この八王子城落城の知らせを聞いて、開城に踏み切ったと伝えられています。

という割には、八王子城は、豊臣軍が攻めてきて落城した当時も、まだまだ完成には至っていなかった程、壮大な構想でつくられていました。

最後の北条氏の築城技術の全てを投入しようとしたのでしょうか。もしかしたら、城山川を堰き止めて、水堀等の構築も想定したのかもしれませんね。

5.落城悲話

さて、八王子城の落城についてお話します。

豊臣軍20万による小田原征伐は、最後の戦国大名間の戦いとは言え、圧倒的多数の豊臣軍に対する北条軍は、完璧なる外交の失敗としか言いようがなく、悲惨そのものでした。

八王子城攻略概要
本来、豊臣秀吉は信長のような無慈悲な殺戮は好まず、懐柔を得意とした人物でしたが、今回の八王子城に対する対処は、ここの城主氏照が今回の豊臣氏への対戦派の首謀格とみなしているため、「時には皆殺しも必要」との一言が、落城に際し、かなり悲劇的な結末を迎えざるを得ない結果をもたらしました。

当主氏照は、この時小田原城にて籠城のため、八王子城にはおりませんでした。

八王子城を守る守備兵は500人、近くの農民等も籠城に参加させ、3,000人程度。

これに対して、甲州街道を西から攻め上ってきた豊臣軍は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら15,000人、多勢に無勢です。

しかも、攻める豊臣軍も、後の前田100万石と言われる前田家は、「華の慶次」こと前田慶次や、上杉軍には、ちょっと前に大河ドラマで大人気の直江兼次、真田軍は、真田昌幸の次男、真田十勇士で有名な真田幸村が初陣という華々しい顔ぶれです。(右図は少年ジャンプに掲載されていた「華の慶次」のキャラクター、ほとんどこの城攻めの役者ですね!)

真ん中右が前田慶次、左が直江兼次
右端は前田利家?左端は上杉景勝?
真田昌幸・幸村親子は、このブログでも取り上げていますが、関ヶ原の戦いで江戸から中山道伝いに徳川秀忠(のちの2代将軍)の約4万もの軍が、真田の信州上田を通過しようとするのを、わずか2千の兵を使ってゲリラ戦で足止めを食らわせ、ついには関ヶ原の戦いに、この大量兵力が参戦できないというシチューエーションを作り出すほどの山岳戦上手な武将です。

また、豊臣軍の北条征伐の口実を与えたのも、真田昌幸の城を北条が奪取したことにより、当時豊臣秀吉が全国の大名に出していた「惣無事令」に違反したことによるものなのですが、これももしかしたら、昌幸はかなりの策士ですから、わざと北条氏に攻め取らせたのかもしれないと勘繰りたくなるほどの余裕の戦上手です。

ただ、寡兵と云っても八王子城は築城上手な北条氏の2番目の城です。そうはやすやすと落ちないはずです。

それが落ちた最大の原因は、戦国の世の習い、大道寺氏とか平井氏等、それまで北条氏方であった豪族の離反により、かなり城郭の情報が豊臣軍側に流出したことに拠ります。(ただ、大道寺氏は裏切っても結局秀吉に許されず切腹させられています。)

豊臣軍は情報を基に、軍を二手に分けます。

445mの標高にある八王子城本丸跡
甲州街道を八王子方面に抜けて、城の東側(八王子市横川の辺り)に陣を敷く前田軍、甲州街道より北側の陣馬街道を東進し、和田峠から城の北西から攻める上杉・真田軍、挟み撃ち体制です。

また八王子城は、445mもある高尾山並の頂きにある本丸を中心とする立て籠もり地域と、居住地域が分かれていて、戦闘当時は女子供や近隣の農民等も城内に入れているため、居住地域にも非戦闘員を中心に沢山入れていたようです。

いざ敵が攻めてきたら、非戦闘員も、居住地域から立て籠もり地域へ逃げ込むことを想定していたのでしょう。

皆殺しを企図した前田軍はこの地域の分断し、立て籠もり地域へ逃げ込みづらいよう、戦闘開始は、深夜の1時から2時に開始されました。夜襲ですね。

八王子城側はこの夜襲に翻弄され、居住地域はあっけなく陥落。氏照の妻をはじめとする、御主殿の女・子供は、城山川にある御主殿の滝(右下写真)で、自刀し、この滝壺の水が3日3晩血に染まり続けたとの言い伝えがあります。

御主殿の滝
また、立て籠もり地域の戦闘も、金子丸砦、高丸砦とじりじりと後退を続ける北条軍に対し、背面から上杉・真田軍が攻撃し、本丸も焼け落ち、落城となります。

城兵等1000人程度が打ち取られ、また拿捕された女子供等は、この後、相模川で輸送され、小田原城下で打ち取られた首共々晒されたと伝えられます。

氏照はこれを見て、小田原城内にて床を叩いて悔し泣きに泣いたと言われています。

氏照は、小田原城開城後に主戦派として秀吉から切腹を申し付けられて、自害します。

小田原攻めの中で一番凄惨を極めた八王子城攻めですが、後に江戸幕府は祟りを恐れて、この土地を入禁制地の天領として幕末まで管理しました。

6.心霊スポット

このような土地であったため、江戸時代の頃から、この八王子城一体は「何か出る」という言い伝えが、北条軍記等の文献に残っているようです。

私も33年前の中学生の時に、はじめてクラブ部員数人と、この城の本丸を訪ね、本丸跡にある社の前で三脚を立てて記念撮影をした後、写真を現像すると、部員の一人が「玉木さん、これ心霊写真ですかね?」と笑って云うのです。

見てみると、皆の「手」の間に紛れるような形で、誰の手なのかよく分からない「手」が1つ多いというのを、その時見たのを覚えています。

ただ、この時は八王子城がそういう場所だとは知らなかったし、私が部長をしていた「旅と歴史研究クラブ」の部員は、大部分が物見遊山でふざけてばかり居る中坊だったので、「どうせまた誰かのいたずらだろう。」位に思っていました。

しかし、今回も御主殿周辺を見て回った時、やはり何か四囲からネガティブな雰囲気が伝わって来たのは確かです。

今回の訪問時も、ここが心霊スポットとして有名だとは知らずにいました。

帰ってきてFacebookにいつものようにプレ予告で八王子城の話題を出したところ、東京在住の友人から、「有名な心霊スポットですね!」との指摘があったので、調べますと、話題てんこ盛りです。

私が問題と感じた2つの写真を掲載します。ただ、これが心霊写真だなんて軽々しく云うつもりはありません。

ご判断は見られた方にお任せしますが、これらを掲載しようと私が思ったのは、単に興味本位または人の気を引こうと考えたからではなく、何かこの場所には、うら寂しい、暗い雰囲気を感じたからです。

あと、気分を害される方がいらっしゃるといけないので、写真での掲載は控えましたが、この日何故か御主殿へ向かう道端に、センチュウのような虫が大量に絡み合って生息しており、棒で刺すと、ウジャウジャ動きます。

こんなのも初めて見ましたが、何か奇異でいい感じはしませんでしたね。

「そんな馬鹿な!」と思われる方は、是非一度、この「御主殿の滝」辺りにお越し頂き、どう感じられるか実際に体験されることをお勧めします。

御主殿の滝で

太鼓曲輪あたりで

 いかがでしょうか?

 それでは、今回はこのあたりで!

長文、最後までお読みいただき、ありがとうございました。