マイナー・史跡巡り: 首洗井戸④ ~雛鶴姫 その2~ -->

土曜日

首洗井戸④ ~雛鶴姫 その2~

①王子神社
前回のシリーズ「首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~」では、護良親王の側室である雛鶴姫が、斬首された護良親王の首を持って横浜市の戸塚まで逃げ、そこの井戸で血だらけの首を洗うところまで描きました。

今回はその続きです。

1.王子神社

護良親王の首を洗い清めた後、御付きの藤原宗忠、馬場小太郎は、雛鶴姫に早く埋葬することを勧めます。

しかし、雛鶴姫は、懸命に京から親王に会いに来たのであるから、京に居る第1子の綴連王子のところまで持って帰り、親子で供養したいと嘆願します。

ただ、それを持って歩けば目立つので、敵の足利軍から追われやすくなります。

そこで宗忠は、近くの神社の神主にお願いし、境内に目立たぬよう、作業は自分達だけで行い、夜中に首を埋めると伝えます。

②護良新王の首を埋めたという場所
現在の王子神社(写真①)と埋めたとされる場所(写真②)です。

しかし、これはカモフラージュで、実は首は埋めずに、持って行ったのです。

つまり、首を埋めた話がこの辺り一帯で噂になれば、足利軍の追手等から首を持っているという理由で、追跡されることもないと考えたのです。

ただし、宗忠は、雛鶴姫に約束させます。

「いつ何時足利軍が襲ってきて、首を奪おうとするかもしれません。非常時は即、親王の首を埋めさせて頂きます。」 と。

2.大山道から甲州街道へ

さて、雛鶴姫一行は、護良親王の首を持って京へ急ぎます。

下の地図は、首洗井戸(③地図右下ポイント)からの雛鶴姫ら一行の足取りを示したものです。

通説では、雛鶴姫らは、出発すると東海道を小田原まで進みますが、そこで東海道は足利軍の警戒が厳しいので、甲州街道(今の中央道)を使い京へ向かうため、丹沢の大山をぐるっと迂回する地図③の紺色の線を進むこととしたとなっています。

③雛鶴姫逃亡ルート
但し、史実としては、③地図の点線で囲ったあたり、津久井の青山の寺で、雛鶴姫は病に伏せってしまい、数日逗留する事実を証明する史跡(写真⑤)が残っているだけです。

この事実だけを元にすると、通説のルートは不思議なのです。

鎌倉で護良親王の首を持って、京へ向かうつもりなら、どうして鎌倉から海岸伝いに藤沢方面に出て小田原に向かった方が早いのに、わざわざ北上して戸塚で首を洗ったのでしょうか?

身重の雛鶴姫を、戸塚への北上や、小田原から大山をぐるっと廻り込む等、こんなに迂回するルートを歩かせるでしょうか?
④大山道への分岐
(これより大山道とある)

ちなみに、妊婦なので大井川、天竜川等の大きな川を渡川するのが困難な東海道(当時は橋が無く、水に入って渡る必要があった)を避け、甲州街道を行ったとの説もあります。

首洗井戸から100m程度の所に、東海道でも有名な「不動坂」という場所があります。

ここは、大山へ向かう主要8道のうちの1つ、「柏尾通り大山道」への出発点となっています。(写真④)

これを進めば、上の地図に示したように、津久井の青山には最短で進むことが出来ます。これを使わない手は無いと思います。

私は当初から雛鶴姫らは、「柏尾通り大山道」を使って、そこから甲州街道へ出て、京へ帰ることを企図していたのではないかと思っています。

そして、この大山道に入る前に、井戸で首を清めたのではないか。だから首洗井戸は、この大山道の出発地点である戸塚区柏尾町にあるのではないかと想像しています。

それを想定ルートとして上の図に赤い線で描いています。

3人は、修験者の恰好に姿を変え、足利軍に見つからないように大山道を出発します。

3.津久井での滞在
⑤津久井 青山の畑の中にある千部塚

雛鶴姫は、体調に変調を来していました。食べ物も少なく、雨露の中、殆ど露天での生活をしているのですし、愛する人の生首を拾うショッキングな事態を経験し、更には身重と来れば、体調を崩さない方が不思議なくらいです。

姫を心配した宗忠は、津久井の青山村にあるお寺の住職と交渉し、姫の体調が復調するまで、休ませてもらいます。

住職は良い人で、姫の変調が、気から来る病と分かったのか、彼女の今迄の苦しい心内を全部聞いてあげます。つまりカウンセリング療法ですね。

そして、住職に奨められ、雛鶴姫は、護良親王の35日供養まで、この寺に滞在します。

また、この住職は寺内に護良親王のための千部塚(経文が千部入れてあるという供養塔:写真⑤)を建ててくれます。

これら住職の精神的な介抱により、雛鶴姫は体調を回復し、また旅を急ぐのです。
しかし、季節は寒い冬に向かっていました。

⑥無生野の山林
4.無生野にて

しかし、1か月以上の津久井での逗留は、雛鶴姫らにとって、あまり良い状況ではありませんでした。

というのは、この間に中先代の乱も鎮圧され、反足利勢力に対しては、否定的なムードがこの街道沿いにも蔓延していました。

また雛鶴姫たちが、どうやら護良親王の関係者らしいという噂も、津久井に滞在中に、この辺りに広がってしまったのです。

特に、護良親王に対しては、廉子らや足利家の吹聴もあり、かなりの悪に仕立てられています。太平記にも、「短絡的で傲慢」な人物として描かれています。

その一味である雛鶴姫らは、足利軍に突き出されこそしませんでしたが、支援が得られにくい窮地に立っていたのです。

それが露わになったのが、無生野(写真⑥)における雛鶴姫の早産に対する態度です。
雛鶴姫の変調は完全に治っていた訳では無く、予定より早く産気付いた自分に気が付きました。
⑦雛鶴姫が出産した峠の麓(現雛鶴神社)

今迄は、護良親王の子供を妊娠しているなんて、足利家や廉子らが知ったら、それこそ恨み返しを怖れて、子供ごと殺されるかもしれないので、御付きの二人以外には口外しないで、頑張ってきました。

また、気を張って行けば、ちょうど京に着くころに出産すると思っていたのですが、想像より早く産気付いてしまったのです。

小太郎が、止むにやまれず、近くの民家に出産の協力を求めますが、拒否されます。

ちょうど上の③地図の矢印の先辺りの土地ですが、このあたり無生野と言います。

小太郎や宗忠は、数少ない民家の戸を叩き廻り、軒先だけでも貸してほしいと交渉しますが、護良親王の遺児の出産に協力したと足利家や後醍醐天皇にバレた時の後難を怖れて、それすら叶わない状況です。

このような厳しい状況で、この野を行く雛鶴姫らが「無情や・・・」と言ったので、音を取って「無生野」になったとの言い伝えがあります。(一応雛鶴姫達は関西人ですので・・・文献によっては無情野とか無常野等と書かれたものもあります。)

上の③地図でルート矢印の先に「雛鶴神社」が2か所あるのが分かりますでしょうか。

この場所を大きくしたのが下の⑧の地図です。山梨県都留市のあたりです。
⑧無生野から先の雛鶴姫と護良親王御首の行方

まず、東側の雛鶴神社ですが、ここで、雛鶴姫は、小太郎と宗忠に、雑草などを集めさせて褥(しとね)を作らせ、誰の助けも得られず、一人で赤子を産むのです。

季節は12月の暮れも押し迫った頃でしたので、寒かったと思います。

赤ん坊は死産でした。
⑨峠の先にある雛鶴姫が
最期を迎えた場所

ロクに食べ物も得られず、寒い露天での出産は、雛鶴姫の体力を相当奪っていたのです。

雛鶴姫は、冷たくなった赤ん坊を抱きしめて、涙を流しながら言うのでした。

「寒かったでしょう。ひもじかったでしょう、赦してください。・・・先にお父様のところへご挨拶に行っててくださいね・・・母もすぐ参りますから。」

彼女は高熱を発します。宗忠と小太郎は、二人で彼女を背負って峠を越えます。もう少し行けば、今の都留市辺りの人里に辿り着けます。そこまでなんとしても姫を持ちこたえさせようと。

峠を越えて、下る途中に、もう一つ西側の雛鶴神社があります。

雛鶴姫は、残念ながら、ここで二人に見守られながら、息を引き取るのです。(写真⑨)

「色々とお世話になりました。・・・やっと親王さまにお会いできます・・・綴連王子によろしく・・・」

言い終わると、雛鶴姫を親王が迎えに来たのでしょうか?静かに安らかな表情で息を引き取ります。

宗忠と小太郎は、男泣きに泣きます。
それは、誰も居ない無生野の寂しい山々に低く、長く響き渡っていきました。

5.「共の松」
⑩「共の松」の根と代替木のいちょう
ここで宗忠と小太郎が殉死

雛鶴姫亡き後、宗忠と小太郎は、護良親王の首を近くの山深い高根山(高畑山)に埋葬し、足利軍からの探索をかわします。(地図⑧参照)

あれだけ親王の御首を大事に持って帰ろうとした雛鶴姫の近くに埋葬することが姫も一番喜ぶだろうと考えたのです。

そして、二人は雛鶴姫の供養をここで行い、その後、雛鶴姫の後を追います。

この御付きの二人の殉死を悼んで、村人たちがここに植えた松を「共の松」と呼びます。

この松は最近まで生えていたようなのですが、昭和60年代に松くい虫の被害によって枯れてしまったようです。

代わりに銀杏の木を植えました。(写真⑩)

⑪雛鶴神社再建の碑と雛鶴姫像(奥)
6.綴連王子

雛鶴姫と護良親王の間には、第1子である綴連王子という皇子が居ました。
彼は成人すると陸良親王となり、南朝から父の護良親王と同じ征夷大将軍に任じられ、近畿を中心に転戦して、これも父親と同じように大活躍します。

しかし、吉野で大敗を喫すると、歴史の表舞台からは姿を消し、諸国遍歴後に、ここ雛鶴神社のある無生野に辿り着き、母の墓前で泣きます。

そして、それまでの華々しい過去を捨てて、ここ雛鶴峠に73歳に死没するまで雛鶴神社を建てて住み着くのです。(写真⑪)

7.その後の護良親王の首

それから300年後、護良親王の首は掘り起こされ、地図⑧や、シリーズ①の写真にあるように復顔されます。
⑫護良親王御首と石船神社ご神官
(御首右目は木の根のため陥没)

それは足利家が権勢を誇った室町時代も終わり頃ですし、雛鶴姫が、生前の彼と一緒に居たかったという願望を、叶えてあげたいという一心から、能面技師の1人が技巧を凝らして作ったようです。

ただ、300年間、土に埋もれていたせいで、頭蓋骨の右目の穴から木の根が生え、右目の穴が大きくなってしまいました。(写真⑫)

そして、この首をご神体とした石船神社を山頂に建立しますが、後に、この神社は、祭礼等の実施が山頂だと危険であることから、現在ある山梨県都留市の朝日馬場の里に下りてきております。(写真⑬)

7.おわりに

「首洗井戸」をシリーズ4回の長きに渡り、お読みいただき、感謝します。

きっかけは私が小学生の頃、通学路の途中にあった「首洗井戸」。このマイナーな史跡がこれ程の背景とラブストーリーを持っているとは通学中は思いませんでした。(小学生で思ったら怖いですが・・(笑))
⑬護良親王の御首がある石船神社のご神体

話の最後は、護良親王、雛鶴姫、第2子、御付きの宗忠・小太郎も皆亡くなってしまうという哀しい結末となってしまいました。

こんな失望感ばかり膨らんでいく話でしたが、その絶望のハイライトである雛鶴姫のお墓(写真⑭)の後ろに見えるのは、なんと現代の希望の新技術であるリニアモーターカーの実験場です。

私たちも、この雛鶴姫のお墓参りの最中に、何度かリニアがガーッと走る音と姿をちらっと見ることが出来ました。

雛鶴姫も、このお墓から、毎日実験の様子を見守っていたのでしょう。無生野も煩くなったもんだと思いながら(笑)。

もうしばらくすると、日本中を走り出すと思います。

私たち日本人は、このように哀しかったり、寂しかったりする歴史の次には、新しい希望を生み出して逞しく生きて来たし、これからも生きて行く、
⑭雛鶴姫の墓の後ろはリニアモーターカー実験場
そういう絶望と希望の糸で編み上げ、更に強靭な国を、未来に向かって創っていくことの出来る素晴らしい民族なのでしょう!

そう実感させられた雛鶴姫紀行でした。

ありがとうございました。ではまた!!