マイナー・史跡巡り: シドニー小旅行 -->

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シドニー小旅行

オーストラリアはシドニーに行ってきました。仕事の合間に少々シドニー市内を廻りましたので、レポートしたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.ミセス・マッコーリーズ・チェア
ミセス・マッコーリーズ・チェアという場所があります。
ここは、オーストラリアがイギリスの植民地だった1810年頃、イギリスから初代総督として赴任したマッコリ―氏の夫人がホームシックに掛かってしまい、これを癒すため、イギリス船が行き交う、癒しのこの場所に、岩を削って夫人が何時間でも景色を見ていることができるように、岩の椅子を作ったそうです。

ご存じのように、当時オーストラリアはイギリスの囚人達が多く流されて来ていました。

彼らの労働メニューの中の1つに、シドニーに数多く存在する砂岩系の大きな岩を削るというものがあります。トンネルやら切通し等を、現在の市街地の中にも多く見ることが出来るのは、その当時の名残だそうです。剣による手作業だったらしく、その跡が表面に残っています。

そのついでなのかどうかは分かりませんが、この椅子も囚人達に作らせたとのことです。

幾ら総督の夫人のためとは言え、ちょっと公私混同のような気がしますが、今では観光名所になっているので、結果オーライでしょうね。

2.シドニー・オペラハウス
で、この場所から良く見えるのが、右の写真です。写真内、左がオペラハウス、右側にハーバーブリッジという2大有名建築物が見えます。

特にこのオペラハウスは世界文化遺産にも登録されているシドニー市のシンボルです。
ところが、このオペラハウス、まるで2020東京オリンピック向けの新国立競技場のような揉め事があったのをご存じでしょうか?

オペラハウスの設計者は、落成式の招待を辞退、それどころか2度とオーストラリアの土を踏まないと宣言し、その通りとなっているのです。

経緯は以下のとおりです。

1956年、このオペラハウスを設計したのは、デンマークの建築家、ヨーン・ウッツォン氏です。設計時38歳の若さで、シドニーの海上を疾走するヨットの帆をイメージしたと伝えられています。
実は、この案は第1次選考で落とされたのだそうですが、最終選考に残った案件が、無難なものばかりだったので、再選考の結果、再浮上した案だそうです。

ちなみに、この審査には、日本からも岡本太郎氏等の案も提出されていたようです。

ウッツォン氏の案の魅力の1つは、彼の作品の建築予算が1番安い約8億円、工期も3年という短期だったことです。
ところが1959年に建設を開始してみると、工事は予想を遥かに超えて困難をきたし、工期は遅れる上に、コストも予算を遥かに上回っていきました。

様々な技術的な努力をウッツォンも重ねていったようですが、当時このような奇抜なデザインを作るというのは大変だったようで、とうとう工事開始から7年後、工期・予算で折り合いがつかなくなり、ウッツォンはデンマークに帰国してしまいます。
この時、彼は「2度とオーストラリアの土は踏まない」と宣言したそうですから、余程腹が立つことが多かったのでしょう。

と言っても、ここで建設を止める訳には行かず、オーストラリアの設計技師ら数人が、ウッツォンの仕事を引き継ぎ、着工から14年も経た1973年に完成させます。

コストも当初の8億円から、約14倍の110億円となっていました。
2020東京オリンピックの新国立競技場の設計案でも、かなり奇抜なデザインが選定されそうになった時に、技術的な見地から、予算が掛かり過ぎるという評価が下されましたが、世界文化遺産であるシドニー・オペラハウスの経緯を見ると、やはり技術の裏打ち無しに造るのは如何にリスキーな事か分かりますね。

1973年にエリザベス女王臨席の元で落成式が行われましたが、ウッツォンは宣言通り、招待を辞し、世界文化遺産にまでなるオペラハウスはもとより、その後一度もオーストラリアを訪れていないという哀しい状態のままなのです。

そう思うと、写真のように、様々な美しさで魅せてくれるこのシドニー市のシンボルも、多くの人の涙によって出来上がっているのだろうと想像します。


【ミセス・マッコーリーズ・チェア】Mrs Macquaries Rd, Sydney NSW 2000 オーストラリア
【シドニー・オペラハウス】Bennelong Point, Sydney NSW 2000 オーストラリア