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水曜日

笹山城と鎌倉街道

東側から笹山城(2本の鉄塔が立つ辺り)
私事で恐縮ですが、私は子供の頃から、玉縄城の支城というか、砦である笹山城の麓に位置する住宅街で成長しました。

縄文時代の土器も出土されていたこのお城が私の歴史心に火を付けたことは言うまでもありません。

今回は、このまさに自分の実家の近所についてレポートします。


1.笹山城

横浜の南、港南区日限山辺りに、旧鎌倉街道がありました。

その旧街道脇に笹山城という砦(?城?)跡があります

西側の空堀から笹山城を臨む
写真の鉄塔が2つ建っている間の場所がそれなのですが、約10年前までは、ここは笹山という小高い山になっていました。今はマンション等が建ってしまい、笹山は削り取られてしまいました。 

私が小さい頃から良く遊びに行く裏山という感じの場所でした。

この城は後北条氏の時代に作られたようです。

大船の大観音の近くに、玉縄という土地があり、その地に北条早雲が、当時関東の有力豪族であった三浦半島の三浦氏攻撃の拠点、玉縄城を作りました。

玉縄城の詳細は、別途このシリーズで取り上げたいと思いますが、この城塞はかなり大規模だったようで、後北条氏滅亡直後取り潰し、260年後、幕末に黒船が来たときに玉縄城復活論議が幕閣でなされた位、しっかりしていたようです。

旧鎌倉街道
玉縄城は、主要街道沿い1里(4km)四方に出城を築き、敵の進軍状況等を監視していたのですが、その監視機能の一つがこの笹山城だったというわけです。

このマンションを建てる時に、この笹山城の井戸跡や、蔵米等が発見されたとの話です。



2.鎌倉街道

この笹山城の横の旧鎌倉街道跡は10年以上前はほぼ完全な形で残っていましたが、今は右下の写真のようにほんの一部しか残っていません。

笹山城(日限山の辺り)から、この旧道を鎌倉方面に歩くと、横浜市港南区の最南端にあたる港南プラザ等の住宅街を経て、舞岡公園脇を通り、横浜市栄区小菅ヶ谷に至ります。

そして同横浜市栄区の笠間十字路で分岐して、大船の玉縄(玉縄城)に至る道と、北鎌倉から鎌倉に至る鎌倉街道に分かれます。

この道の途中、舞岡公園脇の尾根道辺りに、トトロに出てくるような大きな木があり、その木の根元に庚申塔があったのを記憶しております。

私の高校に通う通学路でしたが、かなり寂しい鬱蒼と茂った森と言ったところで、夜になってそこを通るのが、ちょっと怖い位、人里離れていました。(当時舞岡公園はまだありませんでした。)

見つかった庚申塔
特にその木は周りに比べて一際大きく、昔首つり自殺をされた方の遺体がぶら下がっていたなんて、高校で噂されたこともあったので、いつもその下を夜分に通る時は、恐る恐るでした。また木の根元にあった庚申塔も通学の途中に覗き込んだ覚えがありますが、弘明寺方面(日限山方面)と鎌倉方面の道標が横に彫ってあったような気がしました。


この庚申塔とトトロの木が今どうなっているのか、既にその頃から30年近くも経っていましたが、とても気になり、前あった場所に行ってみました。

しかし、その場所に行っても見つからないのです。

廻りは舞岡公園の整備と、環状2号線によって大分様相が変わっていました。

ちょっと拍子抜けして、帰ろうとした時です。

元々の場所とは違うのですが、大きな見覚えのあるトトロの木が見えたような気がしました。その木に向かって近づくと、フェンスがあり、庚申塔がそこに建っていました。

「これだ!この庚申塔だ!」


横の文字を確認しました。間違いありません。でもこんな綺麗に建っていたものでは無かったはず・・・
これよりぐめうじミち

と、その時、フェンスの横に看板があることに気が付きました。

その看板には、このように書かれてありました。長いですが、引用させてください。

「この庚申塔は、1737年に舞岡村の信者によって建てられました。もとはここから凡そ八十メートルの場所にありましたが、都市計画道路横浜藤沢線の建設により現在の場所に移されました。」

「庚申塔の向かって右側面には『これよりぐめうじミち』(写真右)、左側面には『これよりかまくらミち』(写真右下)と道標が刻まれています。
道路建設前、この周辺は雑木林に覆われた舞岡川源流の丘陵地で、丘陵の尾根に沿って日限山方面から小菅ヶ谷方面へ抜ける尾根道がありました。

それは中世の鎌倉道の一つの古道で、江戸時代には『ぐみょうじみち』と言われ、東海道の保土ヶ谷宿から弘明寺観音を経て鎌倉へ通じる道として利用されていました。

その道沿いにひときわ目を引くスダジイの大木がそびえ、二又に分かれた幹の根元に包み込まれるように、この庚申塔は建っていました。」
これよりかまくらミち

「スダジイは推定樹齢から庚申塔の建立と同時期に植えたとみられ、二百六十年余にわたって、両者が一体となって往来する人々に道標の役割を果たしてきたことが伺えます。」

「道路建設によりこの辺りの地形は大きく変わり、スダジイと庚申塔が見守ってきた古道の尾根道も消失しました。
庚申塔とスダジイは、市民と横浜市との話し合いにより移転が実現し、スダジイの幹はここからも見えますが、舞岡公園内の南の丘に移植されています。」

当時のスダジイの幹の根元に抱かれている庚申塔の写真もありました。

左下がその写真ですが、確かにこんな感じの不安定な立ち方をしていましたね。実際はこの根元、かなり雑草が生え、夏場等はこの庚申塔が見えないくらいの背丈になっていましたが・・・。

私がこの道を通ったのは、1981年~84年の3年間、庚申塔が出来てから、244~247年後ですね。

凄く懐かしかったです。

スダジイの根本にあった庚申塔
そして、私と同じようにこのスダジイと庚申塔に愛着をもっていた地元の人が居て、ちゃんと開発の中でも保護されているということに感動しました。
 
トトロの木のようなスダジイの木、260年も同じところで、その幹に庚申塔を抱きつつ、この庚申塔を覗き込んだりする人や、庚申塔前の鎌倉街道を歩く人を見つづけてきたのでしょう。私も同じように高校通学の3年間、試験の成績が悪くて落ち込んでいる時も、女の子に振られて落ち込んでいる時も、(落ち込んでばかり・・・?)良い事もあってウキウキして帰宅する時も、スダジイに見られてたのですね。たまーに庚申塔覗き込みましたけど(笑)。

人の都合によって、移植はされたものの、これからも、庚申塔と一緒に舞岡公園に立って、これからも260年以上、来る人を見守って行って欲しいものです。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。