マイナー・史跡巡り: 中尊寺金色堂② ~前九年の役~

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中尊寺金色堂② ~前九年の役~

①安倍氏v.s源頼義 家系図等(再掲)
「前九年の役」については、朝廷並びに陸奥国守源頼義(よりよし)に、恭順していた陸奥の国の安倍頼時(よりとき)が、頼義らの策謀に遭い、殺されるところまで、前回お話しました。

今回はそのお話の続きです。

この策謀に憤慨したのが、安倍頼時の息子、安倍貞任(さだとう)です。(図①)

貞任は、衣川柵にある安倍屋敷目掛けて攻めてくる源頼義ら朝廷軍を、父・頼時の弔い合戦であると気炎を上げ、蝦夷の兵4000を揃え、迎撃の準備をするのです。

1.黄海川の戦い(源頼義の大敗北)

②安倍貞任・宗任の軍を描いた絵巻
多賀城で1800の朝廷軍を整え、安倍氏の蝦夷軍を討伐に出発した源頼義。

しかし、彼ら朝廷軍に待っていたのは、東北地方特有の極寒です。寒さに馴れていない朝廷軍は疲れ切ってしまうと同時に、補給路もかなり伸び、食料が兵士全体に上手く行き渡りません

それに対して、衣川柵の安倍屋敷を出発し、南下した蝦夷軍は河崎柵という場所で朝廷軍を待ちかまえます。(場所は、図④参照)

軍勢数も4000対1800、更に蝦夷軍は、前回書きましたように、殺された安倍頼時(貞任の父)の弔い合戦の勢いですからモチベーションも違います。
蝦夷軍は、吹雪きの中、河崎柵内に止まらず、出て、黄海川(きみかわ)で朝廷軍を迎え撃ちます。(写真③)

③黄海川
極寒の吹雪きが激しい中、黄海川を挟んで、蝦夷軍と対峙していたつもりの朝廷軍は、吹雪きで視界が悪いため、土地を知り抜いている蝦夷軍に、包囲されていることに全く気が付きませんでした。

戦が開始され、黄海川正面の敵にばかり気を取られていた朝廷軍は、四方から押し掛ける蝦夷軍に完全に囲まれた形となりました。その上、寒さと飢えの朝廷軍、何から何まで不利である彼らに勝因はありません。結果はやはり、ボロ負けに負けて撤退します。

この負け戦中、源頼義の息子の義家(よしいえ)の大活躍で、何とか活路を開き、頼義らは命辛々何とか落ち延びることが出来たのですが、多賀城まで落ち延びたのは、たった6,7騎だったと云います。朝廷軍大敗北です。


④前九年の役 源頼義軍進軍状況(再掲)
2.清原氏の参戦

蝦夷は強い!

と敵に感心している源頼義に対し、折角、戦上手であろうと彼に期待をした朝廷はがっかりです。

ただ、何故か彼は多賀城では周囲の国人等からも信頼が厚く、朝廷が頼義の代わりに送ってきた陸奥国守にはなかなか従わないので、結局、源頼義がまた引き続き国守に返り咲きます。

それから数年は、源頼義は軍編成をすることが出来ず、復活に専念しなければなりませんでした。

逆に、朝廷軍に勝利した安倍貞任や藤原経清(つねきよ)らは勢いが付き、従来図④のピンクの部分のみが安倍氏所領内でしたが、衣川柵より南側にも勢力を拡大しました。

特に、藤原経清は、この地域での朝廷への貢租に使った赤札の代わりに、自分達の白札を使い、この貢租を全て安倍氏側で徴収するという朝廷への対抗措置を取りました。(写真⑤)

⑤藤原経清を演じる渡辺謙さん
(大河ドラマ)
朝廷としての面目丸潰れです。

「何をしている!!早く安倍一族を討て!!」

朝廷から陸奥国守源頼義へのプレッシャーは日に日に大きくなります。

頼義は早く兵力を増強するために、関東や東海、近畿等の源氏一族に働きかけて徴兵を加速すると同時に、もう一工夫考えます。

それは、寒冷地に強い安倍一族とその軍に対抗するには、やはり寒冷地仕様の軍が必要であり、それらは前述地域での徴兵ではなんともなりません。

そこで前回お話しました東北地方の安倍氏以外の一大勢力、仙北三郡を所領する出羽(秋田県)の清原氏を頼ることにしました。

この軍なら安倍氏と同じ寒冷地仕様ですし、勢力も十分に大きく、かつ大体隣国同士はライバル意識が強いので、源頼義ら朝廷軍の力強い味方になると考えたのです。(図⑥)
⑥源頼義は出羽の清原氏と連合を組む

当初、清原氏の当主は拒否したとのことですが、何か「珍妙」な贈り物を源頼義がしたところ、1万の兵を弟の清原武則(きよはらたけのり)につけて源頼義軍に合流させました。

清原軍との連合により、朝廷連合軍は1万3千となったのです。先の戦が1800だったことを考えると、かなりの大軍です。

3.安倍氏領内への侵攻

安倍氏率いる蝦夷軍も、この清原軍が源頼義軍と合流した直後、衣川柵(平泉)の一歩手前、現在の一関市辺りで朝廷軍を迎撃します。

朝廷軍はこの時も、長雨で進軍を中止し、補給物資が欠乏しかけていました。
また、更に既に2回蝦夷軍に負け、「蝦夷軍強し!」いうトラウマが朝廷軍の中に蔓延していました。

しかし、今回の遠征では、源頼義のリーダーシップが今までより遥かに発揮されたのです。この時の源頼義は、あえて前向きな事ばかり言うことで、「また負けるかもしれない」という意識を改革します。

敵が攻めて来た事に対し、源頼義は「好機到来!」「今の朝廷軍の勢いは侵略する水火の如く!」等々
⑦中尊寺月見坂にある八幡堂(上)
※下は八幡堂向かって右手にある月見坂
全軍を盛んに鼓舞し、ネガティブシンキングを除去します。

これが上手く働き、今まで負け続きだった朝廷軍は蝦夷軍に緒戦で勝利を収めることに成功するのです。勿論、軍勢が増えたことや清原軍の援軍要因も大きいとは思いますが・・・。

また、源頼義は、この進軍中にも戦勝祈願もあちこちで行っています。(写真⑦)

平泉中尊寺にある月見坂の脇に八幡堂という源頼義が緒戦の勝利と安部氏討伐祈願をしたお堂があります。金色堂に比べると地味で訪れる人も殆ど居ませんが、ここを訪れた頼義は、やっと幸先が良くなりかけて来た時だけに、かなり熱心に祈願をしたと想像できます。この祈願を行った経緯と、藤原清衡がここに中尊寺を建立したことに何か関係があれば面白いのですが、今回の調査の中では残念ながら、それは分かりませんでした。

4.厨川柵の戦い
⑧衣川柵跡

八幡堂で祈念したことが効いたのかどうかは分かりませんが、この後、朝廷軍は図④のように安倍屋敷のあった衣川柵を落とし、安倍氏の所領奥六郡に侵攻することが出来ました。(写真⑧)

そして、北へ落ちていく安倍一族の蝦夷軍を鳥海柵等でも破り、厨川(くりやがわ)柵へと追い込んでいきます。(写真⑨)

この厨川柵は、安倍一族の本拠であることから、安倍貞任らも、ここをとられたら終わりと考えます。なので、蝦夷軍は決戦覚悟なので、流石の朝廷連合軍も歯が立ちません。

そこで、源頼義らは、厨川柵の対面に薪を積み上げ火を付けようとします。

勿論、蝦夷軍も、それに火を付けること位は分かっています。しかし、朝廷軍は柵に薪を立てかける等ではなく、あくまで蝦夷軍の矢雨の中、矢立を柵近くまで前進させ、そこに薪を積んでいるのです。

そんなものに火を付けたところで、柵まで火は廻らず、精々煙による突撃陣の目くらましくらいだろうと、蝦夷軍は高を括ります。

さて、この作戦、実は最後は神頼み戦法です。
総大将源頼時は、前線に出てきて祈ります。

⑨厨川柵跡(盛岡市)
※現在は天昌寺が建っている
「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。どうか皇国をお守するために、これらの薪にくべる火をもって逆賊安倍一族を葬り去り給え!」

そして柵近くに設置した薪に火矢で火を付けます。単にそこで燃え広がる薪を見て、蝦夷軍は笑います。

「やはり、そこで燃えているだけじゃないか!(笑)」

と言った次の瞬間、大風が吹いてきて薪の火は一気に大きく燃え広がり、柵にまで飛び火します。そして柵はどんどん延焼して燃えるのです。

蝦夷軍は大混乱、そこにすかさず源頼義・義家をはじめとする朝廷軍は踏み込み、見事蝦夷軍を撃滅。安倍貞任をはじめとする一族や、藤原経清を捕縛・斬首することに成功。

ここで蝦夷の王者、安倍氏は滅ぶことになり、これが世に云う前九年の役のあらまわしです。

5.源頼義・義家の戦勝祈願について

前九年の役、如何だったでしょうか?

源頼義が神頼みで祈る中に出て来た「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。」について、補足説明を最後にさせて下さい。

⑩杉並区にある大宮八幡宮
源頼義は、この戦に臨み、既にお話しました月見坂の八幡堂以外にも、2か所で八幡様に戦勝祈願をしているのです。

それは、陸奥国守に任命され、安部氏討伐を朝廷から拝命された時、源頼義は相模国守だったので、陸奥国行きの前に、相模国内・鎌倉の鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮に戦勝祈願をしています。

また、鎮圧軍を進め、現在の東京杉並区の辺りに差し掛かると、空に白雲が八条にたなびき(イメージは写真⑫参照)、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となったため、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜び、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈ったのです。(写真⑩)

戦後、鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮ならびに、杉並区には大宮八幡宮という大きな神社を建立し、戦勝祝いの印としたのです。両八幡宮とも京都の岩清水八幡宮の八幡大神を勧請して創立されています。
⑪鈍刀で藤原経清の首を斬る頼義
「後三年合戦物語」より

ということは、もしもの話で恐縮ですが、源頼朝が、関東の何処を首府とするのが一番良いかの結論を、鎌倉ではなくて、後の徳川家康のように江戸とチョイスしていたのであれば、この杉並区の大宮八幡宮も、鶴岡八幡宮のような機能を担っていたのかも知れません。つまり江戸の守り神ですね!

勿論、大宮八幡宮は、現在も写真⑩のように大きな神社ですし、鶴岡八幡宮と大きな差があるとは思いませんが、ここが鎌倉の鶴岡八幡宮と同様、江戸という都市の中枢的な役割になっていて、多少、江戸の町の機能も変わっていたらと想像すると面白くありませんか?

6.おわりに

前九年の役で、捕らえられた安倍一族もさることながら、源頼義が一番憎んで余りあったのが、藤原経清です。

それは、かれの離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰されたことにあります。頼義は、引き出された経清を罵倒し、わざと切れない鈍刀を使って、苦しみが長続きするように、経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らすのです。(絵⑪)

ただ、経清の妻は清原氏の長男に再婚させるのです。この妻は、連れ子がありました。それが、このシリーズの中心人物、後に藤原清衡となる清衡なのです。

⑫東北の雲・空
さて、この清衡が、次の後三年の役(後三年合戦とも云う)の中心的人物になって行きます。また陸奥国守の源頼義の息子たち、義家(八幡太郎義家)や義光(新羅三郎義光)らも後三年では清衡らとともに大乱闘をしますので、続きを楽しみにお待ちください。

最後の最後に一言だけ、現首相の安倍晋三氏は、この安倍頼時(ちなみに図①の安倍宗任)のご子孫にあたります。

やはり蝦夷は現代まで強いです。

今回私が蝦夷地へ向かう東北自動車道からも、写真⑫のように、雲が綺麗に見えました。源頼義が東北に向かう途中、杉並区でみた雲もこんな感じで、印象的だったのでしょうか。(写真⑫)

長文お読み頂きありがとうございました!!
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【黄海の合戦】岩手県一関市藤沢町黄海町裏63
【八幡堂(月見坂)】岩手 県 西磐井 郡 平泉 町 平泉 衣 関 46
【衣川柵】岩手県奥州市衣川区並木前
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目
【大宮八幡宮】東京都杉並区大宮2丁目3−1