マイナー・史跡巡り: 日本で最初にパンを焼いた?~江川邸と韮山反射炉~

月曜日

日本で最初にパンを焼いた?~江川邸と韮山反射炉~

大河ドラマ「篤姫」にも使われた江川邸の門
最近長いブログばかり書いて、ちょっと食傷気味になってきましたので、今回は短いエピソードを書いてみたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】

皆さんは、最初に西洋に習ってパンを焼いたのはどの土地だと思いますか?

伊豆なんですね!

私はつい最近まで神戸だと思っていました。昔の記録を見ると、西洋人が来日した戦国時代から、パンを食した記録はあるようですが、初めて日本で作ったのは、結構最近の事なのです。

金平糖やカステラ等は江戸時代もあったのでしょうから、ちょっと不思議な気がします。

最初が幕末、しかも伊豆というのが意外です。

撮影中は島津今和泉家に変身!
韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門英龍という大代官殿が最初にこの地伊豆は韮山の屋敷で焼いたことに始まるようです。

右の写真が今も残るその屋敷の門ですが、この門の場面、覚えている人は少ないかもしれませんが、かつての大河ドラマ「篤姫」の撮影で、篤姫の実家今和泉島津家の屋敷として、撮影に使われたのだそうです。

手前の砂利敷の前に嫁ぐ前の篤姫の駕籠が置かれて、門をくぐって出てくる篤姫こと宮崎あおいさんの一場面が思い出されます。

本題に戻りますが、この江川太郎左衛門さんは、当時としてはかなり先進的な活動家のようで、色々なものの発明、工夫をしております。 

ただ、一貫しているのは、全て軍事力強化、富国強兵の基となることばかりで、この時代、まさに坂の上の雲を目指した国士の代表のような方ですね!
江川邸の庭にある「パン祖の碑」

 この江川邸を入ると、庭に種々の樹木があります。その中に、パン祖の碑があります。

何故、伊豆の一地方の代官が?と思いましたので、説明員の方にこの質問を投げかけると

「そもそも、伊豆は海岸線に囲まれ、昔から北条水軍に代表されるよう海洋に関しては熱心な土地柄、幕末の頃になると黒船もそうだが、外国船の沿岸接近に伴う警護を意識するようになったため、江川家でも早くから啓蒙的な人物が育成される仕組みが出来ていた」

のだそうです。

江川太郎左衛門英龍は、その中でもかなり勉強熱心かつ行動的であったらしく、幕末に以下のような先進的な事を率先しております。

1.西洋式砲術の研究と訓練を行い、
  江川邸には佐久間象山、大鳥圭介
  橋本左内、桂小五郎等が彼の門下
  で学んでいます。

2.この砲術研究を元に、危機意識を
  持って、最初は下田、後に韮山に
  製鉄、大砲など武器を鋳造するた
  めの反射炉を作り、ここで作られ
  た大砲を持って、江戸のお台場に
  よる江戸湾警護の基を作った。

3.幕府に対して沿岸防備の建議を行
  い、お台場の構築に寄与した。

幕末の縁の下の力持ちですね。

江川太郎左衛門英龍肖像
理系的な匂いのする人ですと思いきや、坦庵(たんあん)なんて号も持っており、絵等も素晴らしい才を持っておられる、羨ましい人だったようです!

右の肖像画を見てください。当時の日本人には珍しく、目玉がやたら大きくないですか?そりゃあ、出来そうなお顔ですよ!って、少々やっかみ入っています。

さて、肝心のパンですが、パンは西洋式兵術を勉強している時に導入したものの一つだそうです。

昔から、日本には携帯式の食料として、糒等がありましたが、火を起こして自炊する方式には変わりなく、それだと煙が立つため、敵に居場所や行動について教えてしまうという欠点がありました。

戦国時代の川中島の戦いで、妻女山に入った上杉謙信は、松代の海津城に上がる武田軍の炊飯の煙の多さで、「今夜、武田軍が動く!」と判断し、裏を斯いたのは有名ですね。

この欠点を克服するのに、西洋のパンは、煙を立てない、かつ軽量なので、軍事活動には一番良いと考えたのでしょう。

なので、彼が焼いたパンは長持ちする乾パンです。兵糧ですから。

日本初パン焼き道具
左の写真が当時はじめてパンを焼いた時に使った窯石と鉄鍋だそうです。窯石は伊豆石で出来ているとの記述がありました。

話しは逸れますが、我が家の近くにPrologeという美味しいパン屋さんがあります。

ここの窯は富士山の溶岩でできているのが一つの売りで、溶岩で出来た窯だから高温で美味しく焼けるようです。

伊豆石がどれ程美味しく焼けるのかは、よく分かりませんが、この辺りも富士山の溶岩は沢山ありますから、それで作れば更に美味しかったのかな?

さらに、最近はホームベーカリーが発達していて、家庭でも柔らかくてフワフワのパンを、この写真の何分の一の小さな家電で作れてしまいますね。

それも全自動で、夜寝る前にセットしておけば、夜中に捏ねて、イースト菌で発酵させて、焼いて、朝には美味しいパンが出来ている。たかだかこの時代から150年しか経っていないのに、全く技術の進歩というのは凄まじい限りですね。まあ、戦争道具に関しては、更にスゴイ進歩ですけど・・・

韮山反射炉
さて、この最初に作ったパン、味の方は?というと、ベーカリー程ではないだろうとお思いになりますでしょう?実は当時のパンを食べることが出来ました。(勿論、再現ですが)

このパン祖である江川さんの一番有名な事業は「反射炉(銑鉄を溶かし、鋳型に流し込む溶鉱炉みたいなもの)を作ったこと」ですね。

この邸宅の近くに、その「韮山反射炉」があります。

話は逸れますが、韮山反射炉についてお話させてください。

現在、この史跡は、世界遺産への登録目指して頑張っています。

沢山のご説明の方がボランティアなさっております。(江川邸でもそうでした。上の江川邸門の前での写真で水色のTシャツを着ていらっしゃる方がボランティアの説明員の方です。)

反射炉の何が凄いか。簡単にご説明させていただきます。

黒船が来航した時に日本が持っていた大砲は殆どが青銅式でした。まあ、お寺の鐘を見れば分かると思いますが、あのような材質でしか大きな鋳造物を作る技術を持ち合わせていなかったのですね。

そこに黒船が持ってきた鉄の大きな大砲。飛距離も違えば、連射できる耐久性も全然違うものでした。
第3台場にある砲台跡

そこで、島津斉彬公、鍋島閑叟公 をはじめとする、偉い方々が居て、これではいかんと鉄で大型の鋳造物を作ろうと西洋技術を勉強し、色々と自作したのですね。

その一つがこの反射炉でした。当時の薩摩や肥後にも反射炉はあったようですし、この反射炉自体、最初は下田で構築が進んでいました。

下田が開港し、ハリスが総領事館を構えたので、こちら韮山に持ってきたとのことです。他の場所の反射炉は全て無くなってしまい、現存するのはこの韮山だけということだそうです。

何故反射炉と言うのか?それは銑鉄を溶かすのに、組んだ煉瓦の中が熱を反射するような構造にしたことにあるようです。

ということで、この反射炉で作った大砲は、あのベイブリッジのあるお台場の砲台に据え付けられていたとの事です。(右上写真)

4つ入って売っています
鉄の大砲が日本には無い!との危機意識で作った反射炉ですが、その後、日本の八幡製鉄所へその技術はトランスファーされ、「鉄は国家なり!」と国の基となった発祥なのですから、世界遺産登録されてもおかしくないと思います。

特に生糸により、明治政府のお財布を作ったことによる功績で、富岡製糸工場跡が世界遺産に登録されるのであれば、韮山反射炉も同じような歴史的意義があると思います。

という意見を説明員の方に述べましたところ、大変喜んでくれました。頑張れ!韮山反射炉!

さて、肝心のパンですが、多分、観光客が江川邸より、韮山反射炉の方が集まるからですかね?こちら反射炉脇の売店にて売っていました。(写真右)

 見ての通り、かなり平たいです。かつカチコチです。酵母使ってないのでは?と思うくらい硬いです。歯が悪い人は、かぶりつくのは、お止めになった方が歯の為です。

これでは、やはりパンの発祥は、その後の神戸と言った方が分かりやすいかも知れないなと思いつつも、丸々一個食べて分かった良い点があります。

一個で、普通のパン3個分位の満腹感があります。これは、携帯用食料としては大事な要素です。やたら体積を取るパンは、持ち運びに不便です。これ位実が詰まっている方が、少ない量で、多くのエネルギーを取れるので、戦時には多いに役に立ちます。

パン祖はお饅頭のよう
また、かなりこれだけでも美味しいです。塩味が上手く効いており、食べ応えがあり、美味しいとすれば、当時の携帯食料としての完成度はかなりあるのではないでしょうか?

これは今盛んに言われる常備すべき非常食として使えると思い、沢山買ってしまいましたよ。

これを機会に、今度はお台場砲台跡にも行って見たいと思います。

全然短く無くなってしまいましたね!完読ありがとうございました。


【江川邸】静岡県伊豆の国市韮山韮山1
【反射炉】静岡県伊豆の国市中 中字鳴滝入268