マイナー・史跡巡り: 三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~

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三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~

①三浦氏本拠 衣笠城の旗立岩
神奈川には三浦半島がありますが、ここを拠点とし、相模国へ勢力を拡大する三浦氏は、平安時代末期から、戦国時代初期の北条早雲に滅ぼされるまで、単なる一地方豪族というよりは、歴史の中核者たる活躍をします。(写真①)

また血族ではありませんが、江戸時代初期に、英国人ウィリアム・アダムスが「三浦按針」という名を家康から貰う等、平安末期から江戸初期までの500年もの長い期間、日本史に三浦氏という名が深く係っているのに感心しました。

そこで、「三浦一族シリーズ」として、それぞれの時代毎に活躍した人物を、気長に描きたいと思います。

まず最初のシリーズは、源頼朝の旗揚げの中における三浦氏の働き等を見ていきます。

1.洞窟の頼朝

右の絵、見たことのある方も多いと思います。(絵②)

日本画家の前田青邨の有名な1枚「洞窟の頼朝」です。
②前田青邨「洞窟の頼朝」

立派なクワガタを持つ鎧の武者は、勿論頼朝です。

この絵では、後ろ向きの1名を除いて、皆斜め前方に視線が向けられています。

この視線の統一によって、ただならぬ一瞬だと見る人に分からせるように描いている前田青邨、流石です。

そう、この瞬間が、旗揚げから鎌倉幕府成立までの間で、源頼朝最大のピンチなのです。

では、ここに至るまでの経緯とその後について、2~3回のシリーズで描いていきたいと思います。

2.蛭が小島

詳細は省きますが、1160年の平治の乱平清盛に敗れた頼朝の父、源義朝(よしとも)は東国へ落ち延び、体制を立て直そうとします。

が、名古屋辺りで風呂に入ったところを、だまし討ちに合い、首を取られます。

③頼朝が流された伊豆
狩野川流域「蛭が小島」
この逃亡の一団に長男、次男はきちんと付いて行ったのですが、三男である頼朝は、直前にはぐれてしまいます。

これがラッキーでした。

残念ですが、義朝を討った後に捕縛された頼朝の兄貴二人は、長男は斬首、次男は落ち武者狩りで負傷が元で死亡してしまったのです。

ところが、後から捕まった13歳の頼朝と、ちょうどその頃、乳飲み子だった牛若(義経)らが、器量の良さで、義朝の寵愛を受けていた母である常盤御前と一緒に捕まったことは、不幸中の幸いでした。

清盛は、自分の母親、長男の重盛等の助命嘆願等もありましたが、当時の世論に負けたのでしょう。保元の乱の首謀者、信西(しんぜい)が根絶やしの斬首をしたのと同じ、非情は自分に返ってくるぞ(信西は後晒し首)と世間で騒がれると、感情量の多い清盛としては、やはり斬れなくなってしまったのだと思います。

そこで、ご存じのように頼朝は伊豆の蛭が小島へ流し、常盤御前の牛若ら3人の和子は鞍馬寺等の寺預けとするのです。(写真③)

3.頼朝 蛭が小島での17年間

しかし、清盛は頼朝を生かしておいたばかりに・・・と、後世では良く言われますが、それ以上に、流した場所が悪かったですね。

頼朝は結局、13歳から30歳までの17年間、蛭が小島で毎朝の読経等、信仰深い生活をしているかと思いきや、伊東 祐親(いとう すけちか)の娘、八重姫と恋仲に落ち、子供まで産ませたり、北条政子と駆落ちしたりと、まあ、ある意味、配流人としては、気楽な生活をしていました。
(八重姫の話は、内田氏のblog「ゆる歴散歩」をご参照ください。こちら

平家にとって問題は、彼が伊豆から関東に遠出できてしまう、甘い監視体制です。これが本当に保元の乱で大活躍した強弓の名手で、頼朝の叔父にあたる鎮西八郎為朝のような伊豆大島等の海中の島に流していたら、頼朝の旗揚げの可能性はほぼ0だったでしょう。

しかし、蛭が小島は地図④のように、伊豆の大きな川である狩野川の流域にある湿地帯の中の乾いた場所という意味合いの島であり、関東へ非常に出やすい地理的位置にあります。
④蛭が小島周辺
これでは、頼朝は「将来、父義朝の敵討ちをしなさいね!」と、言われんがばかりの土地に流されたようなものです。

誰か配流地を決定する時に、頼朝の旗揚げを期待して、裏工作した反清盛派が居たのでしょうか?
⑤佐々木四兄弟が身を寄せていた早川城空堀
(神奈川県綾瀬市)

実際、彼の旗揚げの時に良く付いてきてくれた佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)が居ます。

元々近江源氏(おうみげんじ)であった父、佐々木源三秀義(げんぞうひでよし)が、平治の乱で平家に屈せず、近江を逃げて、東へ下向する途中、相模国の渋谷氏という豪族早川城に身を寄せていました。

その父は、やはり頼朝を一縷の希望とするのか、自分の息子たち四兄弟を頼朝の下僕となるよう、蛭が小島へ送り込んでしまいます。(写真⑤)

また、三浦氏も、当時の三浦家宗主である三浦義明の弟、岡崎四郎義実(よしざね)と、さらに義実の息子、佐奈田与一義忠(さなだよいちよしただ)も、この蛭が小島に足繫く通い、三浦氏とのリエゾン(連絡)役となっていました。(写真⑥)

余談ですが、この佐奈田与一は、あの「真田丸」で有名な真田氏の先祖に当たります。

それから、土肥次郎実平(といじろうさねひら)はこの伊豆のすぐ隣の箱根や湯河原等の豪族でやはり頼朝のところに通ってくる若い衆の1人。

⑥岡崎四郎義実の墓
(横浜市栄区證菩提寺)
というように、直ぐ隣の相模国(神奈川県)の豪族等を中心に、頼朝持ち上げ派というか、反平清盛派が着々と17年間、頼朝再起の素地を作っていたのです。

4.政子の駆落ち作戦と時政の策戦

山木判官兼隆(やまきほうがんかねたか)は、清盛政権が伊豆に送った大目付、つまり行政監査役のような役割を持った有力者です。では、ここ伊豆の行政執行者は誰かと云うと、齢50歳の北条時政です。

地図④の左下に彼の居城、守山城があります。
娘はかの有名な北条政子20歳

当初、時政はこの監査役の山木兼隆へ政子を嫁がせようとし、政子に無断で、兼隆に婚約の話を付けてしまっていたようです。
ところが、政子はこの時既に頼朝と一緒になりたいと思っていました。

政略的に優れた才覚がある政子ですので、兼隆との婚約を覆さず、輿入れした日の夜に、土肥次郎実平が騒動を起こし、そのドサクサに紛れて、実平の所領にある伊豆大権現に頼朝と駆落ちし、姿を晦ますことで、父時政に一切の責任は無く、政子1人の我儘のように見せかけます。

時政は、兼隆に対し、平謝りに謝り、「あのバカ娘はとっ捕まえたら、成敗します。今しばらくご堪忍を。」とし、兼隆の怒りを鎮めます。

しかし、時政も後に執権として辣腕を振るうだけあって、この政子の行動は、政子が兼隆に嫁ぐ直前に見通し、これを上手く利用することによって、実は頼朝に接近することの隠れ蓑としたのです。

⑦現在の山木判官邸跡
祠が一つあるのみ
時政は平家の末裔で、清盛からも覚えが良く、そもそも配流中の頼朝の監視を仰せつかっている立場なのですが、そろそろ京の平家のやり方や、官僚的である山木兼隆のやり方に愛想を尽かし始め、聡明な娘である政子が見初めた頼朝に肩入れする気になっていました。

ただ、山木兼隆にそれがバレては大変です。監査役ですから、直ぐに京に報告されてしまいます。そこで、時政は政子の策にわざとはめられたフリをしたのです。

5.旗揚げ

それからしばらく経った1180年、京の仁王(もちひとおう)から平氏追討の令旨が、発出されます。
この令旨により、頼朝は源氏再興のため立ちます。いや、立たざるを得なくなりました。

というのは、先にこの令旨を持って宇治で挙兵した源頼政を平家が鎮圧した例があり、殊に娘八重姫の恨みを頂く伊藤祐親等の豪族は、この令旨による頼朝の挙兵を予想し、難癖付けて早めに潰してしまおうと考えているのです。

なので、早急に旗揚げをします。頼朝の旗揚げは、山木判官兼隆を急襲することから始まります。たった80数騎によるゲリラ戦です。

襲撃の前に、頼朝は佐々木四兄弟を始め、取り巻きの若い衆を1人1人自分の部屋へ呼んで、膝を突き合わせて、旗揚げへの忠誠を確かめます。
⑧佐々木四兄弟の早川城付近の田園風景
(丹沢の大山と左にうっすら富士山が)

そして、計画日当日は、早朝に頼朝を含め、全員北条時政の守山城に集まり、ここから騎馬で山木判官屋敷を襲撃することとしていました。

ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が参集時間になっても現れません。

「すわっ、裏切られたか?」

と頼朝の中に不安が過ぎります。膝を突き合わせ、打ち明けた秘密を持って、平家側に寝返ったか?

しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも表に出せば、今、ここに参集している土肥実平、佐奈田与一等へも動揺を与え、旗揚げは失敗するでしょう。

「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」

頼朝は、今度の旗揚げに臨み、準備した小さな正観音像を手の中で握りしめます。

⑨山木判官屋敷襲撃経路
そして、現場での具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今朝の朝駆けは中止。夜まで待ち、夜襲に計画を変更します。

若手の中からは「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。

それから2時間後、息を切らしながら、佐々木兄弟が参陣を果たしました。

彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻り、昨晩中には帰参する予定だったのが、昨晩の風雨により河川の氾濫等で行く手を遮られ、遅参したと云います。(写真⑧)

頼朝は強く叱責するも、内心は「由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。

そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。

⑩山木判官屋敷の北側は平地が広がる
さて、その日の夜半、山木判官屋敷に夜襲を掛けます。(地図⑨)

その晩は三島明神の祭礼日であり、地図⑨の山木判官屋敷の前、北側に伸びる道路は人が溢れます。

そこで北条時政は「蛭が小島を通り、地図上右側の丘陵地(これは後北条早雲時代の韮山城と幕末の江川太郎左衛門の屋敷跡)の間道を通って、襲撃した方が人に見つからず良いのでは」と提言します。

頼朝は「自分も最初はそう考えた。しかし、旗揚げの草創にそのような小手先的なやり方はしたくない。また北側からでないと騎馬が使えないので、地図⑨のルートにすべし」と指示を出すことで、総大将的な風格を醸し出し、旗揚げの雰囲気は更に盛り上がるのです。(写真⑩)

佐々木兄弟は、遅参の負い目を感じたのか、この夜襲では素晴らしい働きをします。

兄弟の2番目、経高が放った矢が、平家打倒の最初の矢となりました。兄弟はまず山木兼隆の後見人を倒します。

山木兼隆本人は、三島明神の祭りで若干酩酊しており、頼朝の来襲と聞いて、「なんぞ配流人風情の頼朝ごときが!」と馬鹿にします。

彼は、この伊豆国に来てから、頼朝の廻りに若い者たちが屯(たむろ)し、なにやら色々と動いているのは察していましたが、所詮、何も分かっていない生意気盛りの若輩の集まり、何が出来ようモノぞ と考えていました。

⑪今は跡形もない山木判官屋敷
※屋敷入口の道路脇に何か居る?
例えるなら、理想ばかりの超ベンチャー企業が、平家という大企業組織に立ち向かってくる他愛の無い騒動くらいに捉えていました。

実際政子の事件の件も、「まあ、配流人風情の頼朝と喧嘩するのも大人げない」と自分を納得させ、その優越感だけで今まで来たのですから。

ところがその彼の前に現れたのは北条時政。

山木兼隆は驚きます。チンピラ若造風情が頼朝と軽卒に、今回の事件を起こしたのなら、彼の理解の範囲ですが、50歳の分別もあると一目置いていた時政が加担している?

「裏切られた!!」

政子の件でも平謝りに謝っていた時政にはめられた。「おのれー!」と飛びかかる兼隆を時政が振り払うと、佐々木兄弟が組みかかり、彼の素っ首落します。

無念顔の山木兼隆の首を見て、時政は更に覚悟を固めるのです。

⑫石橋山合戦概況
(Wikipediaから)
一方、時政の居城で、戦果を気にする頼朝は、襲撃成功の合図である火の手が上がるのを今か今かと待っておりましたが、明け方近くに2㎞離れた山の端に火の手があがるのを見て、この旗揚げが成功したことを知り、ほっと安堵の溜息を洩らします。

6.石橋山合戦 前

この頼朝旗揚げの報は、あっという間に坂東武者の間に広まります。殊に平家側の有力豪族である北条時政が支援しているということが、単なる一部の夢見がちな若手の神輿担ぎ騒ぎではない印象を与えて、どちらに与するか、相模の国を中心に大きな問題となって行きます。

齢89歳の三浦義明。勿論既に彼の弟、岡崎義実や、その息子の佐奈田与一らは、頼朝と行動を共にしているのですが、更に義明は援軍を組織し、頼朝軍と合流すべく、高齢を押して居城である衣笠城を後に西に向けて出発します。(図⑫)

一方、頼朝も三浦軍と合流すべく、東に向かって軍を進めます。
そこで、発生するのが冒頭の絵②の瞬間を迎える石橋山合戦なのです。

ちょっと長くなりましたので、合戦の詳細等は次回にしたいと思います。

7.おわりに

今回調査中に、特に考え始めたのは、北条時政、三浦義明等、どっしと落ち着いた分別のある熟年層の頼朝に対する気持ちです。

三浦義明は、この次の話でも出てきますが、齢89歳という当時ではとんでもない長寿を全うするにあたり、最期は三浦氏の出自である清和源氏嫡流に掛けてみたいという観念だったかも知れません。

⑬衣笠城址にて
しかし、時政はどうでしょうか?彼はまだ50歳です。また出自は平貞盛(将門の従兄弟、詳しくは拙著「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご笑覧ください)つまり、平家なのです。
そう、時政にとっては源氏再興の嫡流というのは出自上、あまり意味が無いのです。

頼朝は、伊豆での約20年間、読経三昧等、信仰熱心な見上げた行いもあるものの、八重姫や亀の前、政子等、女性の尻を追いかけまわしていた感もあり、何もないこの当時一地方では、直ぐに噂になるでしょう。

このような中で、どうして頼朝に賭けることが出来たのか?
私とほぼ同世代の時政が頼朝に賭ける時のシチュエーションを、匹夫である私に縮退して考えてみます(笑)。

私が勤める会社とかつての競合会社で、今は倒産してしまった老舗で同族経営をしていた元社長の御曹司が、20歳になる私の娘と結婚を前提に付き合っているようだ。歳は33歳。

娘と一緒に私に挨拶に来た時、「これから、親の敵討のつもりでベンチャーを立ち上げ、お義父さまのお勤めの会社とも戦っていく所存です。若い仲間も何人もおりますが、宜しければお義父さまも、この会社を大きくするのにご尽力願えませんか?」と云ってきた。

なかなかしっかりしているようだが、父親に似て、少々女性関係は甘いようだ。

さて、どうするか?

うーむ、自分がそのベンチャー企業に乗り換えるどころか、娘を嫁にもやれないかもしれない(笑)。

⑭石橋山古戦場から箱根外輪山の峰を臨む
ここで考慮されていない1つの要素には、当時伊豆という国は中央政権である京から遠いため、ドサクサに紛れて有耶無耶にすることが多少は出来たというリスクヘッジの考え方です。

政子の駆落ちについても、中央政権である六波羅では状況が判別しづらく、山木兼隆と北条時政両方に報告書を提出するように云ってきたため、時政は適当にあしらうことも出来たようです。

しかし、凡夫である私には、まだ理解できない「俺はあんたに賭ける!」と素面(しらふ)でも云えた何かが頼朝にはあったのでしょうね。

その辺りを意識しつつ、引き続き頼朝をレポートしていきたいと思います。

ご精読ありがとうございました!!

【蛭が小島】静岡県伊豆の国市四日町12
【山木判官兼隆屋敷】 静岡県伊豆の国市韮山山木820−5
【早川城跡】神奈川県綾瀬市早川3丁目-4-964    
【岡崎四郎義実の墓(證菩提寺)】神奈川県横浜市栄区上郷町1864
【衣笠城址】神奈川県横須賀市衣笠町29