マイナー・史跡巡り: 首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~

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首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~


【写真①】鎌倉ハム

「鎌倉ハム」をご存じでしょうか?贈答品等として、関東では良く見かけると思います。(写真①

これ、名前の通り、鎌倉で作られているハムだと思われている方多いと思います。
実は、横浜市戸塚区が発祥の地なのです。

今回、首洗井戸の調査の最中にひょんなことから、井戸のすぐ近くが、鎌倉ハム創業の地であることが分かりました。

そして、調べる程に、実はこの首洗井戸と関係が深いことが分かりましたので、外伝としてレポートしたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.齋藤牛肉店
【写真②】齋藤牛肉店
(通りの奥に写真③の倉庫工場が見える)

私事で恐縮ですが、私が幼稚園児の頃、よく母の買い物に三輪車で付き合った齋藤牛肉店というお店がありました。

いつもお手伝いのご褒美として、おやつウィンナーを買ってもらいました。

おまけのシールが楽しみで、自分のベッドにベタベタ貼っていたことを覚えています。

その店が、この鎌倉ハム発祥の創業元だったのです。(写真②

今はもうシャッターも閉まって営業していないようですが、昔はここのオジサンにウィンナーのおまけを貰ったり、お肉をサービスして貰ったりと、昭和の古き良き時代の代表のようなお肉屋さんでした。

まさかこんなに身近なお肉屋さんが、あの有名な鎌倉ハムだったとは・・・。
【写真③】鎌倉ハム発祥の地(倉庫工場)

鎌倉ハム発祥の地である赤レンガ倉庫工場は、この齋藤牛肉店から、100m程道の奥にあります。(写真③

この倉庫、小さい頃から当たり前に見ていたのですが、まさかこれが150年前の創業時からあるものだとは思ってもいませんでした。

2.護良親王の御首行方説

さて、鎌倉ハムの話を横に置いて、今度は護良親王の話です。

先週まで、大々的に雛鶴姫の悲話を描いておいて、何を言い出すのかと怒られそうですが、今回調べていて感じたのは、今から700年も遡ると、歴史のメジャー路線からちょっとでも外れると、もう説が多くて大変だということです。

護良親王が斬首されたのは事実のようですが、そこからその御首がどうしたのかは諸説万乱なのです。

【表④】護良親王の御首のゆくえ説
表④を見て下さい。主な説だけで3つあります。

これ以外にも、そもそも斬首した淵辺義博が義人で、斬首したとは全くの嘘で、奥州に逃して、生き延びただとか、本当に色々な説があります。
【絵⑤】土牢の中での親王と南方?

雛鶴姫説以外の2つの説では、女性は護良親王の近くで過ごしています。

絵⑤にもありますように、この緋色の袴を履いた女性は、結構他の浮世絵でも見かけます。お側に女性が居たのも確かなのかもしれません。

ただ、説2はもしかしたら、御首ではなくて、切離した胴体の方を埋葬した可能性があるのでは?と考えています。

やはり御首は持ち出したのでしょう。

そうなると御首の持ち出しについては、説1か説3となりますが、今回「説3」について着目したいと思います。

3.齋藤家と益田家

当時、横浜市戸塚区の柏尾村には3家の有力者が居ました。

齋藤家と岡部家と益田家です。

この3家は、当時護良親王擁護派だったらしく、益田家では、護良親王が冤罪になって鎌倉から解放されたら、面倒を見るようにと、京の有力者(北畠家あたりか?)から仰せつかっていたようです。

なので、説3にあるように、無名の侍女は、戸塚の3家の中でも、最も有力者であった齋藤家のところに、護良親王の御首を持って現れるのです。

そこで、齋藤家は益田家と相談し、例の首洗井戸で御首を清め、王子神社の本殿の地下に埋めて隠します。
【地図⑥】有力3家(齋藤家、岡部家、益田家)と首洗井戸周辺の地図
この戸塚の有力家3家、この南北朝の700年前から、現代まで脈々と家が残っています。

首洗井戸、王子神社の位置関係も含めて、地図⑥に示します。
【写真⑦】天然記念物「益田家のモチノキ」

益田家は、護良親王が斬首されてしまい、使命を果たせなかったせいか、代々護良親王を偲ぶ気持ちが強いようです。

地図⑥にもありますように、県指定の天然記念物「益田家のモチノキ」は、益田家の先代が、護良親王と雛鶴姫に所縁が強い十津川から苗を貰ったものが、こんなに大きくなったものなのだそうです。(写真⑦

また、益田家敷地内の壁には、写真⑧のように、これも十津川の景色が描かれた壁が平成14年まではありました。(最近行ってみましたところ、益田家屋敷は丁度壊され、壁も下1/3しか残っていませんでしたが・・・勿体ないですね。)

このように、齋藤家と益田家は、侍女が持って来た護良親王の御首を洗い、王子神社へ埋葬するという首洗井戸と深い関係がある2家なのです。

前回のシリーズまで描いたように、説1の雛鶴姫たちが、大山道(地図⑥に大山道の分岐の位置も書き込みました)を使って雛鶴峠まで御首を持って行っていたとしても、首洗井戸で御首を清めた際にも、多分、齋藤家や益田家も関与したのでしょう。

いずれの説にせよ、齋藤家と益田家が首洗井戸と深い関係があった事は、疑いの余地が無さそうです。

【写真⑧】益田家の壁の十津川の景色
(左が吉野山)
護良親王の霊も両家に深く感謝していたのでしょう。

4.550年後の護良親王の恩返し

その護良親王の恩返しが両家にもたらされるのは、約550年後の明治に入ってからとなります。

明治初期、横浜の外国人居留区にいた外国人は日曜日になると馬や馬車で東海道を散策し、鎌倉や江の島方面まで出かけていました。

その中の1人、イギリス人のウィリアム・カーティスという人が、東海道戸塚宿の茶店で働いていた当時19歳の加藤かねさんが好きになってしまったらしく、毎週のように横浜から戸塚にやってきました。(写真⑨

【写真⑨】カーティス
かねさんもカーティスに惹かれ、親の猛反対を押し切って、彼と一緒になり、王子神社の直ぐ近くに家を建てて、彼と一緒に住むようになります。

この家をカーティスは外国人専用のホテルとして、増築に増築を重ねて大きくするのです。地図⑥の「異人館(白馬亭)」と書かれたところにあったようです。

現在は、かっぱ寿司があり、写真⑩にある土蔵以外は全く遺構や看板等は残っていません。

さて、外国人専用のホテルということで、当然出す食事は洋食、ただ、横浜に近いと言っても、なかなか新鮮なサラダや肉類を、取り寄せるのは大変です。
【写真⑩】異人館(白馬亭)に残る土蔵
※奥の駐車場辺りが牧場だった

野菜や穀物類なら、この辺りは大きな川の源泉もあるため、豊富に農家から手に入ります。

しかし、食肉用の牛や豚は、当時の日本にはこれを食す文化がまだ根付いていないため、なかなか手に入りません。

そこで、明治7年(1874年)カーティスはこのホテルの周り、王子神社隣接窪地一帯を牧場にし、牛や豚200頭も飼育するのです。(地図⑥の「牧場」辺り参照)

彼は、英国から使用人を10数人雇い、この牧場で造られた肉等の商品を、ホテルで料理して出すだけではなく、横浜の外国人街等にも売りに出し、儲けたようです。

特にここで作られたハムは「木箱一杯で100両ほどにもなる」と言う程、重宝され儲かったようです。

そうなると、柏尾村の人々は、このハムの製法を知りたがります。外国人相手の酪農を起したいと考えるのは当然でしょう。

しかし、カーティスや、その使用人の英国人達は、その製造方法を秘法として、製造場に村人を絶対に立ち入らせなかった、つまり、企業秘密にしたのです。

【写真⑪】齋藤家の屋敷(齋藤牛肉店前から)
※一番奥に見えるのが写真②の倉庫工場、
※現在は写真②のように屋敷は無くなっています
ところが、牧場に隣接していた王子神社からこれを見ていた護良親王が、この時事を起したのでしょうか(笑)。

明治17年(1884年)に地震が発生し、ハム工場が出火しました。

その時に村人たちが懸命に消火活動を行い、大きな火災にならずに済みました。

そこで、村人たちに恩義を感じたカーティスは、益田家の当主であった益田直蔵や、カーティスの妻、かねさんが奉公人時代に世話になっていた齋藤家の当主、齋藤満平にも製法を伝授したのです。

私も子供の頃、良く前を通った写真⑪の屋敷にかねさんも奉公されていたのでしょうね。

この屋敷の奥に写真②の倉庫工場がありますが、これを明治20年(1887年)に設立。これが鎌倉ハムの創業となるのです。

「鎌倉じゃなくて、横浜じゃないか!」と思われるでしょうが、この当時戸塚のこの辺りは「鎌倉郡戸塚」と、鎌倉地域とされていたので、鎌倉ハムと命名したのです。

奇しくも、この鎌倉ハムの製法を伝授されたのが3家のうち、護良親王に関わった齋藤家と益田家であったのは、やはり護良親王の恩返しなのではないでしょうか?

5.その後の鎌倉ハム

その証拠に、鎌倉ハムはその後、発展を続けます。
【写真⑫】創業当時のこの倉庫工場は今も現役
※「齋藤」の表札がある

外国人居留地以外にも、日清戦争辺りから、大日本帝国海軍の購入が増えます。

ご存じのように、海上では日持ちするハム等の肉類は非常に重宝される蛋白源です。

海軍からの需要も後押しし、鎌倉ハムの売上は増え続けます。

また、関東大震災で大きな被害を受けるも、復興途上で、被災時のリスク分散を考え、東海や関西にも、工場を進出させます。

そして太平洋戦争後、これら全国にちらばった工場がそれぞれ「鎌倉ハム〇〇商会」として発展していくのです。

ちなみに写真⑫のように、明治20年の創業当時のこの赤レンガ倉庫は、現在も現役として齋藤家が管理しています。

【写真⑬】戸塚駅西口(トツカーナ)の
「肉のさいとう」
また、鎌倉ハム以外にも、2010年にリニューアルした戸塚駅の西口ビルに写真⑬のお店を出店して、「戸塚名物ジャンボメンチ」等を売っているようです。

私が園児だった頃の齋藤牛肉店は、戸塚駅のリニューアルで、復活していたのですね。

6.おわりに

私がガキの頃に、買い物に連れて行かれたり、駄菓子屋にあるガムが景品で出るパチンコ台で遊んだり、はたまた目が悪くなって通った眼科、齋藤牛肉店や齋藤家の御屋敷、鎌倉ハムの赤レンガ倉庫工場のある旧東海道の通りは、非常に思い出が沢山ある懐かしい場所です。

今は、すっかり綺麗な住宅街に変わりつつあります。写真にも書きましたが、齋藤家のお屋敷も最近無くなったようですし、茅葺屋根で有名だった益田家も「益田家のモチノキ」を残して更地になっていました。
【写真⑭】旧東海道に面した石碑

護良親王の700年前頃から脈々と続いていた両家がここ2年のうちに無くなっていることは、少し寂しいですが、最近私の通っていた、旧東海道に面した眼科が、その敷地内に写真⑭のような石碑を建てていました。

この碑の裏には、以下のように書かれています。

「歴史は古く、永く
 そして悠久に継承される」
 「護良親王 首洗井戸へ二丁」

本当にそうですね。

鎌倉ハムの創業に関わった齋藤家、益田家2人のご先祖が、護良親王の御首の弔いに関係していたのは、単なる偶然かも知れませんが、やはりもしかしたら、この弔いの恩を「悠久に継承」して、今の鎌倉ハムがあるのかも知れないですよね。

皆さんはどう思われますか?

是非鎌倉ハムを食べる時、護良親王と関係があったハムであることを思い出してください。

それではまた!!

【鎌倉ハム 赤レンガ倉庫工場】横浜市戸塚区柏尾町185