マイナー・史跡巡り: 明日香村② ~石舞台・飛鳥寺~ -->

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明日香村② ~石舞台・飛鳥寺~

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.古代日本人について

 さて、話しが横道に逸れますが、古代日本人はどこから来たのかについては、諸説ありますね。

ところで、皆さんは、日本の神社と、ユダヤ教の風習が非常に似ているという説を聞いたことがありますか?

以下のURL等を参考にしていただけると助かるのですが、私も知る限り、イエス・キリストの先祖であると言われた「ダビデ」の紋章が伊勢神宮の石篭にあるとか、神社の鳥居が赤いのは、過越しの祭りの子羊の血を門に塗るユダヤ教の習慣から来ているのだ等と、一致する説明を沢山聞きます。

http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-592.html

そういう意味では、ユダヤ十二部族の一部族が天皇家の祖先であり、日本に移住してきた。という話がありますが、以下のように考えると筋が通りませんか?

人類移動概要図(国立科学博物館)
元々、南方系(右側の移動概要図のフィリピン辺り)から来た原日本民族に対して、今の天皇家の始祖を含む北方系からの民族が移動してきました。

右図からも分かるように、モンゴル方面(学説によるとバイカル湖畔が源流との説があります。)からの北方系の民族は、モンゴル方面から来たため、騎馬という機動力を持っていました。

この機動力により、南方系主体であった原日本人は、蹴散らされ、北方民族である天皇家の支配されるところとなったのです。

そして、原日本人は、日本の端っこまで追いやられ、つい最近まで生き残りましたが、北は北海道の原日本人がアイヌ、南は九州の熊襲となったという訳です。

また、ちょうどこの移民の時期が、4世紀までの日本で起きていることから、ユダヤ十二部族の移動時期に重なり、ユダヤの一部族が移動してきたと考える説が存在することも、それほど考えられないことではありませんね。

2.巨石文化と南方系移住民族
ムー大陸

では、その南方系の民族が来たことは、どこに文化として残っているかと言えば、それが今回の明日香村の巨石群です。

ムー文明の話しはご存じの事と思います。

昔から、〇〇ネシア(ポリネシア、ミクロネシア等々)と着く南方系の島々には共通した文化(イースター島のような巨石文化やトーテムポール等々)があるので、何かこの広範囲の島々を結ぶところに一つの文明があったのではないか?もしかしたら、大きな大陸が太平洋にあったのではないか?

ということで、考えられたのが、右図のムー大陸です。

アトランティスと同様、流石に大陸があったとなれば、もっと証拠が顕著であろうということで、大陸説はあまり信憑性がある話ではなくなったようです。

海と接していた明日香村周辺
しかし、東京大学名誉教授の竹内均氏が1980年、『ムー大陸から来た日本人』を発表し、ムー大陸はなかったが、ムー文明はあったのではないかとの説を提示されました。

これがムー文明ですが、やはり、この奈良盆地も6千年前には水没していた事実がある限り、このムー文明の影響を受けていた場所だったのではないでしょうか?

今の東京、大阪、名古屋、仙台、広島、それから世界各国の首都や文化の中心地というのは、海岸沿いが多いです。勿論、奈良の都のモチーフとなった長安等の都市は、奈良・京都等と同じように内陸ではありますが、これは計画的首都であったため、風水等の見地から、この場所になったのであって、自然発生的に人があつまり、文明が出来るところは、やはり海運が開ける所が栄えるのは当然の地の利なのでしょう。

ということは、以前のこの「マイナー史跡巡り」シリーズ(「明日香村① ~高松塚古墳と亀石~」)にも書いた6千年前の右上図のような海岸線を持つ明日香村にも、ムー文明の拠点が入り込んでいて、天皇家を中心とする北方から移住してくる民族前の原日本人の海運含めて発達した拠点が明日香村の辺りにあったという仮説はいかがでしょうか?

その証拠が巨石遺跡群なのではないかと。

これらの巨石はどこから運んできたのか?
そう考えると以前に書いた亀石伝説の中で、かつて奈良盆地が湖で、水が引いた後に沢山死んだ亀というのは、北方系に駆逐された南方系原日本人の事を差しているのではないかという大胆な想像もしちゃいます。

そういう原日本人のムー文明の拠点だったからこそ、その後に明日香に入った北方系移住日本人が、そこを都にしていったのかもしれません。

3.石舞台古墳

とかいろいろと考えてみますと、今回訪問した石舞台古墳も、そもそも石自体は、他の墳墓等から持ってきたものとの説もありますから、石の大元は、当時海だったところを使って持ってきた可能性はあるのではないでしょうか?

石は花崗岩であるとの事ですが、この辺りにそんな大きな花崗岩がゴロゴロしているのでしょうか?

かつて、秀吉は大阪城築城に際し、その石垣に使った石を小豆島や岡山沖から船で運んだといいます。

石釣り船
であれば、石舞台もどこからか、海運によって運ばれてきた?と考えたくなるわけです。

勿論、鬼の俎板・雪隠等を含めた巨石が、この明日香村の近くの山中から採掘されたものとする説がいくつかありますが、実際にはどこから採掘されたのか正確な事は分かっておりません。

特に、この石舞台の石等は、やはり他の古墳等と比しても、その石の大きさは圧倒的です。

また、やはり日本を含む島嶼群の中で、巨石と言えば、海はつきもののような気がします。長野県や東北地方にも巨石を崇拝する文化はありますが、それはどちらかというと、そもそも自然にそこにあった岩に対し、畏敬と日本固有の八百万の神の存在をたたえたものであり、それは山や川や大木等に対する信仰に近いものがあります。その巨石を動かす等はあまり考えられないのではないでしょうか?
巨石の運搬ルート図看板

やはり、巨石を動かしてくるということ自体、海運、川運によるものと考えるのが自然な感じがします。瀬戸内海には良質な花崗岩の岩の算出箇所が沢山あり、先程も書きましたが秀吉時代はそれらを比較的海が穏やかであるという条件も手伝って、大阪まで石釣り船で運搬した訳です。

 同様なことが、この石舞台古墳が出来る何千年前に起きていても、海さえ奈良盆地に入り込んでいれば不自然ではありません。瀬戸内海のこれらの巨石産出場所から、大阪への集積状況を示した看板が、大坂城にあります。これが、遠い昔、奈良へ向かっていたとしても、そんなに不思議ではないような・・・

この辺りは今後、更に調査をしてみたいと考えています。
 
石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であるという説が有力です。勿論、この古墳の巨石が海運によって運搬されたのは、この古墳が作られる何千年も前の事でしょう。蘇我馬子の時代に奈良盆地が海没していた事実はありませんので。
創建時の伽藍配置鳥瞰図(明日香村作成)

4.飛鳥寺について

さて、石舞台古墳に埋葬されている蘇我馬子について調べたいと思い、この石舞台の近くに、蘇我馬子の建立したとされる飛鳥寺があるので、行ってみることにしました。

創建当時は、流石に馬子の創った日本最初の本格的寺院さながら、左図のように、立派な伽藍配置だったようです。

殆ど田圃の中にある飛鳥寺

ただ、訪問した時は、写真のように、周囲に田園風景の広がる、苫屋の煙あがる、のんびりした風景の中にあるのが印象的でした。

さて、飛鳥寺は、日本最古の仏像があります。

これは飛鳥大仏と呼ばれ、605年、推古天皇が鞍作鳥仏師に作らせたものだそうです。鞍作鳥は朝鮮半島からの渡来人です。

このお寺の建立には、この鞍作鳥以外にも沢山の渡来人が来て、技術的指導をしたようです。

日本最古の仏像
ということは、それらの朝鮮半島からいらした渡来人の方々が、先の石舞台の馬子の墓作りにも、技術的な参加をされた可能性は高いのでしょうね。

正直、今の飛鳥寺は伽藍もあまり大きくなく、表層的には、多く見る場所があるようには見えませんでしたが、一つ私が気に入った場所に「真神原の眺め」があります。

ここは、当時の朝鮮半島の新羅の古都や、百済の古都の土地と見える風景が酷似しており、大陸風で、飛鳥地方随一なのだそうです。(写真下)

私から見ると、純日本風な明日香の土地も、望郷の渡来人たちの風景と重なるというのは、これらの場所が、素朴な日本風でありながら、国際色が強いという当時の面影を含んでいるというだけでも、一種の古代ロマンを感じますね。


色々な大胆な想像が出来てしまう明日香村ですが、更に色々と調べ、古代のロマンに心を馳せていきたいと思います。
真神原の眺め

それでは、今回はこの辺で。


【石舞台古墳】奈良県高市郡明日香村島庄254番地
【飛鳥寺】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥682