マイナー・史跡巡り: 松姫と八王子② ~松姫の八王子への逃亡~

土曜日

松姫と八王子② ~松姫の八王子への逃亡~

前回「松姫と八王子① ~武田家の滅亡~」では、松姫の前半生と、武田家滅亡における勝頼一行の行動について書きました。

後半は、松姫の八王子までの逃亡ルートに関して、思うところもありますので、その説と、八王子に来てからの松姫について書きたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】

 1.松姫の迂回ルート

さて、松姫は、高遠城で盛信の4歳の娘を預かってきただけでも大変なのに、新府城を出る時に、勝頼と北条夫人の間の娘(これまた4歳)を更に引き取って、ほぼ同じルートを逃亡します。

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武田家滅亡の直前の混乱時期であることから、逃亡ルートについては諸説あるようですが、一番オーソドックスなルートについて見ていきたいと思います。(上図赤い点線のルート

まず、勝頼たちと勝沼までは同じようなルートを辿るのですが、万が一の敵への遭遇を心配して、3人の姫を持つ松姫は、勝沼から北上し、塩山の辺りで状況を見ます。

すると、小山田信茂が背いて、勝頼一行は、小山田領の一歩手前の田野でうろうろしているところを、織田軍の滝川一益軍に追いつかれることが判明しました。

そこで、急遽塩山をさらに北上し、裏街道である大菩薩峠を迂回し、多摩川の源流である丹波山を通って、八王子に落ち延びるという上図のルートを、小さな娘3人引き連れて逃げ切りました。

大菩薩峠の辺りは雪深い
途中、裏切った小山田氏の居城である岩殿山城の北側の1250mもある峠を越えます。

この峠に、現在「松姫峠」という名前が付いています。

マイナーな感のある裏街道のようなので、ちょうど松姫が八王子まで逃げたこの街道を、逃げた時期と同じ3月ごろに、車でドライブしてみました。

かなり雪深いです。

今でこそ国道411号線が走っているため、道路の自体は、積雪は深くはありませんが、それでも500年も昔であったなら、どんなにか悪路であっただろうと想像できます。

しかも、4歳の他の人の娘3人連れてですから、流石松姫さんは信玄さんの娘や!と、逃げ方まで感心してしまいます。兄の盛信も立派でしたが、妹である松姫もなかなかです。

丹波山の辺りはさらに雪深い
ただ、この逃亡ルートを走っていて、感じたことがあります。

ます第1に、こんなうら寂しい街道を、小さな娘3人を伴って、目指す八王子に行けたのでしょうか?

また、武田家の最期や、小山田信茂の裏切り等、この裏街道で知りえることができたのでしょうか?

そもそも連れている3人の娘のうちの1人は小山田信茂の娘です。(3人の娘は、盛信の娘、勝頼の娘、小山田信茂の娘)

どうして裏切った一族の娘も一緒に行動している松姫が、その裏切りを知って、岩殿山城を迂回する形で関東まで逃げることができたのでしょう?

こんな雪深い熊が出そうな土地で、情報も殆ど入らない松姫は、実際は小山田信茂の裏切りを知らなかったのではないでしょうか?

2.松姫の八王子までの逃走ルートに対する新説

さて、そんな事を考えているうちに、国道411号線を外れ、小菅村方面の県道18号線に入りました。松姫峠はもうすぐです。

松姫峠は4月まで閉鎖でした
先に挙げた色々な疑問もさることながら、更に解けない疑問がありました。

それは、この松姫峠は上の図に書かれた定番の逃走ルートからは若干南側に外れた位置にある事実です。

つまり、松姫は1度ルートを南側へ取り、また北側へ戻りながら東へ向かったということになります。

この雪の多い季節にこんな大変なルートを通るでしょうか?
しかも態々1250mもの峠を越えて・・・

なんて色々と考えて車を走らせていると、なんと長々としたトンネルに入ってしまいました。

あれ?松姫峠は?
後日松姫峠に行くことが出来ました
(しかし、松姫トンネルのお蔭で、この峠、
大月方面からは閉鎖されています。)

その長いトンネルは、3か月前に出来たばかりの「松姫トンネル」でした。トンネルを出たところの看板に目を留めると、雪解けを待つ4月まで通行止めとの事でした。

松姫が越えたという松姫峠と同様に、松姫トンネルを松姫達が潜り抜けたというのであれば、このトンネルも重宝しますが、3か月前に出来たトンネルでは感慨の一つも湧きません。洒落にもならないです。

また絶対4月以降に来よう。

と誓いつつ、また考えさせられるのは、4月まで通行止めになるくらい雪深い峠を、本当にこの時期松姫は越えたのだろうか?相当難行だったろうに。

もう夕暮れ時だったので、今回は、上の図の逃亡ルートである県道18号に戻って、上野原に抜ける道を走ることを断念し、松姫峠への道をそのまま南下して国道139号沿いに中央道の大月へ出ることにしました。

そもそも、なんで峠から戻らなければならない道を松姫は行ったのかな。しかも難行の峠を行ったり来たりするものだろうか?
岩殿山城

国道139号沿いに走ると、何故か松姫に纏わる施設、松姫鉱泉とか松姫温泉?等が沢山出てきます。

勿論、松姫峠にあやかった施設かもしれませんが、この道は松姫とは全く関係ないはずなのにどうして峠の向こう側より、こちら側に松姫の名前を冠した施設が多いのだろうか?

まさか松姫一行がこの道横の鉱泉か温泉に入ったのではないだろうなあと気色の良い想像をしながら、走ること30分、目の前に見覚えのある奇岩の山のシルエットが、ヌーと現れました。小山田信茂の岩殿山城(右写真)です。

この瞬間、ハッと思いついたことがあります。

そうだ!松姫たちが逃亡したルートは、この道だったのかもしれない。

もしかしたら、松姫は、3人の娘を連れて、塩山を経由し、大菩薩峠を迂回するルートで、織田軍が武田の残党を追いかけている甲州街道を避けて八王子に入ったと言う説は違ったのかもしれません。

私が思うのは、松姫が勝頼らと別れたのは、塩山ではなく、もっとその手前の山梨あたりで、織田軍が勝頼らの一行に肉迫しているのを察知して、勝頼の娘だけを預かり、元々一緒だった盛信の娘と一緒に、勝頼たちとは別行動に出たのではと想像します。

通説では小山田信茂の娘も預かったとのことですが、私の想像では、この時小山田信茂の娘は岩殿山城に居るのです。

もしかしたら、松姫のオリジナルの発想ではなく、勝頼らとも示し合せた上での策だったのかもしれれない。

勝頼や北条夫人も、身内の中で少しでも逃れられる者は逃したいと思うでしょう。勿論信勝も逃したいでしょうが、世子だけに無理です。ですが、娘なら敵の織田軍も見逃してくれるかもしれません。

そこで、勝頼一行も、松姫一行も別々のルートで、避難先である小山田氏の岩殿山城を目指すことにしたのではないでしょうか?
松姫逃走ルートに対する独自説(図中茶色の線です。クリックすると拡大します。)

勝頼らと別れた松姫は、まだ小山田信茂の裏切りを知らなったのです。

1説には、当の小山田信茂すら、勝頼を裏切るつもりは無く、勝頼1行を迎え入れる準備のために、先に岩殿山城に入った信茂を拘束して、城代家老が裏切りを図ったとの話がある位ですから。

そして、塩山から大菩薩峠、丹波山、松姫峠を越える1行の中に、小山田信茂の娘はおらず、信盛の娘と勝頼の娘の2人を連れて、信茂の岩殿城に、勝頼1行と落ち合うつもりで、松姫はやってきました。

ここで、勝頼らが田野の地で自害し果てたことを知ると同時に、裏切りの角で、信長に処罰される小山田信茂の哀れも知ることになります。

そして、岩殿山城に居たのでは、織田軍に捕まってしまう、もっと東へ逃げなければ!と城を脱出しようとするところで、また小山田の親戚筋から、信茂の娘だけでも連れて逃げてくれるよう頼まれるのです。

小山田信茂は、先のブログで北条氏の滝山城攻撃で、鮮やかに小仏峠を越えて、北条領に侵入した経緯があります。

なので、小山田一族は、領土を接する北条氏照とは、敵同士でありながらも、誼を通じていたような形跡があり、氏照に連絡を取りつつ、和田峠等の間道の道案内を付けて、松姫一行を領内から脱出させたのではないのでしょうか。

これは、北条氏照が八王子は恩方に辿り着いた松姫らを庇護したとの話もあり、この辺りも私の説の補強になるのではないかと思います。

さて、ここまでの私の説を纏めると、上図の茶色の点線のようになります。

かなり、ルートは違いますが、これでやっと松姫峠を松姫らが通った理由や、それこそ岩殿山城に行く途中で、鉱泉にも入ったかもしれませんね。

この説、実はもっと色々と想定した根拠はあるのですが、あまり書きすぎると混乱しますので、この辺りにしておきます。

3.八王子到着後の松姫

長くなってきましたので、少々、その後の松姫については短めに書きます。

八王子で北条氏照の庇護の基、恩方の庵で3人の娘を育てながら、生活していた松姫に転機が訪れます。
信松院

武田家滅亡の直後に、松姫が八王子に逃げ延びたという話を聞いた織田信忠は、使者を送り、織田家・武田家の敵味方の関係が解消したことから、松姫との婚約破棄を解消したいと申し出ます。

まだ21歳の松姫は、かつて慕った信忠のこの申し出を受け入れるべく、安土目指して八王子から信忠の居る旅立つのですが、途中、6月2日に本能寺の変で、当時二条城に居た信忠も自害したことを知り、泣く泣く八王子に戻ってきます。

1つ前のブログで書きました映画「清州会議」で出てくる剛力彩芽扮する松姫は、信忠の息子、三法師を産んでいる設定になっていますが、実際には逢ってもいないのです。

ただ、武田攻めの総大将であった信忠が、逃亡中の松姫と一夜限りの逢瀬の後に出来た子が三法師だという大胆な仮説を取った場合には成り立つ考え方なのかも知れません。

八王子に戻った松姫は、武田家と織田家の悲運に何かを感じたのでしょうね。若干22歳で尼になります。
信松院にある松姫像
逃亡中の姿?

そして、草庵を恩方から、現在の信松院のある場所に移し、寺子屋を開き近所の子供を教育し、蚕を育て、織物を織り、その収入で3人の姫を育て上げたと言われます。

ある意味、現代でも居そうな(流石に蚕と機織りはしないか?)感心な女性かなと思いきや、江戸幕府の礎を築いたキーパーソンの1人、初代会津藩主 保科正之の養育や、武田家から流れてきた武士団である八王子千人同心の心の支え、更には武田家系である大久保長安との交流が厚かったことまで、滅びた後の武田家系の中心的支柱として、皆から慕われたスーパー女性だったようです。

また言ってしまうフレーズですが、流石は武田信玄の娘ですね。若いやんごとなき姫なのに、大きな勇気と行動力をもった女性であることや、若くして出家した後も、武田家遺臣の心のよりどころになった等、その自律性に感動する若い女性が多いのも頷けます。

冒頭の八王子市のゆるキャラも、実はそういう女性の自立性の象徴としてもキャラクター化する意義があると感じたようですよ。

八王子市もなかなか目の付け所が違います。流石です。

そして、先に述べた武田家の遺臣である千人同心らに見守られ、56歳の波乱万丈な生涯を閉じました。

今も信松院にある松姫のお墓は、多くの参詣者を集めます。

松姫のお墓は、松姫の名前にちなんだ大きな松の木の下にあります。

ご存じの方多いと思いますが、武田信玄は戦に出ると直ぐに良い松の木を見つけ、「旗立の松」として、その松の基に、孫子の旗「風林火山」を建てました。

前回のブログでも書きましたが、松姫が生まれた時も、川中島の合戦中で、本陣の松の木の基で出産の報告を聞いたので、松姫と命名したのだそうです。
松姫のお墓

松は強く、目立ち、陣の中心にはもってこいの木だ!

信玄公がそう言ったかどうかは分かりませんが、そんな松の木への想いを松姫も小さい頃から聞かされたのでしょう。

松の木に対する想いは松姫も強いようで、信松院の大きな松も松姫が自ら植えたのだそうです。その直ぐ横に松姫のお墓は建っています。

知る人ぞ知る松姫ですが、八王子のこのお寺、是非訪ねて、大きな松の木の下のお墓に参詣してみてください。

では、今回はこれにて失礼します。

【信松院】八王子市台町3-18-28
【松姫峠】国道139号線沿い山梨県北都留郡小菅村と大月市の間にある峠