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中尊寺金色堂⑥ ~後三年合戦 その4~

①沼柵跡
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前回の話のおさらいです。

家衡(いえひら)が、源義家(みなもとのよしいえ)・清衡(きよひら)連合軍に出羽(秋田県)の沼柵で勝利しました。(写真①)

くやしい義家軍は、第2次家衡征伐軍を組織します。

家衡は、支援に駆けつけた叔父の武衡(たけひら)らと、沼柵だけではなく、更に規模の大きな金沢柵に主力を移し、沼柵の部隊とも協働して、義家軍を追い落とす作戦を立てます。(人物相関図はこちらをクリック

また、義家も応援に駆け付けた弟・義光(よしみつ)や鎌倉景正(かまくらかげまさ)ら武将と詳細に金沢柵の攻略作戦を建てるのです。(地図②)
②義家らの第2次家衡征伐作戦(再掲)
そして、第2次家衡征伐が開始されます。

1.鎌倉景正(かまくらかげまさ)の奮闘

さて、まずは鎌倉景正の奮闘ぶりから見て行きます。
彼は東側(地図②の一番右側)から金沢柵の正面へと先陣切って戦いに行きます。

景正この時、若干16歳。
かなり血気盛ん、勇猛果敢だったようで、義家らが立てた3軍に分かれて家衡の本隊にかかる作戦などは鼻で笑い飛ばし、「俺が正面から家衡やっつければ終わりだろ!」のような勢いでした。
③右目に矢が刺さったまま
連射する鎌倉景正

ただ、家衡軍と対峙する前の戦闘で、彼は右目に敵の矢を受けてしまいます。(絵③)

しかし、矢が刺さってもひるまないのが彼の凄いところ。射られた直後、片目で狙い定め、矢を連射する等、鬼神の活躍を続けます。

そして矢が刺さったまま陣に戻った景正に、三浦為継(ためつぐ)が、相模国の同郷のよしみで刺さった矢を抜いてやろうと申し出ます。

ところが、この矢、かなり深くまで突き刺さっていたため、なかなか抜けません。そこで為継は景正の顔に足を掛けて抜こうとするのですが、景正は急に自分の短刀を抜き、為継の掛けた足に切りかかります。(絵④)

せっかく矢を抜いてあげようとしたのに、切りかかられた為継は怒ります。
すると景正は「戦場で矢に射抜かれて死ぬのは本望であるが、刺さった矢を抜いてもらうのに、顔に足を掛けらる恥辱を耐えねばならないならいっそ死んだほうがまし。」と言い、これには為継も感心し、端座して真剣に矢を抜いたそうです。(個人的には、ならば為継に切りかからず、小刀で自分の腹切ればいいのに・・・と意地悪く思っちゃいます)

④顔に足を掛ける三浦為継に
小刀で切りかかる鎌倉景正
この話、後世に伊達政宗の独眼についても同じようなエピソードを聞いたことがありますが、景正の話と混同されているようです。

また、この鎌倉景正、源頼朝の石橋合戦にも出てきます。北条時政と大庭景親の名乗り&毒舌合戦の中です。鎌倉景正は大庭景親の曾祖父にあたるのです。是非、「マイナー・史跡巡り」の「三浦一族② ~石橋山合戦~」の中から探してみてください。(ここをクリック

2.雁行(がんこう)の乱れ

さて、このような勇猛果敢な鎌倉景正の活躍と義光らの迂回し家衡軍の背後を突く戦略は功を奏し、金沢柵の家衡・武衡らは、沼柵の友軍に大部隊を繰り出す余裕はありません。(地図②参照

一方、前回の雪辱を晴らそうとする源義家は、今回は泥沼対策もしっかりと行い、沼柵を陥落させます。

そして、金沢柵へ向かうのです。(地図②の薄茶の矢印

向かう途中、有名な義家のエピソードがあります。

途中経路、この頃は湿地帯、雄物川の支流等も沢山あり、丈の高い葦や蒲が沢山生い茂った場所です。そこを金沢柵へ移動中の義家たちの前を、雁(かり)の群れが上空高く整然と列を成して飛んでいきます。

ところが、義家ら一隊の数百メートル先で、その群れの列が急に乱れます。
これを見ていた義家は、「前面に敵!伏兵が居る!全軍弓を構えよ!」と大声で下知します。

そして、真っ先に駆け、葦原に隠れていた伏兵30人を片っ端から射殺すのです。(絵⑤)
⑤伏兵を発見し射殺す義家軍(後三年合戦絵巻)
この30人の伏兵は、家衡と一緒に戦っていた武衡が、大部隊が繰り出せない沼柵支援のために向かわせた手下の少数精鋭隊でした。沼柵が落ちたと聞き、沼柵支援の計画を変更しこの地で義家が金沢柵へ向かうところを待伏せし、ゲリラ戦で首を挙げてしまおうと企図していたのです。

「つわもの野に伏すとき、雁 列を破る」


という孫子の兵法を学んでいた義家が気づいたこの行動は、「さすが軍神だけのことはある」と後世語り草になっているのです。
ちなみに下の動画は今の話について、この地元秋田県横手市が作成した2分程度の動画です。是非ご照覧ください。

3.金沢柵兵糧攻め

さて、沼柵を落した義家軍は、計画通り3方向から金沢柵を攻撃します。

しかし、流石は清原一族最大の金沢柵、その守りは強固で、なかなか落ちません。これでは、また前回の沼柵の敗戦時同様、冬将軍到来による敗退という憂き目にあってしまいます。

この時、義家陣営として同行している清衡は秘かに作戦を考えてました。

前回のblogで、「城」と「柵」の違いについてご説明した中で、「柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。」と記述しましたように、柵内に蓄えは殆ど無く、後方部隊からの支援物資に頼っていました。

そこで清衡は、義光らに、金沢柵の後方支援部隊を常に襲撃させ、補給路を断ち、兵糧攻めにすれば殆ど蓄えの無いこの柵はすぐ落ちるだろうと考えました。

しかし、清衡はこの兵糧作戦を直接義家に進言しません。金売り吉次の発案のように見せかけ、彼から叔父の秀武に義家に進言させる栄誉を譲るように見せかけるのです。(人物相関図はこちら

秀武から進言を受けた義家は早速、この作戦を実行に移します。日本史史上初めてと言われるこの兵糧攻めは、見事に効を奏し、金沢柵の家衡軍の気力を削いで行きます。
⑥金沢柵を逃げる女・子供を
惨殺する義家(秀武)軍

まだ情緒ある戦をするこの時代、金沢柵に籠る家衡と叔父武衡は、「流石に女・子供は、この食糧不足は可哀想だ。柵から逃がしても、同族の清衡・秀武らが義家に頼み込み、見逃してくれるだろう。」と考え、柵内の女・子供を外に開放します。

これを見ていた義家、秀武に向い言います。

「秀武殿、そちが計画したこの兵糧攻め、見事そちが完遂せい。女・子供が逃げては、その分食い扶持が減り、中途半端なものに終わろうぞ!」

秀武は、同族の誼(よしみ)で、多少の女・子供は見逃したかったのですが、義家は清原一族に恨みを持っていますから、殲滅したいのです。ただ、義家自身が殲滅すれば、後世に義家が悪く言われてしまいます。(結局言われますが・・・。)

また清衡も以前お話しましたように、清原一族は自分以外殲滅したいのです。清衡は、このような事態になることを予見し、叔父秀武に兵糧攻めの作戦を教え、義家に上奏する栄誉を譲ったように見せ、嵌(は)めたのです。

泣く泣く秀武は、柵を出て来た女・子供を殺戮。(絵⑥)

⑦柵上で義家を罵倒する千任(ちとう)
慌てて柵に逃げ帰る女・子供や城兵たちも、秀武を人非人(にんぴにん)として、強く非難します。これで、金沢柵には沢山の非戦闘員である女・子供も外に逃げ出せなくなり、食糧不足は更に深刻化するのです。

4.千任(ちとう)の罵倒

さて、このような食糧不足で金沢柵の中は大飢饉です。馬の肉も食べ、木の根をかじり、頑張りますが限界が来ました。この後500年後に豊臣秀吉が行った鳥取城包囲による兵糧攻めでは人肉を食べたという記録があります。今回の飢饉は、流石にそこまでは至らなかったようですが、日本史初の兵糧攻めということで、「汚い手を使いやがる!」と柵内では大非難の声が義家軍に向けられます。

ここ柵内に、家衡の養育係りだった千任(ちとう)という正義感の強い武将が、武衡の部下としておりました。
食糧不足で気力が萎えていながらも、ふり絞って柵の上に登り、義家に向い大声で叫びます。(絵⑦)
⑧千任の罵倒に怒る陣中の義家
(絵⑦とこの絵の髑髏の位置に注目)

「義家、よく聞け!貴様ら源氏は、先の戦(前九年の役)で、清原の家来になるとまで誓い、加勢を頼み、陸奥の安倍一族を討つことができた。それが今、主君である清原一族を攻めるとは、恩知らずも良いところだ!!この不義不忠、罰が下るは必定!!」

確かに義家の父・頼義(よりよし)は前九年の役の黄海川の戦いで安倍一族に負けた後、当時の当主清原武則(たけのり)に千任の言う通りに頼み込んだのです。元々陸奥の安倍氏と出羽の清原氏は蝦夷(えみし)同族として依存関係があったのですが、これを破り、源氏に味方をしてもらうには、「臣下になりますので」と謙らない限り無理だった訳です。

この罵倒を聞いていた義家の弟・義光は「ふむ、なるほど!一理あるな。」等と妙に納得しています。義光は兄・義家のピンチと聞いてこの戦に役職投げうち駆けつけましたが、どこか清原家衡・武衡らに対する同情があったような振る舞いが見られます。

一方、義家は怒り心頭です。周囲の者にぼやきます。「言わせておけ、ほざけるのも今のうちだ。奴を捕えたものには、何でも好きなものを褒美に取らす。そして奴には死に勝る恥ずかしめを与えよう。」(絵⑧)

このエピソードについても、秋田県横手市が作成した2分半の動画がありますので、是非ご照覧頂ければと存じます。(下)

5.金沢柵陥落前夜

そして、1087年の11月、既に雪が降りだしそうな気候の中、金沢柵の家衡・武衡らは軍議を開きます。

義家軍は、前回の沼柵の敗戦から、今回は雪が降る前に決着を付けたいと考えているため、最後の総攻撃をこの柵に仕掛けて来ようとしています。それに対する家衡・武衡軍は食糧不足で兵も疲弊しきっており、とても太刀打ちできる状況ではありません。
家衡は軍議の中で、武衡を含めた諸将にボソッと伝えます。

⑨金沢柵敗者の晒し首
次回解説します
「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」

長くなりましたので、最終回は次回とさせてください。

6.おわりに

先にお話ししましたように、柵から出て来た女・子供のような非戦闘員まで惨殺するような行為について、秀武にそれを命じた義家は京の中央政府からも非難されることになりました。

しかし義家はその後、その残酷な所業が直るどころか、どんどんエスカレートして行きます。(絵⑨)
『梁塵秘抄』では、「源氏の中でも八幡太郎義家は特に恐ろしい」と評されます。『宇治拾遺物語』や『故事談』では「父親の頼義は晩年、自らの行いを悔い、功徳を積んだので極楽へ行けたが、息子の義家は更に残酷だったにも係わらず、それを悔いることが無かったため、死後地獄に落ちた」との話があります。

最終回は、残念ですがそれら残酷極まりない場面が頻出します。また、この場合清衡はどうなるのでしょうか?やはり地獄行でしょうか?その辺りも引き続き描いて行きたいと思います。

また最後までお読みいただきありがとうございました。

【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野