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幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~

私が小学生の頃、西伊豆の戸田(へだ)村という処に、家族で毎年海水浴に泊りがけで行ったものです。
戸田湾(北側から)

読者の方の中にも、子供の頃にここに海水浴に来られた方が居られるようです。

右の写真がそこにある戸田湾の遠望なのですが、この湾曲した岬の内側が海水浴場となっており、右側の駿河湾から完全に内海状態で、波は皆無、水は、西伊豆らしく美しく澄んでいる最高の海水浴場です。

戸田湾は、伊豆半島が、プレートテクトニクスによって本州にぶつかった時、活動中の伊豆火山群の火口の一つでした。

火口がかなり低くなったので、決壊してそこに海水が流れ込み、今の地形(写真右上、右下の地図も参照)が形作られました。

伊豆半島が本州にぶつかってきたことは、富士山や箱根等の日本の大きな造山運動の源になっただけでなく、実はこの経緯で作られた戸田湾の地形が、幕末の日露和親条約との関係にも大きな影響を与えているのです。

前置きが長くなりましたが、今回は、この戸田湾が幕末の日露交渉とどう関係するのかレポートしたいと思います。

【※写真はクリックすると拡大します。】
プチャーチン

1.プチャーチン

1853年にアメリカのペリーが来航して、米国大統領の親書を幕府に手渡したのとほぼ同時期に、ロシアプチャーチン皇帝ニコライ1世の国書を携え、長崎に4隻の軍艦で入国しました。

ペリーが強圧的に、いきなり東京湾(江戸湾)に現れて、示威行動をしたのに対し、プチャーチンは、「ロシアが紳士であること示した方が良い」とのシーボルトの進言から、素直に日本の海外の玄関口である長崎に廻ってきたのです。

この後、プチャーチンは、日本との日露和親条約締結の重責も一手に引き受け、幕府の勘定奉行 川路聖謨との交渉に当たるのですが、交渉の経緯を見ると紳士というか、彼のやさしい人格があちこちに見られます。

そういう一面があるものの、流石に49歳までに数々の武功で海軍中将となっている彼は、この年から始まったクリミア戦争の動静を非常に意識しており、敵国であるイギリスが極東ロシア艦隊の攻撃をするとの情報を聞くと、長崎を早々に引き払い、上海にて様子を窺う等の慎重さと行動力を持ちます。
日露交渉舞台となった下田の玉泉寺

また、クリミア戦争の戦闘で軍艦が必要になることから、当初4隻で来日した船を、全部ロシア領内のドックにて修繕させ、イギリスやフランスの艦隊との戦闘に備え、自分は本国から回航してきた軍艦ディアナ号1隻で交渉再開のために日本へ向かいます。

2.日露交渉

さて、既に何度か長崎で川路聖謨と交渉を重ねていますが、今度は交渉の場所を、先に米国と締結された日米和親条約により開港したばかりの、伊豆下田へと移します。

この時、プチャーチンは当初の交渉時のように、素直に長崎には来ません。

最初は函館(箱館)で交渉しようとして拒否され、その次に大阪は天保山沖に現れ、大阪奉行から下田へ廻るように言われます。

私が思うに、これもクリミア戦争の敵国であるイギリスやフランス等の軍船に、ディアナ号が日本の正式な玄関口である長崎にいると見つかりやすいというリスクを恐れたのではないでしょうか。

ロシアは択捉島を日本帰属とする
代わりに、樺太はロシア領と主張
これに対し、川路らは黒竜江河口
以南の樺太は日本領と主張
さて、伊豆下田は玉泉寺という場所が、日露交渉の舞台となります。(写真右上)

脱線しますが、このお寺、以前このブログシリーズ「唐人お吉」でも取り上げました。そうです、この2年後、ハリスが米国領事館をこの寺に構えるのです。

話戻しますが、日露交渉はなかなか進展しません。ロシア側からの要求は以下2つでした。

①箱館、大阪の開港と通商許可

ロシアの考え日米和親条約で箱館と下田が開港されたことを踏襲し、かつ商業都市大阪を開港させることにより、ロシアとの交易を盛んにしようという目論見。特にプチャーチンは既に開港しているこの下田という港が江戸には遠いし、外洋に面し、港としても機能に乏しいため、大阪の開港を強く希望。

日本の考え日本は米国に対しても、この時点では通商許可は与えていない(日米修好通商条約が結ばれるのは、4年後の1858年)また大阪は御所のある京都に近く、攘夷派運動の盛んな彼の地近くを開港とは考えられない。

②領土境界問題、特に樺太の国境問題

ロシアの考え:冬も利用可能な不凍港が欲しいため、南下する必要があり、択捉島を日本領土とする条件と引き換えに樺太はロシアが領有したい。

下田に押し寄せる津波
日本の考え:日本は間宮林蔵等の調査結果から、黒竜江川の河口辺りから南側の樺太にはロシア人は住んでいない(右上図参照)ので、樺太の大部分は日本が領有すべき。

3.津波

このような交渉を下田にて再開した直後の1854年12月23日(当時の暦では11月4日)、安政東海地震が発生します。

この地震規模は2011年の東日本大震災並、震源は遠州灘沖辺りと推測されていますが、この地震でも大規模な津波が発生し、ディアナ号が停泊する下田にも容赦なくこの津波が襲いかかります。(右上絵)

発生時に、プチャーチンをはじめとするロシア側メンバーは全員、ディアナ号に乗船していました。幸いディアナ号は沈没を免れました。

玉泉寺のディアナ号水兵のお墓
しかし、何度も来襲してくる津波により、木の葉のように翻弄されるディアナ号は、特に津波の引き潮時に同じ場所を30分に40回以上も廻り、その間、全壊した下田市街の家屋の残骸等とぶつかりあい、まるでそれらと同じミキサーに入れられた状況となったようで、舷側は切れ、船の基礎となる竜骨も損傷してしまいました。

船内に52門ある大砲も、固定する間もなく、転げまわり、船内に数名の死傷者を出したようです。(写真右上)

プチャーチンは、大砲の固縛と、投錨の命令を繰り返しましたが、混乱した船には統制のとれた行動はかなり難しい状況でした。

このような状況であるにも関わらず、プチャーチン達は日本の小舟や、流される日本人を助けようと網を投げ、救出に当たったようです。

津波が去った後、ディアナ号は竜骨を折る損傷等により、浸水が激しく、水兵が交代で水を掻きだす作業を24時間交代で続ける必要がありました。
ディアナ号(模型)
全長52m,2000t、大砲52門
また重量を少しでも軽くして沈没を免れるために、52門の大砲は陸揚げすることとなりました。

4.ディアナ号修繕の地探索

竜骨を折り、浸水の激しいディアナ号について、プチャーチンは修理のための港を借り受けたいと川路らへ要求します。幕府側は、他港でのロシアの影響を怖れ、下田港で修繕をするように、川路を介してロシア側へ伝えますが、これにプチャーチンは激怒します。

前述のようにロシア側は、下田は良港では無いと元々思っていた上に、今回の震災被害で壊滅的な打撃を受けた下田で修繕等、何年かかるか分かりません。幕府は震災現場の惨状を知っているのか!と。

ディアナ号は大破しているとは言っても日本沿岸であれば、数十キロ以上は航海できるので、物資が豊富に供給でき、良港である三浦半島は浦賀港、駿河の清水港等への回航を希望します。しかし、幕府側は、清水港は神君家康公のお膝元であり却下。浦賀港も江戸に近いので却下。代わりに東伊豆の稲取、網代、三浦半島の先端にある城ヶ島等の小さな港を提案しますが、プチャーチンはこれらの港は既にロシア側では調査済みで修繕は無理と突っぱねます。
戸田湾(南側から)

間に入って困った川路聖謨は、伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門英龍と相談し、幕府に断らず独断で「伊豆半島内であれば、ロシア側がよしとする場所で修理をしても良い」という判断をプチャーチンに示します。早く修繕しないとディアナ号は本当に沈んでしまい、それこそロシア人が日本に長い事逗留することの危機を強く感じたのだと思います。

プチャーチンは、早速探索部隊を編成し、伊豆半島の沿岸を海側から調査させます。

ただ、この調査に、川路は正直希望を持っていません。

それは、この土地を良く知る江川が、「豆州(伊豆半島)にそのような良港は無い」と断言していたからでした。

戸田湾の地形図
(湾はかつて火口の名残の形)
ところが程なく、「最良の改修場所が見つかった」と伊豆の西海岸を見分してきたロシア水兵達が帰ってきました。

5.戸田湾への回航

その場所が戸田湾です。右上写真を見て下さい。風光明媚な場所ですよね。

北に富士山、駿河湾が見えます。

改修に適した港は無いと絶望していた川路が半信半疑で、この場所を見分した時の様子を、「落日の宴」(吉村昭氏著)の表現を借りて見てみましょう。(右上の地形図も参照)

川路は、思わず感嘆の声をあげた。外洋との間に岬が長く突き出ていて、それが港を抱き込んでいる。波浪は岬にさえぎられて港は湖面さながらで、しかも海岸は砂浜であった。また港口がせまく、イギリス、フランス両国(※当時クリミア戦争におけるロシアの敵国)の軍艦の眼を避けるにも好都合で、ロシア仕官が「ディアナ号」の修理地としてこの上ない良港である、と判断したのも当然のことに思えた。

ディアナ号修繕のための回航経路
そこで早速、ディアナ号を、この戸田湾へ回航してくることになります。

ところが、事はそう簡単には運びません。

右地図を見て下さい。回航の順に説明します。

回航のための応急処置と風待ちをして、1855年1月2日(日本歴1854年11月26日)に下田を出帆します。

応急処置は、舵の修理と小さな帆の装備、防水のための布を船体に巻き付けるというものでした。

自由の効かない船体を引きずるようにして、石廊崎を廻り、駿河湾に進入するところまでは良かったのです。

しかし、南風が強まり、不自由な船体はどんどん流され、戸田湾へ入り込むことが出来ず、ついに富士市の沖合で座礁してしまいます。

そして、船は日本の沢山の小舟によって、戸田湾まで曳航されることとなりました。(絵右下)

これは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が漁師へ声掛けをしたお蔭もあるのですが、やはり津波の中にある苦しい時に、日本人を救済したディアナ号の噂を聞いた伊豆の漁師たちが進んで、お返しとしてこのディアナ号を助けようとした人情篤い交流が、ここでもあったのです。

ところがこんな素晴らしい日露共同による大作業も、いきなり中止となります。

日本の小舟に曳航されるディアナ号
何故ならここで、急に大嵐が来てしまい、弱り目に祟り目、ディアナ号は沈没してしまうのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

さて、長くなりましたので、乗っていたプチャーチンらロシア人のその後や、日露交渉のゆくえ等は、次回お話したいと思います。

長文お読みいただき、誠にありがとうございました!

【戸田村造船郷土博物館】静岡県沼津市戸田2710−1
【玉泉寺】静岡県下田市柿崎31-6