マイナー・史跡巡り: 唐人お吉① ~ハリスの介抱~

土曜日

唐人お吉① ~ハリスの介抱~

今回は幕末の下田で有名な、唐人お吉が横浜で暮らしていたという情報を基に、調査しました。2回シリーズで、彼女の生涯をレポートしたいと思います。
お吉
手塚治虫氏の「陽だまりの樹」の中味を少し、紹介しますので、ネタバレ注意でお願いします。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.お吉がハリスに仕えた訳

1854年の日米和親条約に基づき、幕府は伊豆下田も開港し、ここに外交官を置きます。

幕府としては、兎に角江戸へ急接近をしてくる米国が怖かったのでしょう。
200kmも離れた下田なら一安心と思っていたかも知れません。

着任したのは、タウンゼント・ハリス総領事とヘンリー・ヒュースケン書記です。

下田の玉泉寺を仮の総領事館として起居していました。
玉泉寺にて

当時の下田奉行所の井上信濃守は、うわべだけは丁重に扱い、彼ら米国からの要求を緩和することを狙って、世話係りの女性を付けようとしました。その白羽の矢が立ったのが、お吉です。

何故、下田の17歳の娘、お吉が選ばれ、また本人も了解したのか、明確な理由は分かっていません。ハリスは敬虔なクリスチャンで、若い女性欲しさにお吉にしたという訳ではなさそうです。52歳のハリスは、日本に赴任してから、交渉のストレスや、馴れない土地での生活等がたたり、相当衰弱していたようです。特に玉泉寺では、日本特有の蚊に悩まされ、睡眠障害に近い症状まで起こしていました。

そのため、優しくて看護精神に富んだ女性を下田奉行に要求しました。

勿論、当時は攘夷論盛んなりし時ですから、ハリスのそばに行きたい女性は、めったに居なかったでしょう。ここは色々と物語的に推論されるところで、2つの説をご紹介します。

1つは、恋人鶴松へ尽くすためです。
当時、お吉には鶴松という4つ年上の大工の彼氏が居ました。

彼は出世欲が強く、武士になりたがっていました。下田奉行所はそこをうまく利用し、お吉がハリスに奉公すれば、彼を武士に取り立てると提案してきました。鶴松からも頼み込まれ、また相当高額な給金も支払われることから、お吉は鶴松の事も思い、泣く泣くハリスのところへ行ったという説。
「陽だまりの樹」のお吉

ただ、この説だと、幾らハリスのところに行きたい女性が少ないと言っても、どうしてお吉に絞り込まれたのかについての選定プロセスは弱い気がします。

もう1つは手塚治虫氏の「陽だまりの樹」の中で書いている説です。

もう一人の外交官であるヘンリー・ヒュースケンは25歳の若い青年です。彼は村の共同浴場でお吉さんを見かけてから、彼女が忘れられず、探し出して深い仲になってしまいます。

ある時、ハリスが吐血する程の病魔に襲われた時に、相方であるヒュースケンが、お吉さんに頼んで、牛乳を村人から徴集してもらいました。また、牛乳だけでなく、介抱も頼みました。

ハリスがその時のお吉さんの優しい対応を気に入り、お吉さんを指名したという話です。

どちらが事実なのか、もしかしたら両方とも事実に近いのかも知れません。

ただ、ハリスに牛乳を飲ませたということは確かなようです。

ハリスが滞在した玉泉寺では、右の写真のように、ハリスも飲んだ牛乳を売っています。

また、お吉はハリスの処へ正式に派遣されてから、3日で暇を出されています。(3か月という説もあり)

玉泉寺の牛乳
彼女の体に「できもの」があったという説があるのですが、手塚治虫氏は、この話を、できものではなく、カサブタになった噛み跡(ヒュースケンの偏向的な愛撫の跡)がハリスによって発見され、彼との仲が暴露したからと、全てをヒュースケン絡みで上手く描いています。


2.ハリスの大躍進

その後、お吉はやさぐれます。

それはそうですね。幾ら高い給金を貰っても、当時は「夷狄の愛人」と蔑視扱いされ、村八分にされるのは明白です。「唐人」なんて「日本人じゃない」という意味ですよね。お吉からすると、育った下田の友人、その他皆から白い目で見られていたことは、予想出来ても、辛かったのでしょう。

一方、お吉の介抱によって元気になったハリスは、赴任直後からずっと主張してきた江戸出府(将軍との謁見・親書の手渡し)が叶うこととなりました。これは、ずっと彼らを下田に封じ込め、なだめすかしてきた幕府に対し、業を煮やしたハリスが、下田へ米国の砲艦を入港させたのです。

アメリカ公使館が置かれた善福寺
つまり江戸行きを承認しないと砲艦を、江戸へ回航させ、黒船来航のような騒ぎにさせることも辞さない構えを見せたのでした。

これには幕府側も参ってしまい、ハリスたちの江戸出府を認めます。

1857年、下田を出発したハリスらは、当時の将軍徳川家定に謁見します。

翌年、井伊直弼が、朝廷の勅許無しで強硬に日米修好通商条約を締結すると、ハリスは初代駐日公使となり、下田の総領事館を閉鎖して、江戸の麻布善福寺に公使館を置くことになるのです。(右写真)

お吉に牛乳で介抱されていた頃のハリスは死にそうでしたが、お吉のお蔭で元気になったハリスは、大きな仕事を完遂することが出来ました。

ちょっと大げさかもしれませんが、お吉の働きが日米修好通商条約締結に結びついたと言えるかも知れません。それはその後の勅許無しでの日米修好通商条約の締結、安政の大獄、桜田門の変に繋がっていると考えると、たかだか牛乳の介抱でしたが、重要な幕末の歴史の歯車だったのではないかと思います。

3.横浜でのお吉

善福寺内にあるハリスの碑
実は、このハリスの江戸出府にお吉はついていきます。下田の村には住めないと思ったのでしょう。

そして、その後、横浜にしばらく鶴松と住むのですが、その話を含めて、お吉の後半生についての続きを次回にレポートしたいと思います。

【玉泉寺】静岡県下田市柿崎31-6
【善福寺】東京都港区元麻布一丁目6番21号