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中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~

さて、豊臣軍6万5千の兵が、5千で守る九戸城に迫るところで、前回のこのシリーズは終わっています。(詳細はこちら

今回は、その続きです。

1.九戸城包囲網

まず、前回の最後で、蒲生氏郷(がもううじさと)浅野長政らが、南部信直(のぶなお)の援軍で、九戸城へ押し寄せる場面を描きました。

現在の九戸城と、その周辺をどのように豊臣軍が取り囲んだのかについて地図①に示します。
①現在の九戸城と包囲する豊臣軍の配置
九戸城はかなり堅固な城であり、豊臣軍に救援を求めた南部信直は、北東へ陣取り、それと相対する南西に蒲生氏郷らが構えます。東側に浅野長政井伊直政といった錚々(そうそう)たる豊臣方の腹心が陣を張るのです。

②九戸城本丸から津軽為信らが陣を構えた方角を臨む
また西北、馬淵川を挟んで、秋田県の名前の由来となる秋田実季(さねすえ)、津軽地方(弘前藩)を治める津軽為信(ためのぶ)をはじめとする、奥州勢が陣を張ります。(写真②

私が九戸城に立て籠もる九戸政実でしたら、一番腹が立つのは、昨日の友だった奥州勢、特に津軽為信でしょう。

2.津軽為信

津軽為信は、九戸政実と同じ様に南部氏支族でした。南部信直への世継ぎ争いで、信直と九戸政実が対立した時には、津軽為信は、政実側についたのです。(絵③参照

そして南部家の惣領が信直と決まった後、信直は九戸政実に津軽氏討伐の軍令を出します。しかし、政実は津軽為信をかばい、討伐しません。それどころか、政実は、信直に反乱を起こしそうな様相を呈してきたので、信直自身が津軽為信を討伐できるような状況でもなくなったのです。

③津軽為信
そこで津軽為信は、南部家から独立し、津軽地方をどんどん切り取っていく訳です。
つまり、津軽為信が自身の勢力拡大をすることが出来た大きな要因は、九戸政実に依るところが大きいのです。

しかし、津軽為信は豊臣軍に付きました。
奥州仕置で津軽を安堵された為信は、やはり時の権力に反抗する九戸政実は切り捨てるのですね。

このような状況は、実は現在まで尾を引いているようです。

青森県の中で、津軽為信の津軽地方と八戸等の南部地方はあまり仲が良くないような話が結構Webにもいくつかあります。(地図④

勿論、この地方の間には地図④のように奥羽山脈があることも影響しているのでしょうが、この津軽為信が南部信直に逆らうだけでなく、その時味方をした九戸政実をも見捨てたことも対立の一因としてあるのでしょう。

一説には、津軽地方の中心弘前と、南部地方の八戸との間で、県庁所在地争いがあり、間を取って青森市が出来たという話もあります。
④津軽地方と南部地方

オーストラリアがメルボルンシドニーの間を取って、キャンベラを首都にしたのと同じですね。

現在の県庁所在地争いにまで、この時の九戸城攻防の影響が残っているのです。

3.冬を待つ城

さて、話を九戸城包囲へ戻します。6万5千もの豊臣軍をたった5千の反乱軍で迎撃した九戸政実に勝算はあったのでしょうか?

元々は、南部信直が豊臣秀吉に恭順し過ぎ、蝦夷の国としての自立性が脅かされたことに対する反乱です。九戸政実にしてみれば、南部信直だけが敵であれば、これを倒し、南部領の覇者となることは可能と考えていたでしょう。

この時、南部氏より九戸氏の方が財を沢山持っていました。というのは、前回のBlogでも書きましたように、当時隠し持っていた松尾鉱山で大量に採れた硫黄を、鉄砲の主要成分として高く売って財を形成していたのです。(写真⑤

ですので、当然軍備等も南部氏より充実していました。

⑤松尾鉱山の廃墟となったアパート
1960年代まで硫黄の生産東洋1の鉱山跡
その証拠にこの当時南部信直は三戸城という城を根城にしていたのですが、九戸城落城後は、蒲生氏郷が九戸城を改築し、「福岡城」と改名して南部信直の本拠地に変更させています。

九戸城の方が三戸城より、堅固で機能性に富んでいたのは、まさに九戸氏と南部氏の財力の違いだったと想定されます。(写真⑥

また脱線しますが、南部氏がこの「福岡城」に居を構えても、地元の人達は、この城を「九戸城」と呼び続けたので、直ぐに今の盛岡市にある「不来方(こづかた)城」に居城を移します。「不来方」は、私のBlog「Tsure-Tsure」の中で理由等を書きましたが、不吉な名前とされ、「盛岡城」と改名し、今の盛岡市の礎となった訳です。(写真⑦

⑥九戸城本丸の石垣と堀
※石垣は東北最古級です
「福岡城」「盛岡城」南部氏の両城とも「岡」が付きますね(笑)。

また話を戻します。

しかし、いくら南部氏に対しては有利だった九戸政実でも、天下の豊臣軍を相手にするのはかなり難しいでしょう。

この場合、やはりこの陸奥の国特有の戦い方があります。それは、500年前の後三年合戦の出羽国(秋田県)沼柵における源義家軍の撃退です。(詳細は、こちらのリンクをお読みください。)

この時、源義家は秋田県の冬将軍を甘く見ていたのです。極寒と豪雪、大軍であればある程、補給路が確保できずに、城(当時は柵)を包囲したまま、冬を越すことは困難となります。

冬将軍到来で包囲網はガタガタとなり、撤退したのです。

⑦盛岡城址(不来方城)
唯一九戸政実らに勝機があるとすれば、この時と同様に、大軍であっても、土地を良く知る九戸軍が少数精鋭でもって、補給路を断ち、冬将軍を迎えさせ、豊臣軍を撤退させる。そして次の征伐軍を編成してくる前に南部氏を討ち滅ぼすか、講和に持って行く。

これしかないと考えていました。

そこで、九戸政実は、以下3つを準備するのです。

(1)大量の食料・弾薬・鉄砲の買い込みと城内への備蓄
(2)九戸城周辺の徹底した村民立ち退き準備
(3)伊達政宗を使い、討伐軍編成並びに出発を遅らせる外交努力

(1)(2)は先に述べましたように、松尾鉱山で作った財を基に実施します。
特に(2)の村民立ち退きは、豊臣軍の補給路をゲリラ戦で断つのと同時に食糧を村民らから現地調達できないように阻止するためです。

また(3)についてですが、伊達政宗は、宇都宮仕置で領土の半分を奪われた(前回のBlog参照蒲生氏郷が大嫌いです(笑)。

今回の討伐軍のリーダーはこの蒲生氏郷。(絵⑧
⑧蒲生氏郷公イメージ
出典はこちら

表向きは豊臣秀吉に恭順の意を顕した伊達政宗ですが、裏では九戸政実に加担していたとの説があります。(安部龍太郎氏「冬を待つ城」より)

なので、本来1591年4月に南部信直からヘルプを貰ったにも係わらず軍を編成するのは3か月後の7月、九戸城を包囲したのは9月になってからという遅々とした進行になるように、九戸政実は、伊達政宗に頼み、上手くコントロールしたようです。

4.蒲生氏郷

絵⑧にも描かれていますが、彼の胸に十字架があるのが分かりますでしょうか?

そうなのです。蒲生氏郷はキリシタン大名だったのです。
ちなみに当時のキリスト教宣教師のオルガンティノは、ローマ教皇に、「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と彼を報告しているのです。

そんな彼は、秀吉からの信頼も篤く、伊達政宗から秀吉が没収した福島の土地を蒲生氏郷へ与えたのは、伊達政宗へのけん制や、反骨精神の強い難しい土地、奥州を纏めさせようとしたからなのでしょう。

実は石田三成も、秀吉の篤い信頼を受ける氏郷を信頼し、今回、九戸城を囲む氏郷(写真⑨)に宛てに、以下の主旨の書状を送っています。
⑨九戸城大手門から見た蒲生氏郷の陣の方角

「自分(三成)は現在、佐竹、宇都宮、相馬の軍勢3万を率いていわき(福島県)から浜通りを北上している。今回の九戸城攻めは単に南部家の内紛に介入する以外に2つの目的がある。それはこの戦終了と同時に来る朝鮮出兵をすることと関係する。
第1に、朝鮮は極寒の地であることから、その戦方法に馴れて置く必要があること。
第2は極寒の地で役に立つ奥州の人足が必要であること。
この2つを満足するには、今回の戦、なるべく長引かせ、全軍に冬場の戦を経験させると同時に、その間で奥州の不満分子一掃を大義名分に人足の徴発を行う方が、関白殿下のご威信を損なうことが無くて良い。」

これを読んだ氏郷は嫌気が差します。

戦場の現場経験が少ない三成は、自分の理想とする要件(ここでは朝鮮出兵)ばかりを主眼に置いて、机上の空論を押し付けて来る。
そんなに事は簡単か?九戸政実だって我々を冬将軍まで釘付けにしておきたいと思っているに違いない。その証拠にこの近隣の村人が誰もおらず、後方の補給路はわずか2千程度のゲリラ戦で既にかく乱を開始されている。私の任務は先陣の大将として九戸城を攻め落とすことであり、三成の思惑にかまけている暇はない。三成が着陣する前に早々に戦を終わらせなければ!

5.投降

⑩九戸城は至る所に高台があり
銃眼を備えた土壁から狙い撃ち
しやすい構造となっている
蒲生氏郷、九戸城に総攻撃を仕掛けます。
しかし、九戸城はなかなか落ちません。なにぶん東洋1の硫黄の産出を誇る松尾鉱山を後ろ盾に持つ九戸城ですから、鉄砲の火薬は腐るほど出来ますし、その硫黄で買った鉄砲を駆使すると同時に、九戸城の地の利を上手く生かして反撃して来ます。(写真⑩

蒲生氏郷は焦ります。
「うーむ、九戸城は、想定していたよりかなり手強い。これでは三成が来る前に落すことは不可能。どうすべきか・・・」

悩んだ氏郷は早々に九戸政実と和睦をする策で行きます。

和睦条件は九戸一族数名の武将の首を差し出すこと。そうすれば、九戸城に立て籠もる全員を助けるというものです。キリシタン大名でも、責任者の首を差し出すことは譲れないのでしょう。

九戸政実も流石に戦ってみて、6万5千もの大軍を冬将軍が来るまであと3か月もここにとどめておくのは難しいと判断したようです。

実は彼は伊達政宗がもう少し粘り、あと1,2か月は包囲が遅くなることを期待していました。500年前の後三年合戦で、源義家が沼柵を包囲したのも、稲作の終わった11月からでした。9月は流石に早すぎるのです。なので、この和睦に自分達だけの首ですむのであればということで応じました。

ただ、実はこの方向で氏郷が九戸政実と話を進めている最中に、浅野長政らから物言いが入ります。

6万5千もの兵を連れて、5千しか城兵の居ない城を囲んだのに、たった数名の首だけで和睦を結んだとあっては、豊臣軍は腰抜けか?と天下の笑いものになる。せめて城攻めで、数百の兵の首を挙げて降参させたという体(てい)を作らないと、関白殿下に申し訳が立たないと。

流石に最小の犠牲で、他の命を救いたいと考えるキリシタン大名の氏郷は、この長政らの主張を嫌がったことでしょう。

ただこの問題に対し、彼らが対処したことは確かなようです。
⑪九戸城で発掘された首の無い遺体

通説として、九戸政実とその一族7名が蒲生氏郷へ投降した直後、6万5千の豊臣軍は、和睦の条件を反故とし、九戸城へなだれ込み、城兵・女・子供構わず「撫で斬り」にしたという話があります。

写真⑪は九戸城の大手門辺りから発掘された首の無い遺体です。「撫で斬り」の話はこの城地域で長く伝承され、この写真等が有力な根拠とされています。(写真⑪

ただ、これらの撫で斬りされた遺体の数は少なく、確証までは得られていないようです。
また、蒲生氏郷の信条や性格からそこまでやるのか等の疑問も生まれます。実際Facebookの友人等と、この話をした時も、私と同じような疑問を持っている人は少なからずいらっしゃることが確認できました。

どうやら、作家安部龍太郎氏もその一人らしく、彼はその著書「冬を待つ城」では、詳細は省きますが、このように話が出来ています。

蒲生氏郷は、和睦を結んだ九戸政実にこの問題を相談します。政実は「私に一計あります。三百の首を揃えましょう」と言い、ある特殊任務で潜入した津軽為信の兵を騙して、城の本丸手前のこの骨が発掘された辺りの窪地に引き入れ、上から鉄砲で300程刈り取るのです。
特殊任務故、津軽為信は、自兵がやられたとは公言出来ません。政実は、それら戦死者の首を九戸城の城兵として氏郷へ差し出すことで、氏郷の面目を保ち、開城するというものです。特殊任務等の詳細は是非小説をお読みになりご確認ください。
⑫私が訪問した時も九戸城は発掘調査が進行していました

話として上手いと思います。この辺り事実はまだ九戸城の発掘調査の結果等を待たないと分からないようです。将来真相が分かる事を期待したいと思います。(写真⑫

6.おわりに

さて、こうやって、石田三成が着陣する前に、九戸城を落した蒲生氏郷ですが、落城後は、この九戸城を改修し、「福がある岡」という幸先の良い名前「福岡城」に改名し、南部信直の居城として使うよう指示をします。

また、投降した九戸政実とその縁者7名の武将は、その場ではなく、遥か遠く南の仙台付近(宮城県栗原市)にまで連れて行かれ、斬首されます。

九戸政実のこの潔い対応に、九戸城周辺の住民は、判官贔屓に近い同情の念を強く持ちます。

そして落城後入城してきた南部氏に対し、冷たい眼差しを注ぎ続けるのです。耐えきれなくなった南部氏は、先に述べた通り、当時の「不来方(こずかた)城」を、幸先の良い「盛りあがりのある岡」ということで「盛岡城」と改名し、そちらに移転、今の盛岡市の基を作るのです。

また、九戸政実を慕う人々は、遥か遠くで斬首された政実の首を秘かに持ち帰り、城から約3里(12㎞)離れた政実の出生地、九戸村の山中に丁重に埋め、その魂を鎮めるのです。
⑬九戸政実の首塚と同床異夢の木

九戸城から車を30分走らせ、私もその首塚を探しました。(写真⑬

写真のように、かなり山深い中に見つからないように埋めたであろうその首塚は、人っ子一人なく、寂しい限りでしたが、お墓そのものは良く手入れがなされ、流石地元の人に今も愛さている九戸政実と感心できます。

その塚の前に「同床異夢の木」というものがあります。(写真⑬の右半分の2本の木)

これは、南部信直と九戸政実を指していると言われます。つまり南部氏も九戸氏も、8世紀、桓武天皇の時代の阿弖流為(アテルイ)等の反抗から始まった蝦夷(えみし)の独立運動というDNAを、脈々と受け継いだ結果生まれたのです。これが同床ということです。
しかし、11世紀の前九年の役・後三年合戦を経て、一次は奥州藤原三代による時の政権の中でのバーチャルな国家の形とした奥州王国で100年は存続するも、頼朝により崩壊させられたその後も、蝦夷という仲間意識として独立したい夢を持つ者と、一族の存続が蝦夷の存続であるという夢を持つ者に分かれる訳です。

前文の夢を持つものが九戸政実、後文が南部信直です。

南部信直の夢はある意味、この後成立する幕藩体制では、蝦夷と言わず全国どこの大名も同じですから、九戸政実は実質8世紀の阿弖流為から900年間に渡る最後の蝦夷らしい気概を持っていたと言えるかもしれません。

征夷大将軍という言葉、この蝦夷の独立を阻止するために出来た役職であることから、蝦夷鎮圧から始まった中世武士団の台頭は、この九戸城の鎮圧で完了。この後、征夷大将軍となる家康はその征圧対象は無いままに役職名だけ残ります。

つまり東北のこの地域で始まった中世武士は、この地域の紛争で幕を閉じると言っても過言では無く、一地方の反乱とはとても思えない重さをこの九戸政実の首塚に感じながら、私はこの山奥を後にしました。

最後までご精読頂き、ありがとうございました。

【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内146−7
【松尾鉱山】岩手県八幡平市(その他)
【盛岡城】岩手県盛岡市内丸1−80
【九戸政実首塚】岩手県九戸郡九戸村長興寺第1地割16