マイナー・史跡巡り: 三浦一族④ ~富士川の戦い~

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三浦一族④ ~富士川の戦い~

前回まで頼朝が挙兵し、山木判官屋敷襲撃の成功、石橋山合戦での敗退と、一進一退を繰り広げ、源氏再興の緒戦が、三浦氏の衣笠城落城等も含め、決して楽なものでは無かったことを描きました。

しかし、それが、それまでお気楽な配流生活をしてきた頼朝の精神を強靭なものにしたようです。

では、頼朝が石橋山合戦敗走後、真鶴から安房国(千葉県)に逃亡してきてから、義経らに平家打倒の引導を渡すまで、つまり富士川の戦いまでを、ざっと見て行きましょう。(地図①)
①石橋山合戦場脱出後の頼朝の足取り

1.上総広常軍との合流


安房で三浦義澄や上総広常(かずさひろつね)の弟らの歓待を受けた頼朝ですが、僅か7人程度で安房国(千葉県)へ来た彼らは、三浦一族らを入れても100騎程度の小集団です。

平家の追手が来れば、即滅亡という危険な状況なのです。
②千葉城にある千葉常胤像

そこで、頼朝は迅速に動きます。まずは、千葉県の有力者、上総広常への援軍を、安房国で一緒に居た弟を介し要請します。そして地元千葉県のもう1人の有力者、千葉常胤(ちばつねたね)にも支援要請をします。(写真②)

千葉常胤は、即これに応じます。常胤この時62歳。三浦義明と同様、保元の乱等で頼朝の父義朝の家来として活躍した彼は、その貴種の旗揚げに感涙したとの話があります。

しかし、頼朝は爺さん泣かせですね。この後頼朝に従う上総広常も生誕年月は不詳ですが、多分常胤と同じ世代のようです。そしてそれらの有力爺さん達は、また皆頼朝の父親に非常に恩を受けているようです。このパターンは多く、これが頼朝が本拠を鎌倉に置かざるを得ない原動力となっているのです。

兎に角、300騎という兵力ですが、常胤も頼朝の元に馳せ参じます。
まだ寡兵ですが、頼朝は房総半島を北上します。(地図①参照)

不思議なのですが、合戦で敗軍の将となった人物に、その後の敗者復活戦で、これ程兵が集まってくることは珍しいのではないでしょうか?

「なんだ!やはり旗揚げ失敗か、鳴り物入りで、源氏再興と出た割に、頼朝は大したことないなあ。」と思うのか普通だと思うのですが、頼朝の場合何故かこの房総半島北上で、少人数づつですが、兵が集まってきます。

どうやら、負けても源氏再興という行動自体に、当時の武士たち皆が「いいね!」を付けまくったようです。それだけ平家一門ばかりに益の行く中央政権のやり方に不満を持った坂東武者が多かったことと、父、義朝の恩顧を受けた武将が多かったからでしょう。
③頼朝軍が渡河したとされる地点(白髭橋)

脱線しました。話を戻します。

そして、墨田河(現在の隅田川)の河畔に渡河のため、陣を張ったのが9月17日。(写真③)

当時の墨田河は現在の隅田川とは違い、江戸時代に水流を変更された利根川を源流に持ち、氾濫も多く、現在の川幅の2倍程度はあった大きな河だったと言われています。

既にこの時点で頼朝軍も数千騎まで増大。既に石橋山合戦時の軍勢を遥かに上回る数だったのです。
なので、渡河も結構大変ですし、一説には、墨田河の西岸には平家軍が構えていたというものがあります。そこでこの陣を張って滞留していたのです。

そこへ、兼ねてより支援要請をしていた上総広常が、なんと2万騎を引き連れて、頼朝の陣に参上します。
④参陣した上総広常

上総広常は馬上から、頼朝の家来に、「上総広常、2万騎を引き連れ参陣つかまつった。頼朝公ご照覧あれ!」と「ドヤ顔」で伝えます。

しかし、取り次いだ家来に頼朝は言います。

「遅参だ!追い返せ!引き連れて来た軍勢の寡多ではない。謁見する気はない!」

この言葉、家来が広常に取り次ぐまでも無く、陣外の広常や、弟を含む一族にまで聞こえていました。広常の顔色がさっと変わります。(絵④)

一族の中には、「頼朝の支援要請から2週間という短期間で2万騎を捻出するまでの苦労も知らずに、何てことを言うんだ。こんな生意気な若造、さっさとこの場で戦って首を挙げて清盛入道に差し出すべき!」と言う者も出る始末。中には、この侮辱的な態度に涙を流す者も居ます。

実は、広常も上総で2万騎集まった時点で考えました。「この兵力があれば、寡兵の頼朝なぞ簡単に打ち滅ぼせる。参陣した時に頼朝がどういう人物か視てやろう。大したこと無ければ、打ち滅ぼす。」と。

しかし広常は、この頼朝の超何様路線に心服してしまうのです。

⑤豪傑 藤原秀郷の大百足退治
それは、平将門の故事を思い出したからです。(平将門については、拙著blog「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご参照ください。ここをクリック。)

blogでも書きましたが、平将門とその従兄弟である平貞盛が対立した時に、豪傑 藤原秀郷はどちらに付くか悩みました。(絵⑤)

そこで秀郷は、大軍を率い、将門軍に参陣したところ、将門が嬉しそうにして出てきて、涙を流さんがばかりに秀郷の手を取り、「宜しく頼みますぞ!!」と本気で言ってきました。
ところが秀郷は「こらあかん!」とばかりに将門を見限り、逃げて平貞盛への陣へと鞍替えしたという逸話があるのです。

つまり、少しでも感情が支配する男は、指導者としてダメだと・・・。

この広常、次回の番外編にも書きますが、私から見てかなり感情的な武将です。老年だけあって、自分とは違う、この手の感情に支配されない人物が良く分かるのでしょう。

頼朝は合格です。感情に支配されない冷徹な指導者として。

上総広常は、その場で下馬し、地面に頭を擦り付けて平伏します。何時間も。

夜の帳(とばり)が降りる前、頼朝は陣所から寝起きする近くの民家に移動しようとすると、1人平伏したままの武将が目に入ります。

「あれは誰ぞ?」と周りの家来に尋ねると、「今朝方参陣し、謁見を所望した上総広常です。」と。

⑥関東勢力図
※Wikipediaより
頼朝は、広常に近づき、

「私と一緒に行きましょう。貴殿の心は良く分かり申した。」

と優しく言い、自ら広常を抱き起し、自分の駿馬に乗せて宿所まで手綱を自ら曳こうとします。

この緩急極まる頼朝の行動に、広常は増々心服してしまい、この話を周囲に漏らすと、あっという間に坂東武者の間に広まりました。

2.鎌倉入り

さて、この頼朝美談が広まったお陰でしょうか?

千葉県の有力者2人を従えて、墨田河を渡った頼朝には、あの畠山重忠や、河越・江戸氏など、三浦義明を衣笠城で討ち取った面々も味方に付きます。(地図⑥)

畠山さん、そりゃあないでしょう。だって1か月前だよ。頼朝軍の三浦義明を斬首したのは!

と言いたくなりますが、その当時の「大人の事情」って奴ですか?ちょっと理解し難いですが・・・。

また秩父平氏等、武蔵国の有力者を皆従えます。実はこの時、墨田河渡河から2週間も、東京の都心部に滞留して、武蔵国連中の参陣を待つのです。頼朝軍は5万にまで膨れ上がりました。(注:兵数については諸説あります)

⑦亀ヶ谷切通し(鎌倉)
もしかしたら、このまま江戸を本拠にするつもり・・・・?

な訳はありません。やはりそこは500年後の家康に渡して(?)、鎌倉に向かうことが決定しました。前にも述べた通り、千葉常胤、上総広常等、頼朝の父義朝の恩寵に付した有力者ならびに亡き三浦義明の嫡男義澄ら、付き従ったもの全員、義朝の住んでいた鎌倉が源氏の古里との意識が高く、これを活用しない訳には頼朝としてもいかないでしょう。また、頼朝はそういう配慮は、もし誰も進言しなくても決して欠かさない漢でした。

そこで、当初、鎌倉は義朝の屋敷のあった亀ヶ谷という、現在でも「亀ヶ谷切通し」で有名な狭い土地に屋敷を建てて住もうと考え、調査します。(写真⑦)

しかし、そこではあまりに狭く、行政をするには不向きな土地であったため、頼朝は断念しました。

頼朝は実は蛭が小島に居る時から、武士の行政組織の構想を持っていたらしく、それを実行するため、鎌倉の土地を上手く利用します。

つまり、まず武士の精神的支柱として、鶴岡八幡宮を鎌倉の中心に据えます。若宮大路を鎌倉海岸から山側奥に通し、その東側に、政所をはじめとする行政機能を作るのです。頼朝の屋敷も勿論その近くに建てます。

⑧ご存じ鶴岡八幡宮
行政機能等を設計する論理性、それと相反するように見える鶴岡八幡宮等の精神性、この2つをバランス良くミックスできる冷静さが頼朝の素晴らしいところなのでしょう。(写真⑧)

3.富士川の戦い

さて、頼朝最後の出陣となる富士川の戦いです。
(地図①参照)

実は石橋山合戦後で、頼朝がまだ生存しているとの噂を聞き、この合戦の大将である大庭景親はがっかりします。しかし、彼は合戦の一週間後、1180年9月1日には京の清盛へ向けて頼朝挙兵、討伐軍を送るよう連絡を入れているのです。

平清盛は「あの恩知らずめ!!」(`A´)と、討伐軍を9月5日には組織するのですが、この頃平家は、清盛以外は既に京の雅に馴れきっていて、討伐決定は早かったのに、出陣の吉凶を占い、9月22日予定が29日予定になるなど、悠長なものでした。

これでは、頼朝が鎌倉に入り、源氏勢力の拡大基盤の時間まで与えてしまいます。大変な失策ですね。

平維盛(これもり)を総大将とした平家軍は7万と言われますが、当時西国は飢饉があったようで、なんとか掻き集めた烏合の衆でした。

それに比べると源氏は、人気絶頂の頼朝のところで出せる軍が20万。まあ、数は吾妻鏡や平家物語等大袈裟なところはありますが、重要なのは、中央政権より多くの兵が出せた、この復活ぶりです。大体、こういう上がり調子の時には絶対負けないものですよね。
⑨富士川(武田軍の渡河場所?)

また、木曽義仲や甲斐源氏の武田信義(たけだのぶよし)等も盛んに活動を開始しています。後に木曽義仲が平家を京から追い出しますし、武田信義は、この時頼朝と組んで、富士川を源氏軍の最前線として対峙するお膳立てをします。

多分、富士川で対峙することに決まったのも武田軍が、甲斐から駿河へ侵攻する時は、大体この身延山から富士川沿いを下ってくることが多いので、その要因が大きいのではと思います。

400年後に、武田信玄が駿河の今川氏真を攻める駿河侵攻時もこのルートでした。(拙著「北条氏康の娘たち② ~早川殿~」の地図⑤等を参照)

10月18日、武田軍と合流した頼朝軍は、あまり戦意の出ない平家軍と、富士川を挟んで対峙します。(写真⑨)

⑩富士川沿いに布陣する源平
武田軍は平家軍の裏に廻り退路を断とうとするが
水鳥の群れに遭遇。飛立つ音で平家軍は撤退
この最初の源氏本体と平家本体がぶつかりあう源平合戦の矢合わせを10月24日と決めます。

ところが、活発に活動する武田信義は、この24日の戦が始まる前に、平家軍の布陣の更に西側に自分達が布陣することで、平家軍の退路を断ち、平維盛らを殲滅しようと考えます。(地図⑩)

そこで、4日前の20日夜半に、富士川の上流側を、そーっと渡河するのですが、水鳥の群れをたたき起こしてしまい、バタバタと夜中に飛び立つ水鳥の音に、平家軍が一斉に「頼朝軍が攻めてきたあ!夜襲じゃ、夜襲じゃあ!」と言うことで、殆どの装備品やら雅なものやら(歌仙道具、扇子等々)を残して撤退した話は有名です。

実際には、水鳥が飛び立つ音で、敵の来襲を感知するように平家側が仕向けていて、来襲時に戦準備が出来ていなかったので、撤収したと言う説もあります。

まあ、いずれにせよ、平家が京の雅に馴れきっていて、泥臭い戦が出来なくなっていたのは事実なのでしょう。

4.義経との対面

さて、源平合戦で大活躍する義経はどうなったのでしょう?
この富士川の戦いの後のタイミングで、義経が頼朝の陣営に訪ねてきます。
⑪頼朝と義経が対面したという対面石

義経は奥州藤原秀衡を頼り、源氏再興を夢見て身を寄せていましたが、兄である頼朝挙兵の話を聞いて、急ぎ富士川に来るのです。

涙の対面石という史跡が沼津市の近くにあります。(写真⑪)

富士川からは少し離れていますが、後方部隊ということで、ここの黄瀬川という河畔に、頼朝が陣を敷いていたという話です。

ここで頼朝は、「おおっ、きっと参陣してくれるであろうと兼ねてから思っておった。貴殿を忘れたことは1日とて無い。こんなに嬉しいことは無い。共に戦おうぞ!」と涙を流しながら、義経の手を取ります。

義経も頼朝の手を握り返しながら、「私も鞍馬山へ預けられ、後に奥州にて源氏再興を夢見る中で、いつも兄上の事を考えておりました。」と涙ながらに応えるのです。

このシチュエーション何かに似ていませんか?そうです。先程の平将門が藤原秀郷の手を取り、「宜しく頼みますぞ!」という場面です。

この2つのシチュエーション、似て非なるものであることは、後程解説します。

⑫頼朝と義経の対面石の義経の石に座る猫殿
※私は頼朝の石に座って涙の対面です(笑)
この「涙の再会」以降、源平合戦の主役は義経に移ります。

義経の活躍については、拙著「一の谷の戦い① ~逆落とし~」からの3シリーズをご笑覧いただければ幸いです。(リンクはこちら

5.おわりに

頼朝の上総広常に対する緩急入り乱れた態度は、やはり故意なのでしょう。

そういった自制が出来ることは、新しい体制を作る人物には必要な資質であり、少しでも感情的な人物は義経であれ、この上総広常であれ、最後は滅ぼされています。

もっと言ってしまえば、平家も感情的な人物が多いため、最後は滅ぼされます。

先程の平将門の例ですが、将門が秀郷に「宜しく頼みますぞ!!」と涙を流さんばかりに本気で言った将門を、秀郷は感情に流されやすく、指導者としての器ではないと見抜きました。

しかし、義経は頼朝が「共に手を取り合って戦おうぞ!」と感涙してみせた時に、これが感情から来るものではなく、冷徹で緻密な計算の上に成り立つものだとは見抜けなかったのでしょう。頼朝の涙は、本質的に将門のそれと違うのだと思います。

結果は、秀衡は将門と共に敗れることにはならず、義経は惨憺頼朝に使われた挙句・・・。

上総広常に頼朝の冷徹さが見抜けて、義経に見抜けなかったのは、老練か若いかの違い、または血縁の関係の有無でしょう。まあ、見抜けても、見抜けなくても、結局どちらも頼朝に利用されて、終わりました。
⑬頼朝・義経兄弟の黄瀬川河畔での対面(絵)
しかし、感情的な人物は、そうでない人より、人間的には魅力的に見えることも多いから不思議です(笑)。

あなたはどちらのタイプだと思いますか?

勿論、人間性の一面だけを捉えて、全部のように書いていることは色々と誤解を生じるかも知れません。ただ、歴史を紐解くと、この辺りの性格の違いが覇者と滅ぼされる者の違いになっていることがあるようにも思うのです。

長文ご精読ありがとうございました。
次回は、幾つかの武将等の番外編をお送りしたいと思います。

【源頼朝上陸の碑】千葉県安房郡鋸南町竜島
【墨田河渡河想定地】東京都荒川区南千住3丁目38
【亀ヶ谷切通し】神奈川県鎌倉市 扇ガ谷3丁目11−7
【対面石】静岡県駿東郡清水町八幡39