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三浦一族② ~石橋山合戦~

①石橋山合戦場からの頼朝脱出方向
前回、源頼朝の旗揚げということで、伊豆は蛭が小島の山木判官屋敷襲撃の様子を中心に描きました。1180年8月8日の事です。1160年に頼朝が伊豆に流されてから丁度20年目の出来事でした。

今回はその続き、2週間後の8月23日から28日までの5日間の事を書きます。

この5日間が頼朝、いや源氏再興で一番ピンチの時期でした。

石橋山合戦です。

1.三浦義明軍との合流

旗揚げが成功した頼朝の一団は、80騎(一説には40騎)程度であり、まだ軍としての体裁を成していません。そこで頼朝は、平治の乱で、源義朝の片腕として活躍し、その後、平家の追討を逃れ、三浦半島は衣笠城にて、相模国への影響力を持つ三浦義明を頼ります。
(写真②)
②衣笠城址

既に三浦義明は、弟の岡崎義実とその息子佐奈田与一を、山木判官屋敷襲撃時から頼朝軍に参戦させていますが、更に頼朝軍と合流しようと、全軍500騎を率い、衣笠城を出発しております。(図③緑線

しかし、話はそうは簡単に運びません。当然、平家側から見れば、反乱軍である頼朝たちを叩き潰そうという動きがあります。

三浦義明の合流を阻止しようとして、平家側の大庭景親(おおばかげちか)、俣野景久(またの かげひさ)、畠山重忠、熊谷直実らが、武蔵野国方面から南下して来ます。その軍勢3千。(図③ピンク線

ちなみに、拙著ブログ「一の谷の戦い」の源氏方として描いた畠山重忠(「一の谷の戦い① ~逆落とし~」)、熊谷直実「一の谷の戦い② ~敦盛~」)は、この時は頼朝追討軍だったのです。

③源氏方と平家方の動き
さらに、八重姫の恨み伊藤祐親軍も、頼朝らが三浦軍と合流することを阻みに、伊豆方面から進軍します。こちらは300。(図③オレンジ線

そして最後に、三浦義明軍と早く合流しようとする頼朝は、伊豆をわずかな手勢で出発し、土肥実平の所領である箱根町湯河原町(図②の真鶴岬の付け根あたり)まで進出します。(図③青線

三浦義明軍は、8月23日の大雨で増水した酒匂川を渡河できず、酒匂川の東河岸の大庭景親領(現在の寒川町、茅ヶ崎、藤沢)の館等に火を掛けて廻ります。(地図④)

2.石橋山合戦

この三浦軍の放火は、石橋山に登った大庭景親から良く見えました。

彼は激怒し、三浦軍が酒匂川を渡河する前に、さっさと目前の頼朝軍を潰してしまおうと
考えます。

下の地図④を見て下さい。これが石橋山合戦直前の軍配置です。

頼朝軍300は、平家側の大庭軍3000と、伊東軍300に挟まれ、頼みの三浦軍は、酒匂川に行く手を阻まれ合流できません。退路を伊東軍に絶たれている頼朝軍に10倍の兵力を持つ大庭軍が襲いかかれば、一溜まりもない状況です。頼朝は絶体絶命ですね。
④石橋山合戦直前の軍配置図

大庭景親は、三浦軍が到着し背後から襲われる前に、雌雄を決してしまおうと考え、8月23日の大雨の中、夜襲をすることにしました。

⑤石橋山合戦の平家軍
大雨が描かれています
この夜襲、平家物語では、北条時政と大庭景親の名乗り&毒舌合戦から始まったと云われています。

名を惜しむ鎌倉武士らしいですね。(写真⑤)

しかし、幾ら二人とも大音声の武者とは言え、闇夜の暴風雨の中での戦で、名乗りが全軍にまで本当に届いたのでしょうか。少々疑問です。

まず、大庭景親は、「後三年の役で右目を射貫かれても大活躍した鎌倉景政(かまくらかげまさ)の孫である大庭景親なりー!」と名乗りを上げます。

ちなみにこの鎌倉景政の子孫として、大庭景親と梶原景時(かじわらかげとき)もおり、後で頼朝から高い信頼を得る梶原景時も、この時は大庭景親の平家軍として参加しています。梶原景時はまた後程、このblogに登場します。

これに対し、北条時政は自身の名乗りの後に、毒づきます。「鎌倉景政は、八幡太郎義家(源義家)公、つまり頼朝公のご先祖に仕え、後三年の役では活躍させて貰ったのに、その大恩を孫の大庭景親は忘れ、頼朝公に弓を引くのか!」と。

大庭景親も負けていません。「昔の主(あるじ)も今は敵であり、平家には山より高く、海より深い御恩がある!時政こそ、今迄平清盛に取り立てて貰いながら、平家に刃向かうとは忠義に悖(もと)る」と。

どちらもどちらですが、こんな感じで石橋山合戦は夜中に開始されるのです。
⑥頼朝は箱根神社へ逃走

3.佐奈田与一の奮闘

ただ、この闇夜の暴風雨、大軍の前に風前のともし火であった頼朝には、ある意味ラッキーでした。

10倍の敵に対し、籠城もせずに野外戦で勝てる訳がありません。

逃げるのが一番の上策でしょう。しかも闇夜の暴風雨、見つかりにくいです。これで命拾いしたようなものです。

頼朝は戦場から箱根外輪山の頂き方面、写真①の方向へ逃げるのです。

闇夜の暴風では、勾配が一番方角の頼りになるのです。彼らは戦いながら逃げ、箱根外輪山の山頂へ登り、芦ノ湖湖畔の箱根神社へと地図⑥の逃走ルート①を想定していたのだと思います。(地図⑥)

ただ、そう易々と逃走できたのではありません。圧倒的な数の敵と戦い、落命した頼朝軍も多々居ました。その中の有名な話に三浦一族が関係しています。

⑦俣野五郎景久を抑えつける佐奈田与一
三浦義明の援軍が到着しないうちに、戦が開始されたことに、義明の弟、岡崎義実が責任を感じ、頼朝にオファします。

「私の息子、佐奈田与一に、本戦の先陣の名誉をお与え下さい。」

佐奈田与一は、この時討死を覚悟し、57歳にもなる家来、文三家安(ぶんぞういえやす)に、自分亡き後の母と妻子の世話を頼みます。しかし、文三は与一を2歳の幼少より育てて来た親しみの情により、自分も与一の加勢をすると言ってききません。

そこで、与一も根負けし、文三と一緒に、寡兵15騎で、大庭景親の軍に飛び込み、乱闘をするのです。
⑧佐奈田与一義忠討死箇所

与一は、まず1人敵将を切り捨てます。

次に、敵大将の大庭景親の弟である俣野五郎景久と一騎打ちになります。

乱闘の末、2人は組討ち状態になり、石橋山の急斜面を2人は上になったり下になったりしながら、転げ落ちて行きます。

しかし最後は、与一が俣野五郎の上になって、なんとか抑えつけます。(絵⑦)

「文三っ!」と、与一は文三の助太刀を求めます。

ところが痰(たん)が絡んで、声が出ないのです。
逆に俣野五郎のピンチとばかりに、平家方の武将長尾新六が駆けつけます。(絵⑦左の人物)
⑨与一塚(佐奈田霊社境内)

与一は、もはや猶予ならん。とばかりに、火事場の馬鹿力で、懸命に抑えつけながら、刀を抜いて刺し殺そうとしますが、鞘から刀が抜けません。先程1人目を切り捨てた時の血潮糊で抜けなくなったのです。そして、長尾新六から背後から襲われ、与一は、首を掻き切られました。享年25歳。(写真⑧)

現在、この与一が落命した石橋山合戦場には、佐奈田霊社と与一塚が建っています。(写真⑨)

彼が最期痰が絡んで声が出なかったことにちなみ、この神社は、喉の痛みや喘息に霊験があると言います。

また文三は、主人の助太刀が出来なかったことに深い後悔を覚え、敵陣に単騎切込み、8人を討ち取って壮絶な戦死を遂げています。これを讃え、合戦場には文三堂という祠が建っています。(写真⑩)
⑩文三堂

余談になりますが、頼朝は、後年鎌倉幕府がほぼ固まってきた1190年に、旗揚げの頃のピンチを救ってくれた感謝を捧げに、三島神社、箱根神社、伊豆権現を廻っておりますが、その帰りには、この石橋山合戦場の与一と文三家安の墓にも詣でて、深い感謝の気持ちを現したと言います。

また、それだけではなく、佐奈田与一を、鎌倉の守り神とするため、鎌倉の鬼門とされる位置(北西方向、現在の横浜市栄区上郷町の辺り)に、證菩提寺という寺を建立しています。(写真⑪)

多くの武将が鎌倉幕府成立のために命を落としているにも係わらず、頼朝本人が係わる形でその菩提を弔う寺院が建立されたのは、この寺と三浦義明の菩提寺の2つしかないことからも、如何にこの合戦の頃、頼朝がピンチで、それを助けた三浦一族の功績が大きいか分かると思います。
⑪与一の追福を願う證菩提寺
(横浜市栄区)

ちなみに、この證菩提寺には、前回のシリーズの写真⑥にある与一の父親、岡崎義実の墓があります。

岡崎義実も、大した人物で、こんなエピソードが残っています。

後日源氏が優勢になった頃、捕虜となった長尾新六を、頼朝は殺された与一の親である岡崎義実預けにします。つまり、煮て焼いて食べても良いという恨み返しのためです。

ところが、この新六は非常に熱心な仏信者で、朝から晩まで経文を唱えていました。義実は、新六を刺し殺そうと何度も忍び足で新六の部屋へ行くのですが、心安らかに経文を誦唱するその姿に、つい聞き入ってしまうのです。それを何か月も続けていました。

ついには頼朝に「討ち取りました。与一の仇ではなく、私の浅はかな怨念を!願わくば新六のなきがらには法衣を着せて追放させてください。」

頼朝は即許可しました。勇気ある与一の戦い方でしたが、親の岡崎義実も大した人物です。

4.大庭軍の武将の助力①(飯田五郎)
⑫飯田五郎居城 富士塚城址
(横浜市泉区)

佐奈田与一らの奮戦もあり、頼朝は箱根の外輪山山頂へ無事辿り着くことが出来ましたが、平家軍はそれでも暗い中、追い縋ってきます。

24日も明けてから、頼朝も弓で応戦するような混乱の最中に、平家側の飯田五郎家義(いいだごろういえよし)という武将が味方をしてくれました。

彼は最初から頼朝に味方をしたかったのですが、彼の本拠である横浜市から石橋山に到着した時には、大庭景親軍が、頼朝軍と対峙しており、大庭景親側につかざるを得なかった訳でした。(写真⑫)

彼は、頼朝が石橋山の戦場で落とした正観音像を拾って来て、頼朝に渡したと言います。そうです、山木判官屋敷を襲撃する時に、頼朝が強く握って願を掛けていたあの観音像です。

これを拾って貰った頼朝は「だだでさえ、神仏に見放され運尽きかけていた最中に、これが戻ってきたことは非常に心強い。」「それ以上に、平家軍においても、私に味方をしてくれる飯田五郎のような武将が居ること自体、非常に心強く、これ程天運を強く感じたことは無い。」
と感謝します。

頼朝は、その場で、とりあえず軍を解散し、少人数での行動に切り替えます。大人数では目立つからです。

⑬頼朝戦場一帯脱出ルート
そして飯田五郎は、頼朝らを、箱根神社迄、平家軍の追従を上手くかわし、連れて行くのです。

5.大庭軍の武将の助力②(梶原景時)

翌25日、箱根神社の別当から、頼朝を探して山狩りが始まったとの話を聞いた頼朝らは、この箱根神社にも平家の探索が入るのは時間の問題だと悟り、別当に礼を言い、早々に神社を退去します。

とりあえず、頼朝と同行している土肥実平の所領する土地に「しとどの窟」(写真⑮)と云う大きな洞窟があるので、そこで一時的に身を隠し、その間に至急三浦義明と連絡を取り、この戦場一帯から脱出する方法を考えようということになりました。(地図⑬)

そこで、頼朝らは、急ぎ「しとどの窟」を目指して、山狩り最中の山中を敵との遭遇に気をつけながら、大観山経由で「しとどの窟」を目指します。(地図⑬)

ところが、山狩りは結構厳しく、地図⑬の「土肥の大椙(おおすぎ)」という場所で、頼朝らは、平家の山狩り部隊と出くわしそうになります。
⑭前田青邨「洞窟の頼朝」

慌てて、土肥実平等が、近くの大杉の根本の洞を探してきます。そして息を潜めて、その洞で山狩り部隊が去るのを待っています。

と、その時、誰かが洞の入口から、頼朝達を覗き込みました。

これが、前回冒頭でご紹介した前田青邨「洞窟の頼朝」の絵の場面です。(絵⑭)
彼らの視線は、この洞を覗き込んだ誰かを凝視しているのです。

その誰かは、先に出て来た梶原景時です。

彼は、頼朝の顔を見ると、ニヤッとします。そして直ぐ出て行くと、「おーい!」と仲間に向かって叫びました。

⑮しとどの窟
頼朝は、「南無三!」とばかりに、飯田五郎が拾ってくれた正観音を強く握りしめます。

次の瞬間、梶原景時は、「こっちには居そうに無いぞー!」と叫ぶのです。

6.戦場一帯からの脱出

梶原景時は、その後、平家から源氏側へ鞍替えしますが、頼朝は、この時の彼の対応を実に重く見て、重要なポストに付けます。

そして義経が平家を壇ノ浦に滅ぼすまでの監視役や、その後も色々な政治的な駆け引きに彼を重用したのです。その辺りは、また違うblogで詳細をお話したいと思います。

さて、「ししどの窟」で北条時政や、わずかな味方と一緒になった頼朝は、土肥実平を通じ、三浦一族と何とか連絡を取ります。(写真⑮)

三浦義明らも、酒匂川の大水に停滞している最中に頼朝軍が散り散りになったと聞き、失望するも衣笠城に引き揚げました。

色々な状況の中で、結論としては、三浦一族と相模湾海上で落ち合うことになったのです。衣笠城へ引き揚げる途中や、海上で落ち合うことになった経緯については、次回に描きたいと思います。

7.おわりに
⑯頼朝の隠れた大杉に向かう道は
案内も無い獣道

「しとどの窟」に到着した頼朝は、洞窟の一角に、例の正観音像を埋めようとします。

土肥実平がどうして埋めるのかと尋ねると
「大庭景親らに見つかり、首を討たれる時に、 この正観音像を見ると、源氏の大将らくないと非難される」 と言います。

この伝説を聞くたびに、私は、この頼朝の発言が本心かな?と考えてしまいます。

頼朝が信心深いのは、観音像を所持しているかしていないかに関係なく有名ですし、昔の武将が信心深いことを悪いことのように捉えているとも思えません。自分で開運することが出来ず他力本願で神仏に縋るという考え方は、ずっと後になって出来た概念ではないでしょうか?

⑰頼朝の隠れた大杉跡
むしろ私は、源氏旗揚げの一番の危険が去ったと直感的に分かった頼朝が、今までの数々の救済の感謝と、もう危険が去ったのでゆっくりここでご休養くださいという意味を込めて埋めたのではないかと想定しています。

また、それはここまでは神仏に縋って成功・不成功を占いたいと考えていた頼朝が、源氏再興の成功を確信し、神仏ではなく、自分が本気で人を動かすようになった瞬間でもありました。これ以降の頼朝は確かに一皮剥けた感があります。

このシリーズはとりあえず富士川の戦いまで話を進めたいと思いますので、引き続きどうぞ宜しくお願いします。

◆ ◇ ◆ ◇

⑱頼朝が隠れた大杉
ちなみに、頼朝らが梶原景時に見つかったとされる「土肥の大椙」は、写真⑯のような看板も全く無い獣道を、熊と遭遇しないかとヒヤヒヤしながら、延々と歩き続け、腐りかけた木橋を渡り、やっと見つけました。(写真⑰)

この大杉は大正6年(1920年)に台風で倒れてしまったそうです。ただ、その前の写真が残っています。(写真⑱)

前田青邨の絵のように、何人も入れるような感じではないです。

青邨先生は、多分「しとどの窟」のイメージで描かれたのだと思います。

それも手伝ってか、他のblog等でも、「しとどの窟」で梶原景時に発見された説が強くなり、ただでさえ、行きづらい「土肥の大椙」が、益々誰も行かなくなりつつあり、道や橋が崩壊しかけているように感じます(笑)。

この「土肥の大椙」や「しとどの窟」探索等は、また別blogにてご紹介させて頂ければと存じます。

長文のご精読ありがとうございました。

【石橋山合戦場(佐奈田霊社)】神奈川県小田原市石橋420
【證菩提寺(岡崎義実墓等)】神奈川県横浜市栄区上郷町1864
【飯田五郎居城(富士塚城址)】神奈川県 横浜市泉区下飯田町1015-1
【土肥の大椙】神奈川県足柄下郡湯河原町鍛治屋
【しとどの窟】 神奈川県足柄下郡湯河原町城堀