マイナー・史跡巡り: 北条五代記① ~高縄原の戦い~ -->

土曜日

北条五代記① ~高縄原の戦い~

魯台跡付近に建つ深大寺城址
今までも室町時代の末期、戦国時代の初期における後北条氏の台頭と、太田道灌らが仕えた上杉について、このマイナー史跡巡りでも何度か取り上げました。

今回は、深大寺に行った時に、ついでに見て廻った深大寺城について調べていたところ、この2氏(北条氏、上杉氏)の浮沈の分水嶺とも言える戦がこの城の時代に結構あったことが分かり、後北条氏の関東支配に関し、この時期が一番重要だったことが分かりました。

しかし、深大寺城や周辺の砦、戦自体意外と知られておらず、これぞマイナー史跡巡りらしい内容をお届けできると思い、3部に渡って、後北条氏と上杉氏の攻防を中心とした北条五代記をお送りしたいと思います。

なお、「後北条氏」とは、先の時代(鎌倉時代)の執権北条氏と区別するため、後の時代の北条氏ということで「後」が付く訳ですが、まどろっこしいので、この後は、「北条氏」と表記させてください。

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1.上杉氏と北条氏、その流れ

早雲の関東進出の概略図
2氏の大まかな流れを書きますと、上杉氏は、鎌倉時代の京都の中級公家が鎌倉武士になったのが、足利氏と関係が深かったので、後の室町時代に関東管領を代々務めることになります。

鎌倉の山内と扇谷という土地(かなりご近所)にそれぞれ屋敷を持った血縁が居たらしく、この土地の名前から山内上杉と扇谷上杉の2派に分かれて、かれこれ数十年間係争状態だったようです。
 
この後、この両家それぞれ北条とは敵対しますが、後に述べる江戸城陥落で一致協力することになり、ゆくゆくは皆さんご存知の上杉謙信こと長尾景虎に上杉家名を譲ります。

北条氏については右上の図の順に初代の早雲について簡単に説明します。赤字が早雲の攻略ルートと、赤の網掛けが三浦氏を滅ぼした頃の早雲の領土です。敵方は青字、青線で書きました。

北条氏は、伊勢新九郎こと京都の一介の武者が、今川の親戚の家督争いに便乗し、駿河東部で勢力を持つようになり、これがまた伊豆に本拠を持つ北条氏の家督争いに便乗して、北条氏を乗っ取り、かの有名な北条早雲となった訳です。(一部北条姓については2代目氏綱から使われたとの説もあります。)

この北条早雲という人は、何事にも混乱に便乗して、自分のしたい方向に持っていくことが得意だったようです。

油壺湾からの夕日
小田原の大森氏から小田原城を乗っ取った時も、箱根山を挟んだ自分の領地の大掛かりな巻狩りに便乗し、動物が箱根山に逃げたことにして、勢子(狩りの動物を追い立てる人たち)に扮した大軍を送り込んだことによるものと言われています。

しかも、早雲は大森氏とはそれまで大変懇意にしていて、勢子を箱根山に入れることの合意まで得ていた仲というではありませんか。まあ、下克上の始まりと言われた男だけにたいしたものです。

次に早雲は、三浦半島は油壺の新井城を拠点とした三浦氏を攻めます。三浦氏の新井城は海に突出した小島(陸と数m離れていたようで、当時引き橋で繋がれていました。これを落とすと完全な島でした。)で、強固な防衛能力と海上輸送による兵糧供給で3年も立て籠もります。

長期戦を覚悟した早雲は、今の大船に玉縄城を築城、ここを基地として新井城を攻めます。大船と油壺はかなり離れいますが、当時は三浦氏に上杉が援護支援をしていたので、その牽制的な意味もあったのだと思います。3年後に三浦氏が全滅した時にその血が油壺湾に溜まり、まるで海が油を流したようになったので、油壺という地名になったという伝説があります。

2代目北条氏綱の頃の上杉掃討作戦
さて三浦氏を滅ぼしたことで相模国の基盤をしっかり築いた早雲に続き、2代目北条氏綱は、主に上杉と対峙すべく武蔵国に進出を開始します。小机城を復活し、横浜の権現山城で上杉を追い落とし、ほぼ今の神奈川県の範疇まで拡大します。そこで大きくぶつかるのが江戸城の上杉(扇谷上杉)氏です。

ここまで戦国初期までの上杉氏、北条早雲の概要をパパッと書きましたが、ここから、2代目 北条氏綱、3代目 氏康がいかに北条の関東における基盤を戦国時代のど真ん中で築き上げたかについて書きたいと思います。また右図を参照しながら読み進めて頂けると理解しやすいです。

2.高縄原の戦い

あまり知られていないのですが、「高縄原の戦い」という扇谷上杉と北条氏綱の大激戦が、この江戸城奪取前に繰り広げられました。

江戸城は扇谷上杉氏の執事だった太田道灌が作った城というのは有名ですね。(ご存じない方は拙著blog「マイナー・史跡巡り」「小机城① ~城址跡を訪ねて~」をお読みください。)

太田道灌が作った頃のままの道灌濠
有能ゆえに扇谷上杉氏(上杉朝興)に殺されてしまった太田道灌ですが、作った江戸城はどうなったかというと、殺した当の上杉朝興の隠居城と使われていたそうです。

道灌の上司とは言え、ちょっと道灌が可哀想。でも道灌の孫がちゃんと仇を取ってくれます。

その孫とは、太田資高です。何故か爺ちゃんが殺されても、朝興の家臣として仕えていたのです。多分表向きは朝興が殺したという形には見えなかったのでしょうから、道灌の親戚縁者まで全部解雇等のようなことが無かったからと想像します。

さて、北条氏綱は、どうアクセスしたのかは定かではないですが、この太田資高を利用します。かなり謀殺の恨み辛みを思い起こさせ、北条に有利なようにマインド・コントロールの徹底を図ったのです。

太田資高の翻意を見届けると、氏綱は大軍を玉縄城、今の大船駅西側から出発させます。東海道40kmを北上しますと、大体大軍でも1日の移動距離です。

北条軍出発の報を聞くと、上杉朝興も城より打って出ようとします。「居ながら敵を請けなければ、武略なきに似たり。」と朝興が言ったと『相州兵乱記』にはあります。

後から起した行動は遅いという訳で、本当は多摩川より南、神奈川県側で北条軍を迎え撃ち、背水の陣を敷きたかったのでしょうが、品川は高輪に布陣する時間しか確保できなかったのです。

昔は高輪を高縄と言ったよ
高輪の激戦地?(高輪の森)
うです。どうも道路の形状が高いところから縄が下がっているようだったことが由来で、音だけ残置で高縄が高輪になったとのことです。

この戦い、あまり知られていませんが、かなり大規模です。それは北条氏綱にすれば、早雲から自分に代が替わっての初戦、朝興はいつも早雲に押されっぱなしだったので、その息子には「なめるなよ!」という意識が強かったのです。

私事で恐縮ですが、この辺り職場からも近いので、しょっちゅう歩いて通るところです。ところがそんな激戦があったという碑等は全くありません。大きな戦いなのに、史跡上からは消されているのでしょうか。

むしろ、近くの高輪カトリック教会の敷地内に、殉教者2000人の碑があることの方が目立ちます。いずれにせよ、時代を超えてかなりの数の人命がこの地で失われていることは確かです。

余談になりますが、以前、Facebookで高輪カトリック教会の殉教の碑について投稿をしたところ、この辺りに住んでおられた方のコメントの中に「夜中に何千人の人の草履を摺るような音がする。」とか「日中にのこぎりを引くような音が聞こえる。」等とあまり気持ちの良くない話がありました。

高輪にある殉教の碑
殉教に絡んだ怖い都市伝説かとも思いましたが、よく考えると、この「夜中に何千人の人の草履を摺るような音がする。」というのは、むしろこの「高縄原の戦い」の兵士達のもののような気がしてきました。

調べると上杉軍がこの地に移動したのは、厳冬の1月13日の夜中でした。江戸城の大部分の兵士がこの地に夜中走ってきたのですから、その草履の音は厳冬深夜に相当響いたことでしょう。

やはり、鎮魂の意味も含めて、碑を建てないといけないような気がします。高輪はかなり血塗られた土地なのですね。そういえば映画にもなった辻村深の小説「ツナグ」であの世の人と一晩だけ会う場所として、高輪あたりのホテルがメインステージになっていたような・・・

かなり脱線しましたが、両軍共に数千は下らないのではないかとの大戦。夜中に両陣営整いまして、未明戦闘が開始されたようです。
映画「ツナグ」のメイン舞台も高輪

上杉朝興の一番槍 曾我神四郎なる武将がかなりのつわもので、奮迅の戦いで、北条の出鼻を挫いたようです。また上杉軍はほぼ江戸城を出ての後が無い戦い、死力を尽くしますが、そこは大森氏、三浦氏など並み居る相模の強豪を潰してきただけの北条軍、また2代目氏綱はデビュー戦ですから、プライドが赦しません。押し返す押し返す。とするとまた上杉が押す押す等、7,8度の衝突になる大激戦だったようです。

しかし、次第に北条有利の体を成して来ます。やはり江戸城近くとの甘えが出てしまいますかね。多摩川より南、もしくは多摩川挟んでの方が良かったかも。いずれにせよ、上杉軍は江戸城に敗走することとなります。

3.北条軍の江戸城奪取

はてさて、江戸城に敗走して、一息つく上杉軍に泣きっ面にハチ的な事件が起きます。

ワーストタイミングでの太田資高氏の裏切りです。なんと、しっかりカンヌキした江戸城の門をあれあれという間に、開いているではありませんか!

因果応報、太田道灌をだまし討ちした上杉もここで幾ら悔やんでも遅いです。

この瞬間、江戸城は北条氏綱軍の手に落ちました。ほうほうの体で上杉軍は板橋経由で、河越城まで落ちていったのでした。

2代目 北条氏綱
2代目 北条氏綱は、初代早雲、3代目氏康の間に入ってあまり目立たない方ではありますが、まさに、信長→秀吉→家康で戦国時代が成り立ったように、北条五代100年の関東支配の歴史も、早雲→氏綱→氏康で成り立たせた訳で、特に関東管領の上杉氏との争いにおいては、この高輪原の戦い・江戸城奪取は、両氏の分水嶺となる大戦だったのです。

最近、小田原市殿が北条五代を盛んにフューチャーしておりますが、この高縄原の戦いについても、もう少し現地にフューチャーして欲しいものです。

次回は深大寺城周辺での上杉逆襲をお送りします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。