マイナー・史跡巡り

日曜日

三浦一族② ~石橋山合戦~

①石橋山合戦場からの頼朝脱出方向
前回、源頼朝の旗揚げということで、伊豆は蛭が小島の山木判官屋敷襲撃の様子を中心に描きました。1180年8月8日の事です。1160年に頼朝が伊豆に流されてから丁度20年目の出来事でした。

今回はその続き、2週間後の8月23日から28日までの5日間の事を書きます。

この5日間が頼朝、いや源氏再興で一番ピンチの時期でした。

石橋山合戦です。

1.三浦義明軍との合流

旗揚げが成功した頼朝の一団は、80騎(一説には40騎)程度であり、まだ軍としての体裁を成していません。そこで頼朝は、平治の乱で、源義朝の片腕として活躍し、その後、平家の追討を逃れ、三浦半島は衣笠城にて、相模国への影響力を持つ三浦義明を頼ります。
(写真②)
②衣笠城址

既に三浦義明は、弟の岡崎義実とその息子佐奈田与一を、山木判官屋敷襲撃時から頼朝軍に参戦させていますが、更に頼朝軍と合流しようと、全軍500騎を率い、衣笠城を出発しております。(図③緑線

しかし、話はそうは簡単に運びません。当然、平家側から見れば、反乱軍である頼朝たちを叩き潰そうという動きがあります。

三浦義明の合流を阻止しようとして、平家側の大庭景親(おおばかげちか)、俣野景久(またの かげひさ)、畠山重忠、熊谷直実らが、武蔵野国方面から南下して来ます。その軍勢3千。(図③ピンク線

ちなみに、拙著ブログ「一の谷の戦い」の源氏方として描いた畠山重忠(「一の谷の戦い① ~逆落とし~」)、熊谷直実「一の谷の戦い② ~敦盛~」)は、この時は頼朝追討軍だったのです。

③源氏方と平家方の動き
さらに、八重姫の恨み伊藤祐親軍も、頼朝らが三浦軍と合流することを阻みに、伊豆方面から進軍します。こちらは300。(図③オレンジ線

そして最後に、三浦義明軍と早く合流しようとする頼朝は、伊豆をわずかな手勢で出発し、土肥実平の所領である箱根町湯河原町(図②の真鶴岬の付け根あたり)まで進出します。(図③青線

三浦義明軍は、8月23日の大雨で増水した酒匂川を渡河できず、酒匂川の東河岸の大庭景親領(現在の寒川町、茅ヶ崎、藤沢)の館等に火を掛けて廻ります。(地図④)

2.石橋山合戦

この三浦軍の放火は、石橋山に登った大庭景親から良く見えました。

彼は激怒し、三浦軍が酒匂川を渡河する前に、さっさと目前の頼朝軍を潰してしまおうと
考えます。

下の地図④を見て下さい。これが石橋山合戦直前の軍配置です。

頼朝軍300は、平家側の大庭軍3000と、伊東軍300に挟まれ、頼みの三浦軍は、酒匂川に行く手を阻まれ合流できません。退路を伊東軍に絶たれている頼朝軍に10倍の兵力を持つ大庭軍が襲いかかれば、一溜まりもない状況です。頼朝は絶体絶命ですね。
④石橋山合戦直前の軍配置図

大庭景親は、三浦軍が到着し背後から襲われる前に、雌雄を決してしまおうと考え、8月23日の大雨の中、夜襲をすることにしました。

⑤石橋山合戦の平家軍
大雨が描かれています
この夜襲、平家物語では、北条時政と大庭景親の名乗り&毒舌合戦から始まったと云われています。

名を惜しむ鎌倉武士らしいですね。(写真⑤)

しかし、幾ら二人とも大音声の武者とは言え、闇夜の暴風雨の中での戦で、名乗りが全軍にまで本当に届いたのでしょうか。少々疑問です。

まず、大庭景親は、「後三年の役で右目を射貫かれても大活躍した鎌倉景政(かまくらかげまさ)の孫である大庭景親なりー!」と名乗りを上げます。

ちなみにこの鎌倉景政の子孫として、大庭景親と梶原景時(かじわらかげとき)もおり、後で頼朝から高い信頼を得る梶原景時も、この時は大庭景親の平家軍として参加しています。梶原景時はまた後程、このblogに登場します。

これに対し、北条時政は自身の名乗りの後に、毒づきます。「鎌倉景政は、八幡太郎義家(源義家)公、つまり頼朝公のご先祖に仕え、後三年の役では活躍させて貰ったのに、その大恩を孫の大庭景親は忘れ、頼朝公に弓を引くのか!」と。

大庭景親も負けていません。「昔の主(あるじ)も今は敵であり、平家には山より高く、海より深い御恩がある!時政こそ、今迄平清盛に取り立てて貰いながら、平家に刃向かうとは忠義に悖(もと)る」と。

どちらもどちらですが、こんな感じで石橋山合戦は夜中に開始されるのです。
⑥頼朝は箱根神社へ逃走

3.佐奈田与一の奮闘

ただ、この闇夜の暴風雨、大軍の前に風前のともし火であった頼朝には、ある意味ラッキーでした。

10倍の敵に対し、籠城もせずに野外戦で勝てる訳がありません。

逃げるのが一番の上策でしょう。しかも闇夜の暴風雨、見つかりにくいです。これで命拾いしたようなものです。

頼朝は戦場から箱根外輪山の頂き方面、写真①の方向へ逃げるのです。

闇夜の暴風では、勾配が一番方角の頼りになるのです。彼らは戦いながら逃げ、箱根外輪山の山頂へ登り、芦ノ湖湖畔の箱根神社へと地図⑥の逃走ルート①を想定していたのだと思います。(地図⑥)
⑦俣野五郎景久を抑えつける佐奈田与一

ただ、そう易々と逃走できたのではありません。圧倒的な数の敵と戦い、落命した頼朝軍も多々居ました。その中の有名な話に三浦一族が関係しています。

三浦義明の援軍が到着しないうちに、戦が開始されたことに、義明の弟、岡崎義実が責任を感じ、頼朝にオファします。

「私の息子、佐奈田与一に、本戦の先陣の名誉をお与え下さい。」

佐奈田与一は、この時討死を覚悟し、57歳にもなる家来、文三家安(ぶんぞういえやす)に、自分亡き後の母と妻子の世話を頼みます。しかし、文三は与一を2歳の幼少より育てて来た親しみの情により、自分も与一の加勢をすると言ってききません。

⑧佐奈田与一義忠討死箇所
そこで、与一も根負けし、文三と一緒に、寡兵15騎で、大庭景親の軍に飛び込み、乱闘をするのです。

与一は、まず1人敵将を切り捨てます。

次に、敵大将の大庭景親の弟である俣野五郎景久と一騎打ちになります。

乱闘の末、2人は組討ち状態になり、石橋山の急斜面を2人は上になったり下になったりしながら、転げ落ちて行きます。

しかし最後は、与一が俣野五郎の上になって、なんとか抑えつけます。(絵⑦)

「文三っ!」と、与一は文三の助太刀を求めます。

ところが痰(たん)が絡んで、声が出ないのです。
逆に俣野五郎のピンチとばかりに、平家方の武将長尾新六が駆けつけます。(絵⑦左の人物)
⑨与一塚(佐奈田霊社境内)

与一は、もはや猶予ならん。とばかりに、火事場の馬鹿力で、懸命に抑えつけながら、刀を抜いて刺し殺そうとしますが、鞘から刀が抜けません。先程1人目を切り捨てた時の血潮糊で抜けなくなったのです。そして、長尾新六から背後から襲われ、与一は、首を掻き切られました。享年25歳。(写真⑧)

現在、この与一が落命した石橋山合戦場には、佐奈田霊社と与一塚が建っています。(写真⑨)

彼が最期痰が絡んで声が出なかったことにちなみ、この神社は、喉の痛みや喘息に霊験があると言います。

また文三は、主人の助太刀が出来なかったことに深い後悔を覚え、敵陣に単騎切込み、8人を討ち取って壮絶な戦死を遂げています。これを讃え、合戦場には文三堂という祠が建っています。(写真⑩)
⑩文三堂

余談になりますが、頼朝は、後年鎌倉幕府がほぼ固まってきた1190年に、旗揚げの頃のピンチを救ってくれた感謝を捧げに、三島神社、箱根神社、伊豆権現を廻っておりますが、その帰りには、この石橋山合戦場の与一と文三家安の墓にも詣でて、深い感謝の気持ちを現したと言います。

また、それだけではなく、佐奈田与一を、鎌倉の守り神とするため、鎌倉の鬼門とされる位置(北西方向、現在の横浜市栄区上郷町の辺り)に、證菩提寺という寺を建立しています。(写真⑪)

多くの武将が鎌倉幕府成立のために命を落としているにも係わらず、頼朝本人が係わる形でその菩提を弔う寺院が建立されたのは、この寺と三浦義明の菩提寺の2つしかないことからも、如何にこの合戦の頃、頼朝がピンチで、それを助けた三浦一族の功績が大きいか分かると思います。
⑪与一の追福を願う證菩提寺
(横浜市栄区)

ちなみに、この證菩提寺には、前回のシリーズの写真⑥にある与一の父親、岡崎義実の墓があります。

岡崎義実も、大した人物で、こんなエピソードが残っています。

後日源氏が優勢になった頃、捕虜となった長尾新六を、頼朝は殺された与一の親である岡崎義実預けにします。つまり、煮て焼いて食べても良いという恨み返しのためです。

ところが、この新六は非常に熱心な仏信者で、朝から晩まで経文を唱えていました。義実は、新六を刺し殺そうと何度も忍び足で新六の部屋へ行くのですが、心安らかに経文を誦唱するその姿に、つい聞き入ってしまうのです。それを何か月も続けていました。

ついには頼朝に「討ち取りました。与一の仇ではなく、私の浅はかな怨念を!願わくば新六のなきがらには法衣を着せて追放させてください。」

頼朝は即許可しました。勇気ある与一の戦い方でしたが、親の岡崎義実も大した人物です。

4.大庭軍の武将の助力①(飯田五郎)
⑫飯田五郎居城 富士塚城址
(横浜市泉区)

佐奈田与一らの奮戦もあり、頼朝は箱根の外輪山山頂へ無事辿り着くことが出来ましたが、平家軍はそれでも暗い中、追い縋ってきます。

24日も明けてから、頼朝も弓で応戦するような混乱の最中に、平家側の飯田五郎家義(いいだごろういえよし)という武将が味方をしてくれました。

彼は最初から頼朝に味方をしたかったのですが、彼の本拠である横浜市から石橋山に到着した時には、大庭景親軍が、頼朝軍と対峙しており、大庭景親側につかざるを得なかった訳でした。(写真⑫)

彼は、頼朝が石橋山の戦場で落とした正観音像を拾って来て、頼朝に渡したと言います。そうです、山木判官屋敷を襲撃する時に、頼朝が強く握って願を掛けていたあの観音像です。

これを拾って貰った頼朝は「だだでさえ、神仏に見放され運尽きかけていた最中に、これが戻ってきたことは非常に心強い。」「それ以上に、平家軍においても、私に味方をしてくれる飯田五郎のような武将が居ること自体、非常に心強く、これ程天運を強く感じたことは無い。」
と感謝します。

頼朝は、その場で、とりあえず軍を解散し、少人数での行動に切り替えます。大人数では目立つからです。

⑬頼朝戦場一帯脱出ルート
そして飯田五郎は、頼朝らを、箱根神社迄、平家軍の追従を上手くかわし、連れて行くのです。

5.大庭軍の武将の助力②(梶原景時)

翌25日、箱根神社の別当から、頼朝を探して山狩りが始まったとの話を聞いた頼朝らは、この箱根神社にも平家の探索が入るのは時間の問題だと悟り、別当に礼を言い、早々に神社を退去します。

とりあえず、頼朝と同行している土肥実平の所領する土地に「しとどの窟」(写真⑮)と云う大きな洞窟があるので、そこで一時的に身を隠し、その間に至急三浦義明と連絡を取り、この戦場一帯から脱出する方法を考えようということになりました。(地図⑬)

そこで、頼朝らは、急ぎ「しとどの窟」を目指して、山狩り最中の山中を敵との遭遇に気をつけながら、大観山経由で「しとどの窟」を目指します。(地図⑬)

ところが、山狩りは結構厳しく、地図⑬の「土肥の大椙(おおすぎ)」という場所で、頼朝らは、平家の山狩り部隊と出くわしそうになります。
⑭前田青邨「洞窟の頼朝」

慌てて、土肥実平等が、近くの大杉の根本の洞を探してきます。そして息を潜めて、その洞で山狩り部隊が去るのを待っています。

と、その時、誰かが洞の入口から、頼朝達を覗き込みました。

これが、前回冒頭でご紹介した前田青邨「洞窟の頼朝」の絵の場面です。(絵⑭)
彼らの視線は、この洞を覗き込んだ誰かを凝視しているのです。

その誰かは、先に出て来た梶原景時です。

彼は、頼朝の顔を見ると、ニヤッとします。そして直ぐ出て行くと、「おーい!」と仲間に向かって叫びました。

⑮しとどの窟
頼朝は、「南無三!」とばかりに、飯田五郎が拾ってくれた正観音を強く握りしめます。

次の瞬間、梶原景時は、「こっちには居そうに無いぞー!」と叫ぶのです。

6.戦場一帯からの脱出

梶原景時は、その後、平家から源氏側へ鞍替えしますが、頼朝は、この時の彼の対応を実に重く見て、重要なポストに付けます。

そして義経が平家を壇ノ浦に滅ぼすまでの監視役や、その後も色々な政治的な駆け引きに彼を重用したのです。その辺りは、また違うblogで詳細をお話したいと思います。

さて、「ししどの窟」で北条時政や、わずかな味方と一緒になった頼朝は、土肥実平を通じ、三浦一族と何とか連絡を取ります。(写真⑮)

三浦義明らも、酒匂川の大水に停滞している最中に頼朝軍が散り散りになったと聞き、失望するも衣笠城に引き揚げました。

色々な状況の中で、結論としては、三浦一族と相模湾海上で落ち合うことになったのです。衣笠城へ引き揚げる途中や、海上で落ち合うことになった経緯については、次回に描きたいと思います。

7.おわりに
⑯頼朝の隠れた大杉に向かう道は
案内も無い獣道

「しとどの窟」に到着した頼朝は、洞窟の一角に、例の正観音像を埋めようとします。

土肥実平がどうして埋めるのかと尋ねると
「大庭景親らに見つかり、首を討たれる時に、 この正観音像を見ると、源氏の大将らくないと非難される」 と言います。

この伝説を聞くたびに、私は、この頼朝の発言が本心かな?と考えてしまいます。

頼朝が信心深いのは、観音像を所持しているかしていないかに関係なく有名ですし、昔の武将が信心深いことを悪いことのように捉えているとも思えません。自分で開運することが出来ず他力本願で神仏に縋るという考え方は、ずっと後になって出来た概念ではないでしょうか?

⑰頼朝の隠れた大杉跡
むしろ私は、源氏旗揚げの一番の危険が去ったと直感的に分かった頼朝が、今までの数々の救済の感謝と、もう危険が去ったのでゆっくりここでご休養くださいという意味を込めて埋めたのではないかと想定しています。

また、それはここまでは神仏に縋って成功・不成功を占いたいと考えていた頼朝が、源氏再興の成功を確信し、神仏ではなく、自分が本気で人を動かすようになった瞬間でもありました。これ以降の頼朝は確かに一皮剥けた感があります。

このシリーズはとりあえず富士川の戦いまで話を進めたいと思いますので、引き続きどうぞ宜しくお願いします。

◆ ◇ ◆ ◇

⑱頼朝が隠れた大杉
ちなみに、頼朝らが梶原景時に見つかったとされる「土肥の大椙」は、写真⑯のような看板も全く無い獣道を、熊と遭遇しないかとヒヤヒヤしながら、延々と歩き続け、腐りかけた木橋を渡り、やっと見つけました。(写真⑰)

この大杉は大正6年(1920年)に台風で倒れてしまったそうです。ただ、その前の写真が残っています。(写真⑱)

前田青邨の絵のように、何人も入れるような感じではないです。

青邨先生は、多分「しとどの窟」のイメージで描かれたのだと思います。

それも手伝ってか、他のblog等でも、「しとどの窟」で梶原景時に発見された説が強くなり、ただでさえ、行きづらい「土肥の大椙」が、益々誰も行かなくなりつつあり、道や橋が崩壊しかけているように感じます(笑)。

この「土肥の大椙」や「しとどの窟」探索等は、また別blogにてご紹介させて頂ければと存じます。

長文のご精読ありがとうございました。

【石橋山合戦場(佐奈田霊社)】神奈川県小田原市石橋420
【證菩提寺(岡崎義実墓等)】神奈川県横浜市栄区上郷町1864
【飯田五郎居城(富士塚城址)】神奈川県 横浜市泉区下飯田町1015-1
【土肥の大椙】神奈川県足柄下郡湯河原町鍛治屋
【しとどの窟】 神奈川県足柄下郡湯河原町城堀

三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~

①三浦氏本拠 衣笠城の旗立岩
神奈川には三浦半島がありますが、ここを拠点とし、相模国へ勢力を拡大する三浦氏は、平安時代末期から、戦国時代初期の北条早雲に滅ぼされるまで、単なる一地方豪族というよりは、歴史の中核者たる活躍をします。(写真①)

また血族ではありませんが、江戸時代初期に、英国人ウィリアム・アダムスが「三浦按針」という名を家康から貰う等、平安末期から江戸初期までの500年もの長い期間、日本史に三浦氏という名が深く係っているのに感心しました。

そこで、「三浦一族シリーズ」として、それぞれの時代毎に活躍した人物を、気長に描きたいと思います。

まず最初のシリーズは、源頼朝の旗揚げの中における三浦氏の働き等を見ていきます。

1.洞窟の頼朝

右の絵、見たことのある方も多いと思います。(絵②)

日本画家の前田青邨の有名な1枚「洞窟の頼朝」です。
②前田青邨「洞窟の頼朝」

立派なクワガタを持つ鎧の武者は、勿論頼朝です。

この絵では、後ろ向きの1名を除いて、皆斜め前方に視線が向けられています。

この視線の統一によって、ただならぬ一瞬だと見る人に分からせるように描いている前田青邨、流石です。

そう、この瞬間が、旗揚げから鎌倉幕府成立までの間で、源頼朝最大のピンチなのです。

では、ここに至るまでの経緯とその後について、2~3回のシリーズで描いていきたいと思います。

2.蛭が小島

詳細は省きますが、1160年の平治の乱平清盛に敗れた頼朝の父、源義朝(よしとも)は東国へ落ち延び、体制を立て直そうとします。

が、名古屋辺りで風呂に入ったところを、だまし討ちに合い、首を取られます。

③頼朝が流された伊豆
狩野川流域「蛭が小島」
この逃亡の一団に長男、次男はきちんと付いて行ったのですが、三男である頼朝は、直前にはぐれてしまいます。

これがラッキーでした。

残念ですが、義朝を討った後に捕縛された頼朝の兄貴二人は、長男は斬首、次男は落ち武者狩りで負傷が元で死亡してしまったのです。

ところが、後から捕まった13歳の頼朝と、ちょうどその頃、乳飲み子だった牛若(義経)らが、器量の良さで、義朝の寵愛を受けていた母である常盤御前と一緒に捕まったことは、不幸中の幸いでした。

清盛は、自分の母親、長男の重盛等の助命嘆願等もありましたが、当時の世論に負けたのでしょう。保元の乱の首謀者、信西(しんぜい)が根絶やしの斬首をしたのと同じ、非情は自分に返ってくるぞ(信西は後晒し首)と世間で騒がれると、感情量の多い清盛としては、やはり斬れなくなってしまったのだと思います。

そこで、ご存じのように頼朝は伊豆の蛭が小島へ流し、常盤御前の牛若ら3人の和子は鞍馬寺等の寺預けとするのです。(写真③)

3.頼朝 蛭が小島での17年間

しかし、清盛は頼朝を生かしておいたばかりに・・・と、後世では良く言われますが、それ以上に、流した場所が悪かったですね。

頼朝は結局、13歳から30歳までの17年間、蛭が小島で毎朝の読経等、信仰深い生活をしているかと思いきや、伊東 祐親(いとう すけちか)の娘、八重姫と恋仲に落ち、子供まで産ませたり、北条政子と駆落ちしたりと、まあ、ある意味、配流人としては、気楽な生活をしていました。
(八重姫の話は、内田氏のblog「ゆる歴散歩」をご参照ください。こちら

平家にとって問題は、彼が伊豆から関東に遠出できてしまう、甘い監視体制です。これが本当に保元の乱で大活躍した強弓の名手で、頼朝の叔父にあたる鎮西八郎為朝のような伊豆大島等の海中の島に流していたら、頼朝の旗揚げの可能性はほぼ0だったでしょう。

しかし、蛭が小島は地図④のように、伊豆の大きな川である狩野川の流域にある湿地帯の中の乾いた場所という意味合いの島であり、関東へ非常に出やすい地理的位置にあります。
④蛭が小島周辺
これでは、頼朝は「将来、父義朝の敵討ちをしなさいね!」と、言われんがばかりの土地に流されたようなものです。

誰か配流地を決定する時に、頼朝の旗揚げを期待して、裏工作した反清盛派が居たのでしょうか?
⑤佐々木四兄弟が身を寄せていた早川城空堀
(神奈川県綾瀬市)

実際、彼の旗揚げの時に良く付いてきてくれた佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)が居ます。

元々近江源氏(おうみげんじ)であった父、佐々木源三秀義(げんぞうひでよし)が、平治の乱で平家に屈せず、近江を逃げて、東へ下向する途中、相模国の渋谷氏という豪族早川城に身を寄せていました。

その父は、やはり頼朝を一縷の希望とするのか、自分の息子たち四兄弟を頼朝の下僕となるよう、蛭が小島へ送り込んでしまいます。(写真⑤)

また、三浦氏も、当時の三浦家宗主である三浦義明の弟、岡崎四郎義実(よしざね)と、さらに義実の息子、佐奈田与一義忠(さなだよいちよしただ)も、この蛭が小島に足繫く通い、三浦氏とのリエゾン(連絡)役となっていました。(写真⑥)

余談ですが、この佐奈田与一は、あの「真田丸」で有名な真田氏の先祖に当たります。

それから、土肥次郎実平(といじろうさねひら)はこの伊豆のすぐ隣の箱根や湯河原等の豪族でやはり頼朝のところに通ってくる若い衆の1人。

⑥岡崎四郎義実の墓
(横浜市栄区證菩提寺)
というように、直ぐ隣の相模国(神奈川県)の豪族等を中心に、頼朝持ち上げ派というか、反平清盛派が着々と17年間、頼朝再起の素地を作っていたのです。

4.政子の駆落ち作戦と時政の策戦

山木判官兼隆(やまきほうがんかねたか)は、清盛政権が伊豆に送った大目付、つまり行政監査役のような役割を持った有力者です。では、ここ伊豆の行政執行者は誰かと云うと、齢50歳の北条時政です。

地図④の左下に彼の居城、守山城があります。
娘はかの有名な北条政子20歳

当初、時政はこの監査役の山木兼隆へ政子を嫁がせようとし、政子に無断で、兼隆に婚約の話を付けてしまっていたようです。
ところが、政子はこの時既に頼朝と一緒になりたいと思っていました。

政略的に優れた才覚がある政子ですので、兼隆との婚約を覆さず、輿入れした日の夜に、土肥次郎実平が騒動を起こし、そのドサクサに紛れて、実平の所領にある伊豆大権現に頼朝と駆落ちし、姿を晦ますことで、父時政に一切の責任は無く、政子1人の我儘のように見せかけます。

時政は、兼隆に対し、平謝りに謝り、「あのバカ娘はとっ捕まえたら、成敗します。今しばらくご堪忍を。」とし、兼隆の怒りを鎮めます。

しかし、時政も後に執権として辣腕を振るうだけあって、この政子の行動は、政子が兼隆に嫁ぐ直前に見通し、これを上手く利用することによって、実は頼朝に接近することの隠れ蓑としたのです。

⑦現在の山木判官邸跡
祠が一つあるのみ
時政は平家の末裔で、清盛からも覚えが良く、そもそも配流中の頼朝の監視を仰せつかっている立場なのですが、そろそろ京の平家のやり方や、官僚的である山木兼隆のやり方に愛想を尽かし始め、聡明な娘である政子が見初めた頼朝に肩入れする気になっていました。

ただ、山木兼隆にそれがバレては大変です。監査役ですから、直ぐに京に報告されてしまいます。そこで、時政は政子の策にわざとはめられたフリをしたのです。

5.旗揚げ

それからしばらく経った1180年、京の仁王(もちひとおう)から平氏追討の令旨が、発出されます。
この令旨により、頼朝は源氏再興のため立ちます。いや、立たざるを得なくなりました。

というのは、先にこの令旨を持って宇治で挙兵した源頼政を平家が鎮圧した例があり、殊に娘八重姫の恨みを頂く伊藤祐親等の豪族は、この令旨による頼朝の挙兵を予想し、難癖付けて早めに潰してしまおうと考えているのです。

なので、早急に旗揚げをします。頼朝の旗揚げは、山木判官兼隆を急襲することから始まります。たった80数騎によるゲリラ戦です。

襲撃の前に、頼朝は佐々木四兄弟を始め、取り巻きの若い衆を1人1人自分の部屋へ呼んで、膝を突き合わせて、旗揚げへの忠誠を確かめます。
⑧佐々木四兄弟の早川城付近の田園風景
(丹沢の大山と左にうっすら富士山が)

そして、計画日当日は、早朝に頼朝を含め、全員北条時政の守山城に集まり、ここから騎馬で山木判官屋敷を襲撃することとしていました。

ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が参集時間になっても現れません。

「すわっ、裏切られたか?」

と頼朝の中に不安が過ぎります。膝を突き合わせ、打ち明けた秘密を持って、平家側に寝返ったか?

しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも表に出せば、今、ここに参集している土肥実平、佐奈田与一等へも動揺を与え、旗揚げは失敗するでしょう。

「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」

頼朝は、今度の旗揚げに臨み、準備した小さな正観音像を手の中で握りしめます。

⑨山木判官屋敷襲撃経路
そして、現場での具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今朝の朝駆けは中止。夜まで待ち、夜襲に計画を変更します。

若手の中からは「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。

それから2時間後、息を切らしながら、佐々木兄弟が参陣を果たしました。

彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻り、昨晩中には帰参する予定だったのが、昨晩の風雨により河川の氾濫等で行く手を遮られ、遅参したと云います。(写真⑧)

頼朝は強く叱責するも、内心は「由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。

そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。

⑩山木判官屋敷の北側は平地が広がる
さて、その日の夜半、山木判官屋敷に夜襲を掛けます。(地図⑨)

その晩は三島明神の祭礼日であり、地図⑨の山木判官屋敷の前、北側に伸びる道路は人が溢れます。

そこで北条時政は「蛭が小島を通り、地図上右側の丘陵地(これは後北条早雲時代の韮山城と幕末の江川太郎左衛門の屋敷跡)の間道を通って、襲撃した方が人に見つからず良いのでは」と提言します。

頼朝は「自分も最初はそう考えた。しかし、旗揚げの草創にそのような小手先的なやり方はしたくない。また北側からでないと騎馬が使えないので、地図⑨のルートにすべし」と指示を出すことで、総大将的な風格を醸し出し、旗揚げの雰囲気は更に盛り上がるのです。(写真⑩)

佐々木兄弟は、遅参の負い目を感じたのか、この夜襲では素晴らしい働きをします。

兄弟の2番目、経高が放った矢が、平家打倒の最初の矢となりました。兄弟はまず山木兼隆の後見人を倒します。

山木兼隆本人は、三島明神の祭りで若干酩酊しており、頼朝の来襲と聞いて、「なんぞ配流人風情の頼朝ごときが!」と馬鹿にします。

彼は、この伊豆国に来てから、頼朝の廻りに若い者たちが屯(たむろ)し、なにやら色々と動いているのは察していましたが、所詮、何も分かっていない生意気盛りの若輩の集まり、何が出来ようモノぞ と考えていました。

⑪今は跡形もない山木判官屋敷
※屋敷入口の道路脇に何か居る?
例えるなら、理想ばかりの超ベンチャー企業が、平家という大企業組織に立ち向かってくる他愛の無い騒動くらいに捉えていました。

実際政子の事件の件も、「まあ、配流人風情の頼朝と喧嘩するのも大人げない」と自分を納得させ、その優越感だけで今まで来たのですから。

ところがその彼の前に現れたのは北条時政。

山木兼隆は驚きます。チンピラ若造風情が頼朝と軽卒に、今回の事件を起こしたのなら、彼の理解の範囲ですが、50歳の分別もあると一目置いていた時政が加担している?

「裏切られた!!」

政子の件でも平謝りに謝っていた時政にはめられた。「おのれー!」と飛びかかる兼隆を時政が振り払うと、佐々木兄弟が組みかかり、彼の素っ首落します。

無念顔の山木兼隆の首を見て、時政は更に覚悟を固めるのです。

⑫石橋山合戦概況
(Wikipediaから)
一方、時政の居城で、戦果を気にする頼朝は、襲撃成功の合図である火の手が上がるのを今か今かと待っておりましたが、明け方近くに2㎞離れた山の端に火の手があがるのを見て、この旗揚げが成功したことを知り、ほっと安堵の溜息を洩らします。

6.石橋山合戦 前

この頼朝旗揚げの報は、あっという間に坂東武者の間に広まります。殊に平家側の有力豪族である北条時政が支援しているということが、単なる一部の夢見がちな若手の神輿担ぎ騒ぎではない印象を与えて、どちらに与するか、相模の国を中心に大きな問題となって行きます。

齢89歳の三浦義明。勿論既に彼の弟、岡崎義実や、その息子の佐奈田与一らは、頼朝と行動を共にしているのですが、更に義明は援軍を組織し、頼朝軍と合流すべく、高齢を押して居城である衣笠城を後に西に向けて出発します。(図⑫)

一方、頼朝も三浦軍と合流すべく、東に向かって軍を進めます。
そこで、発生するのが冒頭の絵②の瞬間を迎える石橋山合戦なのです。

ちょっと長くなりましたので、合戦の詳細等は次回にしたいと思います。

7.おわりに

今回調査中に、特に考え始めたのは、北条時政、三浦義明等、どっしと落ち着いた分別のある熟年層の頼朝に対する気持ちです。

三浦義明は、この次の話でも出てきますが、齢89歳という当時ではとんでもない長寿を全うするにあたり、最期は三浦氏の出自である清和源氏嫡流に掛けてみたいという観念だったかも知れません。

⑬衣笠城址にて
しかし、時政はどうでしょうか?彼はまだ50歳です。また出自は平貞盛(将門の従兄弟、詳しくは拙著「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご笑覧ください)つまり、平家なのです。
そう、時政にとっては源氏再興の嫡流というのは出自上、あまり意味が無いのです。

頼朝は、伊豆での約20年間、読経三昧等、信仰熱心な見上げた行いもあるものの、八重姫や亀の前、政子等、女性の尻を追いかけまわしていた感もあり、何もないこの当時一地方では、直ぐに噂になるでしょう。

このような中で、どうして頼朝に賭けることが出来たのか?
私とほぼ同世代の時政が頼朝に賭ける時のシチュエーションを、匹夫である私に縮退して考えてみます(笑)。

私が勤める会社とかつての競合会社で、今は倒産してしまった老舗で同族経営をしていた元社長の御曹司が、20歳になる私の娘と結婚を前提に付き合っているようだ。歳は33歳。

娘と一緒に私に挨拶に来た時、「これから、親の敵討のつもりでベンチャーを立ち上げ、お義父さまのお勤めの会社とも戦っていく所存です。若い仲間も何人もおりますが、宜しければお義父さまも、この会社を大きくするのにご尽力願えませんか?」と云ってきた。

なかなかしっかりしているようだが、父親に似て、少々女性関係は甘いようだ。

さて、どうするか?

うーむ、自分がそのベンチャー企業に乗り換えるどころか、娘を嫁にもやれないかもしれない(笑)。

⑭石橋山古戦場から箱根外輪山の峰を臨む
ここで考慮されていない1つの要素には、当時伊豆という国は中央政権である京から遠いため、ドサクサに紛れて有耶無耶にすることが多少は出来たというリスクヘッジの考え方です。

政子の駆落ちについても、中央政権である六波羅では状況が判別しづらく、山木兼隆と北条時政両方に報告書を提出するように云ってきたため、時政は適当にあしらうことも出来たようです。

しかし、凡夫である私には、まだ理解できない「俺はあんたに賭ける!」と素面(しらふ)でも云えた何かが頼朝にはあったのでしょうね。

その辺りを意識しつつ、引き続き頼朝をレポートしていきたいと思います。

ご精読ありがとうございました!!

【蛭が小島】静岡県伊豆の国市四日町12
【山木判官兼隆屋敷】 静岡県伊豆の国市韮山山木820−5
【早川城跡】神奈川県綾瀬市早川3丁目-4-964    
【岡崎四郎義実の墓(證菩提寺)】神奈川県横浜市栄区上郷町1864
【衣笠城址】神奈川県横須賀市小矢部4丁目922

日本三悪人② ~失意の道鏡~

①道鏡終焉の地 下野の国の風景
(龍興寺からの景色)
日本三悪人として、前回は平将門(まさかど)をご紹介しました。(ご笑覧頂ける方はこちらをクリック

将門は悪人ではないという事を書きましたが、もう1人の悪人とされる道鏡(どうきょう)についてはどうでしょうか?

ということで、今回は、将門から約200年遡る、8世紀中頃、奈良時代における道鏡の栄枯盛衰についてお話したいと思います。(写真①)

1.孝謙(こうけん)天皇

奈良時代等、いにしえの日本では、女性の天皇は頻出します。有名なのは推古天皇。聖徳太子を摂政につけた女帝ですね。今迄全部で7人の女帝がいらっしゃるようですが、最後から2番目(と言っても1300年近くも昔ですが)、それが孝謙天皇です。(絵②)

以後850年間もの間(次は最後で江戸時代)女帝はいません。

父は、あの東大寺の大仏建造に深く関与した聖武天皇。息子が居なかったのですね。後を継いだ女帝は、色々な権力闘争に藤原仲麻呂(後に恵美押勝(えみおしかつ))と組んで、これを抑えます。そのお蔭で藤原仲麻呂は、どんどん権力を持つようになります。
②孝謙天皇

ところが、この藤原仲麻呂にとって大きな政敵が現れます。それが今回の主人公、道鏡です。

2.道鏡

孝謙天皇は、母である光明皇太后が病気となってしまったため、淳仁天皇に譲位し、自分は上皇に退位しました。

しかし、これも良くある話ですが、この孝謙上皇、陰の権力者として影響力を保持しようとします。いや、するのです。

当然、時の淳仁天皇とぶつかります。(図③)

この時、恵美押勝の名を淳仁天皇から拝命した藤原仲麻呂は、既に天皇の片腕として権勢を振るっていますが、彼の対抗者として孝謙天皇が用意したのが道鏡です。

道鏡は、孝謙上皇が、病に伏せった時に、献身的に看病した高僧で、この時以来、孝謙上皇から寵愛されるようになりました。(絵④)

一部の俗物的な説では、「道鏡は、座ると膝が三つでき。」の歌に代表されるように、凄く大きかったので気に入られたとか(笑)。

江戸時代にはそのような説はわんさか出てきているようですし、かなり危ない浮世絵等もあるようですが、ちょっと悪乗りし過ぎの感もあります。
③孝謙派と淳仁派の対立構図

兎に角、図③の政治的な対立構造は、このような経緯で出来上がりました。

3.恵美押勝の乱

一発触発の導火線に火を付けたのが、恵美押勝の乱です。そうです。藤原仲麻呂こと恵美押勝は、新興勢力である道鏡の台頭によって、少々焦りを感じたのでしょう。軍事力を持って政権奪取を図ろうとしたのです。

764年、恵美押勝は、都の兵役を司る役職を天皇から与えられました。
軍事力が手に入ると、図③の均衡を打ち破りたくなる欲望が鎌首を持ち上げます。

早速、彼はこの役職を使い、作戦を開始します。

まず、20名の兵士を平城京に集めて軍事演習をする恒例行事があるのですが、この時は、この数を大幅に上回る600人を集めます。

そして、この兵力でクーデターを起しました。
将門の時もそうでしたが、この時も権力の象徴である印鑑の争奪戦が始まったのです。

太政官印(行政執行関連)鈴印(軍事発動関係)等、皇権に必要な印を奪取します。

④道鏡
ところが、孝謙上皇も負けていません。

まず、淳仁天皇を軟禁します。そして孝謙上皇は改名して称徳天皇と、天皇に復権します。つまり、淳仁天皇の実権を剥奪するのです。
(※孝謙上皇は、この時点で称徳天皇と改名しましたが、紛らわしいので、孝謙天皇で話は続けます。)

そして、次にスパイ大作戦宜しく、印鑑奪取にスパイを送り込み、鈴印を取り戻すことに成功します。
取り返すと即、恵美押勝討伐の軍事権発動をします。

恵美押勝は慌てます。後ろ盾の淳仁天皇も居なければ、軍事権も無いので、朝敵にされてしまうのです。

彼も再度鈴印を奪おうと、スパイを孝謙天皇の元に送り込みますが、そんな事は予測済みの孝謙天皇側は、2度もスパイを弓で射て殺し、水も漏らさぬ鉄壁の構え。

恵美押勝側は、平城京から逃げ出し、途中、残りの印鑑である太政官印で、盛んに各地に号令を出しますが、孝謙天皇は、諸国に太政官印のある文書を信用しないように通達し、かつ恵美押勝を討ち取った者に厚い恩賞を約束するのです。

孝謙天皇側の軍は、ついに琵琶湖周辺の城に立て籠もる恵美押勝軍を破り、湖上に逃げようとした恵美押勝を斬捨てます。

あっという間に、恵美押勝を破滅に追いやった孝謙天皇、あまりの鮮やかさに、この乱は恵美押勝が仕掛けたように見えますが、実は道鏡の入知恵で孝謙天皇が裏仕掛けをしていたのではないかとの説もあります。

⑤藤原恵美押勝(仲麻呂)
道鏡の絵(絵④)と恵美押勝(絵⑤)を比較してみてください。後世の人が書いたものですから、根拠にならないかもしれませんが、やはり恵美押勝の方がやられちゃう感じのする顔つきをしていませんか?

4.宇佐八幡宮事件

さて、孝謙天皇からの寵愛を受け、恵美押勝の乱により政敵も駆逐した道鏡は、2年後の766年、僧としての最高位である法王に就いています。

この法王、実は今まで皇族しかなったことが無く、道鏡のような一般人から成るのは初めてのことでした。

この道鏡の破竹の勢いに、宮中は、道鏡の躍進が、まだ続くことを予感していました。

2年後の768年、豊前国(大分県)にある宇佐八幡から「道鏡を天皇に!」との神託が伝えられます。(写真⑥)

孝謙天皇は大喜び。しかし、道鏡は顔色一つ変えず、いつもの精力的な形相をしつつも、慇懃な態度で、神託を拝聴しています。

しかし、宮中は、先に述べたように、これはまたしても裏で手を引く道鏡の謀略ではないかと皆疑っているのです。

先に述べた道鏡が恵美押勝の乱の裏首謀者という噂以外にも、乱の時軟禁した淳仁天皇は、解放するもその後変死、道鏡のライバルらの位階剥奪と、道鏡が出世するために邪魔となる要素は全て排除されており、宮中は数々の道鏡陰謀説で持ち切りでした。

また、この神託を持って来たのは、道鏡の弟なのです。怪しすぎます(笑)。

「その神託、ちょっと待った!」と宮中の誰かが叫び出そうとします。
と、その瞬間、道鏡がすかさず孝謙天皇の前に進み出て、提言します。

⑥宇佐八幡宮(大分県)
「恐れながら、この神託には不可思議に思われる点もございます。調査のために宇佐八幡へ人を遣わしては如何でしょうか?」

宮中ざわつきます。一番怪しいと思う本人が調査せいとはどういうことか?

一瞬喜んだ孝謙天皇も、これには驚いた顔をしましたが、直ぐに冷静に

「それでは、和気広虫(ひろむし)に調べさせましょう。」

和気広虫は、孝謙天皇が道鏡の次にお気に入りの女官で、30年も孝謙天皇に仕え、また孤児院を開設するほどの人格者でした。

しかし、広虫は高齢であり、体調不良を理由に遠国大分県までの調査を弟の清麻呂にさせたいと孝謙天皇に願い出て、受け入れられます。

さて、調査から帰ってきた和気清麻呂は言います。

「ご神託は、天皇は皇族が継いでいくもの。一般人の道鏡は、早々に除くがよかろうということでした。」

⑦和気清麻呂像
※竹橋駅の改築工事のため
像も工事中です。
和気清麻呂は、この報告をしたことの実績を皇室に高く評価され、現在、皇居前に銅像として建てられているのです。(写真⑦)

これを聞いて孝謙天皇は激怒します。和気清麻呂は鳥取県に左遷。更に実は清麻呂の調査結果が虚言だと分かると、更に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と悪名に改名させ、調査に行った大分県よりも更に遠い、鹿児島県へ左遷し直します。

5.失意の道鏡

どうやら、この問題、道鏡側、反道鏡側の偽証合戦だったようで、疑心暗鬼になった孝謙天皇は、後継者は自分が決めると言い出します。

つまり、この時まだ孝謙天皇は、道鏡に天皇を譲るつもりがあったのかも知れません。
道鏡もその野望を諦めていませんでした。

ところが、この事件の2年後の770年に孝謙天皇は体調を崩し、平城京で亡くなるのです。
この時、急な容体悪化だったせいで、道鏡も宮中人も居ない寂しい最期でした。52歳です。

残念なことに、最期まで孝謙天皇の口から、「後継者は道鏡に・・・」という言葉が出てくることはありませんでした。

孝謙天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は、急転直下。当時の政敵らが推して皇位に就いた光仁天皇により下野(しもつけ)(栃木)へ左遷させられます。(写真⑧、写真①も参照)

彼が左遷された下野の龍興寺は、日本三戒壇とされる、仏教布教の当時にあっては、官製の立派な寺ではありました。但し、彼は別当という、まあ今の会社で言う処の相談役みたいな役職で、寺院経営を担う役割でもありません。

⑧龍興寺(栃木県)
しかし彼は従容として、この下野行きを受け入れます。

相当な失意だったと思います。それが原因かどうかは分かりませんが、彼はそれからたった2年後の772年に、この下野の国で亡くなるのです。(写真⑨)享年72歳でした。

埋葬についても、当時の貴人としての扱いではなく、一般人として扱われたようです。

6.おわりに

さて、どうして道鏡は、神託について自分から「調査させましょう」と言ったのでしょうか?

これも諸説ありますが、一番有力なのは、和気清麻呂を、昇進をエサに懐柔する見込みだったのが失敗したというものです。

しかし、そうだとすると、これだけの陰謀術策をクリアーしている道鏡にしては脇が甘すぎると感じませんか?

そこで、これはあくまで一部の説なのですが、この神託の件については、孝謙天皇も一枚加わっているというものがあります。

つまり道鏡と孝謙天皇で一芝居して見せ、調査のための指名は、和気広虫にと事前に示し合せていたのです。

⑨道鏡の墓(龍興寺境内)
その話を事前に聞かされていた広虫は、先に述べた通り、孤児院を開く等、誠実な人柄であったことから悩みます。ただ、30年お世話をしてきた孝謙天皇を裏切るのも心痛みます。

彼女は考え抜いた挙句、弟の清麻呂に背景を教えずに任せるのです。

これは、孝謙天皇や道鏡の計算外でした。更に広虫は孝謙天皇に弟を調査させたいとの奏上の中で、「清麻呂には私から良く言ってあります。」と。

なので、道鏡も懐柔はするものの、深くはしなくて大丈夫と思ったのでしょう。

和気清麻呂も、恵美押勝の乱では、藤原恵美押勝の強引な政治手法に反発し、早くから孝謙天皇側についた一人でした。ところが、流石に道鏡の強引さにも嫌気がさしていたようです。

それで、偽証に対して、偽証で返すのです。

道鏡亡き後、彼は政界復帰を果たし、朝廷に重用され、平安京遷都等でも活躍します。

しかし、度胸ありますね。道鏡の陰謀で殺されるかもしれないのに。
皇室もその勇気を褒めたたえ、銅像を建てたのでしょう。

孝謙天皇が絡んでいるのではないかというこの説は、道鏡の罪が下野への左遷だけでは軽すぎるということが根拠になっています。

しかし、和気清麻呂も偽証で返しています。更には孝謙天皇の後継として光仁天皇を立てる時も、道鏡の政敵が「孝謙天皇の遺言として」と、これまた偽証で進めたとの説があります。

偽証を偽証で塗り固める嘘だらけ(笑)。
今の政治のはしりがここにあり、学ぶべきことは多いような気がします。

また、上皇と天皇の大掛かりな確執の事例が、この時から始まったことを考えると、やはり最近の「退位」をめぐる特例法案も、これらの過去の事例等を、専門家だけでなく、私たちも良く認識の上、進めなければいけないと思いませんか?

⑩龍興寺境内のシラカシ
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

最後に、従容として、この下野行きを受け入れた道鏡についてです。

彼の下向は失意に満ちていたと考えられますが、きっと元法王のプライドとして、少しも表に出さなかったことでしょう。

このように強い道鏡のイメージには相変わらず、容赦なく下ネタ的なエピソードが付けられているのです。特に日光の「金精峠」という有名な峠の名前は、道鏡が下向の途中、この峠を通る時、あんまり重いので切り捨てたことが由来となっています。

そんな伝説があると聞くだけで、日本三悪人の1人とされている道鏡も、後世の日本人はそれ程悪人という感覚で捉えていないような気がします。

道鏡が、騙し合いの政争から離れ、孝謙天皇への供養を、この龍興寺でじっくり出来たことが、彼の生涯の一番の宝となったことでしょう。

そして心安らかに、この下野の国で眠られたのだろうと、境内のシラカシの木を見て想いました。(写真⑩)

ご精読ありがとうございました。

【和気清麻呂像】東京都千代田区大手町1丁目4清麻呂公園内
【龍興寺】栃木県下野市薬師寺1416

土曜日

日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~

「日本三悪人」ってご存知ですか?

①将門を祀る神田明神の神田祭
明治から戦前に掛けての皇国史観、日本史上、皇国を脅かしたとされる人物として3人の名前が挙がっています。時代順に

道鏡(どうきょう)
平将門(たいらの まさかど)
足利尊氏(あしかが たかうじ)

3番目の足利尊氏は、既に「首洗井戸② ~土牢~」等にて、護良親王等に対する無情な仕打ちを書きましたので、今回は道鏡と平将門の2人について取り上げたいと思います。

時代が前後してしまいますが、ちょうど今週、平将門と関係の深い、神田祭がありました。まず将門から先に取り上げたいと思います。(写真①)

1.京での将門


②平貞盛(将門の従兄弟であるがライバル)
平将門は桓武天皇から5代目にあたる桓武平氏の武将です。

時代は平安時代中期の10世紀初頭、まだ武士が出はじめの頃です。

武士(さむらい)は元々、はべり(侍り)・さぶらう(侍う)の意味で、当時の平安貴族の前でかしこまって控える、つまりボディーガードで、その地位は低いものでした。

ただ、このボディガード集団は、この頃から、平家・源氏という系統を形作っていたようです。

しかし、平家は厳島神社に代表されるように、日本の西海の武士、それに対抗する騎馬を使う陸の武士は源氏、坂東武者みたいな感覚は、もう少し後の時代になってから形成されるようです。

この将門らの基盤は、関東にありました。板東武者たちは平家も多かったのですかね。将門は下総国佐倉(今の千葉県佐倉市)を領有する武士でしたし、彼の終生のライバルだった従兄弟の平貞盛(さだもり)もこの坂東でした。(絵②)

ちなみに貞盛の7代後が、あの平清盛です。

先に述べた通り、将門も地位は低く、衛士(えじ)という天皇のボディガードを拝命していたに過ぎません。当時は軍事警察を所掌する検非違使が武士の出世の目安とされていましたが、及びませんでした。

彼は15歳で、これらの役職の獲得のため、関東から京へ出てきました。

貴族への貢ぎ物をしたり、京風の雅に合わせて和歌を詠む真似等して見せたりして、少しでも高位を狙う所作に、大変な窮屈を感じたのです。
③京の街に出没する餓鬼
※デフォルメされていますが餓鬼は当時栄養状態
良くない浮浪者がモデルと言われています

一方、従兄弟の貞盛は、不器用な将門を尻目に、要領良く朝廷に気に入られます。

この頃、京も御所の周りを一歩出れば、飢饉と疫病で苦しんでいる浮浪者だらけでした。(絵③)

教養と雅、貢ぎ物の要領の良さを身に付けなければ出世できない中央政権に対し、雅とは程遠い都の荒れ様に、将門も何か納得の行かないものを感じます。

この強い閉塞感を感じていた18歳頃の多感な若者である将門が、朧気ながら持った構想が、この後の彼の人生、いや日本史に大きな影響を与えていくのです。

2.新皇を称す将門

この後、中央の出世競走に虚しさを覚えた将門は、関東に戻ります。

ところが、自分の伯父である平国香(くにか:平貞盛の父)や良兼(よしかね)等の板東平家一族の内紛に巻き込まれていきます。領有地継承問題、有力豪族の源護(みなもとのまもる)の娘問題等、様々かつ複雑な内紛の中で、将門は頭角をメキメキと現し、関東平野を所狭しと走り回るのです。

④印綬
彼は坂東の自領で豊富に手に入る馬を使い、騎馬団を組んで戦った最初の武士です。また馬上からの斬りつけに便利なように、真っ直ぐだった刀を反りのあるものに変え、その後の反りのある日本刀の原型を考案しました。そして騎馬団とのセットで機動力のある最強の軍団を形成します。

これらの内紛を勝ち抜いた将門に対し、特に父国香を焼死させられた平貞盛は、朝廷への強力なコネを使い、朝廷に将門謀反の心ありと入れ込むのです。

将門が内紛で勝利すると、更に関東一帯の民から、現場を知らない京の中央政府から下ってきた国守に鉄槌を下してくれるヒーローとして持ち上げられます。

常陸(茨城)、下野(栃木)、上野(群馬)の国の印綬(朝廷から拝領している国としての決裁印と組紐:写真④)を国守から奪い、国府から追放します。

このように勢いに乗った将門は、若き18歳の頃、京で朧気ながら持った構想を形にしてみようと決心します。
⑤大ムカデ退治をする藤原秀郷

940年1月、彼は自分を「新皇」と名乗り、中央政権から関東を離脱させ、下総(茨城県坂東市)に本拠を構えます。

3.敗北

平貞盛からの将門謀反の報は、西国の藤原純友の乱の報告と同時に朝廷へ伝わってきました。東西2か所での反乱との認識の元、驚愕した朝廷は、即乱鎮圧のための祈祷がなされ、勅旨が発出されます。940年の1月終りのことです。

一方、将門は、同年1月中旬、朝廷とパイプを持つ貞盛を成敗するために兵5000を率いて、常陸国へ出陣します。しかし、貞盛は見つからず、将門は虚しく下総の本拠に帰り、兵をそれぞれの地元に戻してしまいます。

⑥新橋駅前にある烏森神社
※鳥居や社の形が独特です
そこに、貞盛が下野国の藤原秀郷(ひでさと)と協力して将門打倒のための兵4000を集めているとの報告が将門に入ります。藤原秀郷は、京で大ムカデを退治したことで有名な豪傑です。(絵⑤)
このような豪傑に加え、将門朝敵との噂により、集まってきた兵力は増大する気配を見せていました。

兵を戻したので、手元には1000人以下しか残っていませんでしたが、将門は、この段階で貞盛を叩いておかないと、どんどん不利になると考え、2月1日に出撃しました。

最初こそ、将門が陣頭に立って奮戦したため、貞盛・秀郷軍は押されましたが、貞盛らは官軍です。段々と貞盛・秀郷軍が将門軍を押しはじめ、将門軍は退却に追い込まれます。

詳細は省きますが、日が経つにつれ、貞盛・秀郷軍に徐々に追い込まれた将門軍は、2月14日、僅か400の寡兵で、貞盛軍3200と、下総の本拠近くで最後の合戦をします。

当初、将門軍側から貞盛・秀郷軍に、強風が吹いていたので、この風に乗せて、将門軍は矢を大量に射掛けます。これにより、貞盛・秀郷軍は壊乱。一部の部隊が奇襲を将門軍に仕掛けますが、将門得意の騎馬団と反りのある刀を使い、これを撃退。結局、貞盛・秀郷軍は、300の兵を残して逃げ出す惨状となりました。

ところが不思議な事に、今度は風が逆に貞盛・秀郷軍から将門軍へ強く吹くという天候の変化がありました。
⑦白羽の矢が額に刺さる将門

そこで貞盛・秀郷軍、将門軍へ矢を降らせます。この時、かの大ムカデ退治の英雄、藤原秀郷が烏森神社(現在新橋駅の烏森口にあります)の白狐から頂いた白羽の矢を射たところ、みごと将門の額に命中。(写真⑥、絵⑦※流れ矢が刺さったとの説もあります。)

将門軍は崩壊します。次々と貞盛・秀郷軍に討ち取られます。

絶命した将門は38歳。彼の遺体は、死者が蘇ることを怖れる当時の風習で、バラバラにされ、胴は合戦場近くの「神田山」(茨城県坂東市神田山)に埋葬されるのです。(写真⑧)

⑧神田山にある将門の胴塚
ちなみに「神田山」は、将門の「体(カラダ)」を埋めたことから「体(カラダ)山」が転訛して「神田(カンダ)山」となったということです。(※今はカドヤマと呼びます。将門のカドに掛けているとの説もあります。)

そして、彼の首は京の平安京へ持って行かれ、獄門に晒されます。

4.将門の首

獄門晒し首は、彼が史料に残る最初の人物だったと言います。
ここからは、殆ど超常現象の感がありますが、伝説も含め、ご紹介させてください。

京で晒された彼の首は、まるまる3か月間も目をくわっと開けたまま、腐りもせず、まるで生きているような状態であったとされます。(写真⑨)

そして、夜な夜な「俺のカラダ(胴体)を返せ、そしてもう一戦やろうぞ!」と、悔しそうに呻いたと言われています。

ところが、3か月経ったある晩、将門の首は忽然と獄門から消えます。

⑨獄門に掛けられた将門の首
京の人々は、首は宙を舞って、自分の胴体を探して、坂東に向かって飛んで行ったのだろうと噂し合ったそうです。

これまた未確認飛行物体のようですが、途中名古屋上空を飛行しているのを矢で射落し、首塚としたとの伝説やら、日本全国あちこちで目撃及び撃墜情報が伝説化しております。

そして、彼の胴がある茨城県坂東市までは飛ばず、途中、今の江戸城辺り、平川(現在の神田川)の河岸、現在の将門塚(千代田区大手町)に落下したとの説も。(写真⑩)

しかし、どうやら、真相は当時の平川村の住人が、夜陰に紛れて、平安京の獄門から持ち帰り、将門塚の場所に、盛り土を築き、お祓いをし、明神としました。

盛り土をしたので、そこに築土大明神と名付け、神社を作りました。
この築土神社、現在も九段下駅のすぐ近くにあります。(写真⑪)

しかも、なんと近年までこの神社のご神体が、将門の首を入れて来た首桶だったのです。(写真⑫)

⑩大手町にある将門塚(首塚)
この首桶には「上平川」や「平河村」「江戸」等の文字が見えますので、やはり将門の首を持って来たことに平川村が関与していた可能性は高いことが分かります。

ちなみに、この首塚の辺りは、茨城県坂東市の神田山と同じように神田山と名付けられました。獄門であれだけ自分の体を欲しがっていた将門の霊に配慮し、その場所に彼の体の一部を持って来たのか、はたまた将門の首が座る場所が胴(カラダ)なのだよと将門の霊を説得するために作ったのかは分かりませんが、「体(カラダ)山」が転訛して「神田(カンダ)山」になったことは確かなようです。

ちなみに、この神田山は、江戸幕府を開いた時に、海が深く江戸城近くまで入り込んでいた日比谷の入江を埋め立てるのに切り崩しました。なので山では無くなり、神田(カンダ)という土地になったとのことです。(地図⑬)
⑪九段下駅にある築土神社

更に平川は、この土地が神田と呼ばれるようになって以降、神田川となります。(ただ、土地名として「平川門」とか「平河町」とか名前はまだ残っていますね。)

5.将門の霊の扱い

さて、それから約300年位は、将門の首塚はほぼ忘れ去られるのですが、14世紀に入ると、この将門の首塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、疫病が流行ります。

将門の祟りと恐れた民衆を静めるために原因追求に現れた偉い坊さんが、この首塚に作った築土神社が何故か今の九段下駅の場所に移転していることであると解明します。(地図⑬参照)

⑫将門の首桶
※上平川や平河村、江戸等の文字が読め
そこで改めて、1309年に鎮魂のために作った神社が写真①の神田明神です。(現在、神田明神は、この首塚から若干北東にありますが、江戸時代に移設されました。後で詳細は述べます。)

そして、この将門塚(当時は神田明神)を鬼門に据え、守り神として築城されたのが太田道灌の作った江戸城であり、太田道灌だけでなく、後にこの江戸城の主となった北条氏綱も、同様に大事にします。

※氏綱が江戸城奪取した経緯は、拙著ブログ「北条五代記① ~高縄原の戦い~」をご笑覧ください。

更に、ここに幕府を開いた家康は、関ヶ原の戦いに行く前の戦勝祈願として、神田明神に詣でます。その結果の大勝利として、神田明神は「江戸総鎮守」の地位を築くのです。

また、家康亡き後、家康を「大明神」にすべきか、「大権現」かの議論にも将門は影響を与えました。この江戸城鬼門に居座る将門に気を使い、結果、家康を「大権現」とした経緯が見られます。関東一円では、「大明神」は将門のニュアンスが大きかったらしく、家康の方が、将門に「大明神」を譲った格好になったようです。
⑬将門(首)塚からの各神社遷座

このように江戸時代に英雄視が進んだ将門は、家光が「将門は朝敵にあらず」の奏上で一時は朝敵扱いから外されたものの、明治維新となり、天皇を江戸城に迎え入れるとなると、朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われました。

そして1874年に、神田明神の祭神から外されてしまいます。
冒頭の日本三悪人の1人と称されるのも、この頃です。

ところが第2次世界大戦後、また将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年、再度、神田明神に合祀されたのです。

⑭ビルの谷間にある将門塚
将門塚(写真⑩⑭)は、これを動かそうとすると、色々な祟りに合うという都市伝説(?)は山程あります。近代、大蔵省を建てるために移設しようとした時の関係者の次々の病死、戦後のGHQによる駐車場設置に伴う移設時の変死・病死、大手町のビルの窓は塚を見下ろさない、管理者の席は塚に背を向けないように作る 等等・・・

真偽の程は分かりませんが、小話でも、これらの怨霊説等はご紹介したいと思います。

ただ、怨霊説が出てくるというのは、将門の霊が不満だということではないでしょうか。つまり、彼がしたいことへの理解がなされていないということかも知れません。

6.将門がしたかったこと

では、将門は何がしたかったのでしょう。

将門が「新皇」と名乗って、朝廷との敵対関係になった乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平・天慶の乱」と呼ばれます。

一般的な見方は、将門は純友と共に、「朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新しい国家対抗勢力を形成したかった」と捉えられています。そして東国の覇者として将門は「新皇」を名乗るのです。

これが誤解です。不平分子が起こす「乱」とは違い、既存政権の破壊が目的ではなく、既存政権に、更に建設的なものを付け足したかったのです。

彼は、若い頃京で感じたのは、当時の官位授与は、国政を良くすることへの努力や実績等で判断されることは少なく、授与される側の血縁や見込みだけで判断され易いということです。

その結果、絵③のように、街は餓鬼で溢れ、死体は犬が喰い、惨憺たるものです。

だれがそれらの民のケアをしているのか?

そして彼は関東に帰ってきます。そこで武士や農民から「将門さまは、私たちの生活を守ってくれる。将門さまに付いていけば間違いない。」と中央の役職には関係なく、皆付いてきてくれたのです。

⑮江戸(東京)の人々に人気の高い神田明神
俺が民のケアをする!この国で!
これが将門がしたかったことです。

勿論建前上、朝廷の任命する役職には民のケア出来る役職は沢山あります。しかし、その役職者も朝廷に取り入ることしか関心は無く、その役職が中央政権のために機能することはあっても、民をケアすることには役に立たないのです。

将門は朝廷の任命する役職に自分のしたいことが見当たりません。そこで「新皇」という役職外を名乗ったら、「朝廷に対立する気だ!」と誤解されてしまったのです。彼からすれば、「新皇」と名乗った後に、朝廷からその役を事後承認してもらうつもりだったかも知れません。

状況証拠は色々あります。関東一円の国守の指名では、朝廷のやり方を踏襲する等、朝廷に対する配慮が見られるのです。

なんだ、では200年後の源頼朝みたいに征夷大将軍を貰い、幕府を開けば良いではないか。と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

確かに「新皇」は呼称センスが悪すぎます。しかし、武士の棟梁であることを宣言する征夷大将軍という役職は、将門の時代は、土地の農民等を支配する個々の武士団さえ押さえておけば、この国の民のケアが出来ていることになる、と言ったシステムが頼朝の頃程整っておらず、将門がしたいことが実現できる役職ではないのです。

将門の発想は、斬新でしたが、時期尚早だったのかも知れません。
⑯三悪人中二悪人は守った像が皇居周辺
にある。将門から守った人の像は無い

実は、この将門の野望について、一番理解していたのは、徳川家だったのでしょう。なので、将門を朝敵と見る朝廷に対して「朝敵ではない」と弁明している上、かつ幕府が将門の理解者であることを示すために、将門を祀った神田明神の位置を、将門塚から、江戸城の鬼門(北東)である現在の神田明神の位置に移設することで、彼を江戸城の守り神としているのです。(地図⑬参照)

また、やはり彼の江戸における人気は絶大で、写真①や⑮に見られる神田祭も盛んです。

江戸城に移ってきた皇族も、将門がそれ程の悪人とは思ってなかったのかも知れません。

なぜなら、日本三悪人の中の2人(道鏡と足利尊氏)に対し、皇族を守ったとされる人物は写真⑯に見られるように銅像が皇居周辺にありますが、将門に関して貞盛や秀郷等の銅像は無いのです。

6.終わりに

⑰1971年のベストセラー
「日本人とユダヤ人」
神田明神移設時にも首塚は動かなかったことや、近代の怨霊説からすると将門の霊は、今の将門塚の場所にこだわりを持っているように見えます。

また、私は、将門の首がカラダを探しに関東に飛んで戻ったとの伝説を聞いた時、ではどうしてカラダのある下総まで戻らないの?って不思議に思いました。

もしかしたら、霊だけに、何百年、何千年もの先まで見通した時に、この江戸に、理想的な朝廷と幕府の二権分立となる江戸幕府が600年後に出来、それはその後も世界的な大都市にまで発展すると見越して、将門の霊は自分のカラダのある下総を捨てででも、この場所を選んだということかも知れません。

半世紀近く前のベストセラーに「日本人とユダヤ人」という良書があり、その中で筆者のイザヤ・ペンダサンは「形式的に三権分立をやろうとしても、上手く機能しない。その前に二権分立が必要で、これを過去、自然にできた日本人は天才である。だれが発想したものなのか?」というような主旨の事を書かれていました。(写真⑰)

この二権分立とは、まさにこの朝廷と幕府のことであり、最初に成立させたのは鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

しかし最初に発想し、トライ&エラーをしたのは、平将門なのではないでしょうか?頼朝と違い、将門存命中はエラーで終わりましたが、二権分立へのこだわりは、霊となった後もつよく思念として残り、それが将門塚の怨念として残っているのかもしれません。

そして、彼の霊は、現在も、日本の昔ながらの二権分立に向けて準備をしているのでは・・・?
⑱神田祭りの御神輿

最近の「退位」をめぐる特例法案の決定等を見ていると、そんな風に妄想もします。

この国の民の事を考えてくれた将門のことですから、良い方向に持って行ってくれるのでしょう。

神田祭りを見ている最中、そんな事を考えていました。(写真⑱)

今回も、長文のご精読、誠にありがとうございました。

【神田明神】東京都千代田区外神田2−16−2
【築土神社】東京都千代田区九段北1丁目14−21
【烏森神社】東京都港区新橋2−15−5
【将門胴塚】茨城県坂東市神田山715
【将門塚(首塚)】東京都千代田区大手町1丁目1−2−1