マイナー・史跡巡り: 幕末の日露交渉③ ~外伝~

日曜日

幕末の日露交渉③ ~外伝~

戸田造船郷土資料博物館前庭にあるディアナ号の錨
前回までのブログに描きましたとおり、幕末の日露関係は、条約交渉中に発生した大津波という大被害を、日露両国で助け合い、乗り越えることで、相当に深まりました。(記事はこちら

今回は日露和親条約の交渉が無事完了し、沈んでしまったロシアのフリゲート艦ディアナ号の代替え船として建造したヘダ号でロシアに帰国したプチャーチンらについて、外伝として描きたいと思います。

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1.その後のプチャーチン

結局、プチャーチンは、その後2度日露追加条約(1857年)日露通商条約調印(1858年)のために来日しています。
日露和親条約原文

つまり、前回ブログの川路聖謨が思うように、訪日最後ではなかったのですね。

シリーズ①にも描きましたが、最初からロシアは通商条約を強く希求していました。

逆に日本は、国力に歴然とした差がある現状では、なるべく欧米諸国とは条約を締結したくない訳ですから、先に締結した日米和親条約を例に出して「米国とも通商条約は結んでいないのだから、当然ロシアとも結ばない」と突っぱねる訳です。

ところがその後、米国が日米修好通商条約を要求し、これを1858年に締結すると、すわとばかりに日露通商条約も締結するのです。

ですので彼は、ヘダ号で帰国しちゃいましたが、実は川路聖謨が思っていたように、もう2度と来日しないというつもりはサラサラなく、まだ何度か訪日しようと思っていたのでしょう。

明治政府は、1881年(明治14年)にプチャーチンに勲一等旭日章を贈っていますが、幕末に条約交渉で来日した外国人に対しての唯一の授章です。
プチャーチン紋章

これは、このシリーズ①②で詳細に述べて来たような、安政東海地震による災難を乗り越え、条約締結を完遂したことや、ヘダ号建造が日本の洋式船の先駆けになったこと等、日本とロシアの真の和親に尽力したことを評価したものです。

一方、ロシアでは、プチャーチンは伯爵の称号を与えられ、その階級になったことを記念して、紋章を新たに作成しました。(右絵)

この紋章、右側の人物は少々変わった身なりをしていますが、二本差しの侍だということが分かりますでしょうか?

自分の紋章に日本の武士を入れていることからも、プチャーチンの日本に対する想いが良く分かります。

彼は勲一等旭日章授章から2年後の1883年、79歳で亡くなります。プチャーチンの娘が明治時期に、また最近では平成4年にご子孫が戸田を訪問し、プチャーチンの遺志である日露友好を継続しているのです。

2.その後のヘダ号
ヘダ号到着の地 ニコラエフスク

ヘダ号についてですが、プチャーチンを載せて、太平洋側から津軽海峡を通過し、右図にありますように、国境と想定される樺太に近い黒竜江を遡り、ニコラエフスクというロシアの町まで航海します。

日本初の本格的な洋船は、流石、数千キロもある北方までちゃんと航海できたのですね。

そして、翌1856年、プチャーチンと日本で行動を共にした部下ポシェットが、押印(サイン)された条約交換(批准)ということで、ロシア軍艦のオリヴィッツ号で下田に入港してきました。
そこに同伴したロシア艦隊の中に、あの「ヘダ号」の姿がありました。

日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、すっかり洋式の内装に改装した「ヘダ号」を曳航・返還してきたのでした。かなり上等な改装がなされていたとのことです。

その後、ヘダ号の詳細な経緯は分かりませんが、幕府海軍の航海練習船として長崎海軍伝習所で使われていたり、一説には1869年の榎本武揚五稜郭に立て籠もる箱館戦争に使われたとの説もあります。
伝習船として活躍したヘダ号(イメージ)

1872年、函館港で廃船になっている「ヘダ号」を、また来日してきたポシェットが見つけ、これを懐かしみます。
そして、明治政府に保存措置を取るように要望するのですが、同船は保存されること無く、その後の消息は不明となっています。

現在、このヘダ号を復刻しようという活動もあるようです。(関連記事はこちら

3.唐人の根(ディアナ号の残したもの①)

富士市の田子の浦の沖合には、漁師が網を仕掛けると、必ず海底の「何か」に引掛り、網を破いてしまう箇所がありました。

そこを「唐人の根」と呼び、割と最近まで漁民泣かせの話として有名でした。

昭和29年 浜に引き揚げられた錨
そこで、まず1954年(昭和29年)に、漁業協同組合らを中心に、この「根」の引き揚げ作業を行ったようです。最初は流木か岩石くらいに思っていたのですが、海に潜って引き揚げのための仕掛けを施した時には、大きなコンクリートのパイプだなと関係者で話していたようです。

さて、浜に引き上げられてきたブツを見て、関係者は驚きます。どでかい錨なのでした。(写真右)

その後の調査で、これはディアナ号の錨の1基だと分かったのです。

この錨は、このブログの冒頭の写真のように、記念の錨として造船郷土資料博物館の前庭に安置されています。

さて、これで「唐人の根」の厄介も無くなったと思いきや、まだたまに引っかかることがあります。
昭和51年 クレーンで引き揚げられたディアナ号の錨

「さては、ディアナ号のもう1基の錨の仕業だな」

ということで1976年(昭和51年)にもう1基も引き揚げられました。今度はクレーン船を使っての引き揚げです。(写真右)

24mもの鎖も付いていたことから、引き上げにはかなり苦労したようです。
こちらの錨は、現在富士市の三四軒屋緑道公園に設置されているようです。

大きいですよね。これだけ大きなディアナ号の構造物が見つかると、ディアナ号自体の捜索をしたくなりますね。実は過去2011年にTBSの番組でこのディアナ号の探索プロジェクトを進めたことがあるようで、沈没船らしき物体が海底で見えたとか見えないとか。(関連記事

興味ありますね。木造船でしたから、160年以上経てば殆ど朽ちて残っていないように思いますが・・・

誰か私と一緒に、夢のある「ディアナ号の秘宝」調査プロジェクトをやりませんか?(笑)

4.52門の砲門(ディアナ号が残したもの②)

弁天岬台場 砲台が15台あるのが分かる
下田で津波の被害を被ったディアナ号は、傷ついた船体への浸水が酷く、沈没しそうであったため、搭載していた52門の砲門を全部陸揚げしたことを、シリーズ①で書きました。

実は、この砲門、全部幕府がちゃっかり頂いております。

先程お話しました、1856年に条約交換のために再来日したポシェットが、ロシア政府の正式な「ディアナ号の大砲52門あげる」と書かれた文書を持って参りました。

まだ戊辰戦争前ですし、幕府としては、これは大変嬉しい贈り物だったと思います。

その後、これらの52門の砲はどうなったのか?明確には分かりませんが、どうやら函館の新選組最後の地として良く登場する弁天岬台場(右上絵)に据え付けられたという説が有力です。(24門だけという説もある。)

靖国神社にあるディアナ号大砲
あと実は靖国神社に1砲残っていました。(写真右)

明治時代に、弁天岬台場に据え付けられていたものを、靖国神社に寄贈したようです。

一説には英国紋章が刻印されているので、ディアナ号の大砲ではないのでは?というのがあります。

確かにその紋章はこの砲の上部に刻印されていました。
しかし、当時武器製造は、イギリスがかなり強かったので、ロシアがイギリスから輸入したとも考えられると思います。

この大砲も、函館で戦死する土方歳三と一緒にあの函館で、官軍に向けて火を噴いていたのでしょうか?

そう思うと、幕末は本当に色々な人や物が目まぐるしく変遷する時代ですね。

5.おわりに(川路聖謨を想う)

前回のシリーズ②で、この日露交渉に非常に功績のあった人物として、江川太郎左衛門英龍を挙げさせていただきました。

今回は、この交渉全般にあたって活躍した川路聖謨についてのその後を考察したいと思います。

彼は、今回の件で、老中阿部正弘からも重用され、また自分の下田奉行井上信濃守となります。
川路聖謨
そしてこの井上信濃守が、あの米国のタウンゼント・ハリス総領事との日米修好通商条約交渉に当たります。(関係ブログ ~唐人お吉① ~ハリスの介抱~

井上信濃守からも色々と相談を受ける川路聖謨は、阿部正弘・堀田正睦の2老中から、1つ重い仕事を任されます。

それは水戸の徳川斉昭の説得です。斉昭は「ハリスの首を刎ねよ。外圧を払うために百万両を拠出せい。大砲・巨艦を建造する。」という極端な説を述べ、諸外国との条約締結に反対していたのです。

ハリスは、幕府に対して「米国は日本に対する領土的野心は少しも抱いていない。日本が警戒しなければならないのは、アヘン戦争の例にあるようにイギリスである。米国と穏当な通商条約を結べば、他の西洋諸国もこれに倣い、自然に日本は西洋諸国との戦争を回避することが出来る。」
との説明をし、洋学知識に詳しい堀田正睦をはじめ、ロシアからの希求も聞いていた川路も含めた幕閣の多くがこの説に傾倒しはじめていました。

水戸の斉昭は、川路聖謨を人物として高く評価していたらしく、阿部や堀田もそこを見込んで、川路を水戸へ送り込んだのですが、斉昭は説得に来た川路聖謨らに激怒し、説得は失敗に終わります。

そして、老中阿部正弘は死去し、堀田正睦が修好通商条約を米国と結びたいと朝廷に許可を求めましたが、却下されました。

この責任及び将軍家後継者問題の失敗により堀田が失脚すると、井伊直弼が大老となり、もう朝廷の許可は得ないで1858年に日米修好通商条約をさっさと締結してしまいます。

徳川斉昭
すると攘夷派の憤怒の声が蔓延しますが、これを井伊大老は「安政の大獄」で締め付けます。もう強硬にやらんと世界情勢も分からん輩の議論百出には耐えきれんといったところでしょうか?確かに私から見ても、この当時よく勉強し、グローバルな観点からモノを見れる人材は、幕府に多かったように感じます。

ところが、川路聖謨も、井伊大老の安政の大獄の対象者になってしまいます。理由は攘夷派棟梁のような斉昭と懇意であったということです。

川路聖謨は当面は江戸の自屋敷に蟄居、これをきっかけに表舞台からはほぼ消えます。

しかし、彼は、最後はこのような濡れ衣に近い形での蟄居となったにも係わらず、ちっとも幕府を恨むことはありませんでした。

むしろ小吏の子として生まれた自分が、栄進を続け勘定奉行筆頭の座にもついたことは、奇跡という他はなく、すべては将軍家と閣老のおかげであり、その大恩は身に沁みついていました。

彼は、1868年官軍が江戸城を攻めようとしている時、次のように回想するのです。

プチャーチンと談判をおこなった地は江戸とはなれてはいたが、絶え間ない急飛脚の往来で幕閣との連携は固く、それによって談判は着実に推し進められた。江戸城内では、老中、若年寄列座のもとに指令が出され、それはいささかの狂いもなく実行に移された。裃、袴の折目は正しく、その衣ずれの音にも気品があった
(吉村昭「落日の宴」より抜粋)

そして、彼は官軍が江戸に到着する前に、静かな心境の中、割腹し、ピストルで命を絶ちます。享年67歳でした。

戸田岬の先端から見た駿河湾
時代を動かしてきた本物の人物の最期は、本当に言葉に語り尽くせないくらい立派なものですね。そして哀愁があります。

3シリーズの長きに渡り、日露交渉についてお付き合い下さり、ありがとうございました。

執筆中も色々とFacebook等を通じてご教示頂いた方、また激励頂いた方等、多くの方から沢山の情報を頂きましたこと、改めて感謝致します。

それではまた!!

【戸田造船郷土資料博物館】静岡県沼津市戸田2710−1
【三四軒屋緑道公園ディアナ号の錨】静岡県富士市五貫島 三四軒屋緑道公園内
【靖国神社 遊就館】東京都千代田区九段北3−1−1