マイナー・史跡巡り: 幕末の日露交渉② ~ヘダ号の進水~

日曜日

幕末の日露交渉② ~ヘダ号の進水~

前回のブログ、幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~では、地震による津波でボロボロになったロシア軍艦ディアナ号が、ロシア人自ら見つけた良港戸田(へだ)湾へ、改修のために、下田港から向かいましたが、風や潮に流され、戸田をオーバーランした先の富士市近くで座礁、日本の小舟によって曳航されるところまでを描きました。
ついに横倒しとなったディアナ号

今回はその続きです。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.沈没したディアナ号

沢山の小舟によって、戸田湾まで曳航されることになったディアナ号ですが、そのうちの一艘の漕ぎ手が、じっと南の沖合の空を睨んでいたかと思うと、突然、

「綱を切れ!至急退避せよ!」

との指示が曳航する沢山の小舟に対し、次々に伝えられました。

既にプチャーチンは、1.2mもの浸水で、ディアナ号が危険と判断し、乗組員500名をボートで富士市の浜へ上陸させていました。

そして、プチャーチン自身は小舟に同乗して曳航を見守っていたのですが、このいきなりの号令に大変驚きます。

富士市の浜で助けられるロシア人たち
皆、蜘蛛の子を散らすように、ディアナ号への綱を断ち切り、小舟たちが浦々へ逃げ込むのです。プチャーチンらは日本人の真意が呑み込めません。

と、にわかに南から入道雲がモクモクと湧き起り、途端にザァーと天をひっくり返したような雨と、猛烈な強風が吹き荒れました。

浦に逃げ込み、浜からディアナ号をジッと見ていたプチャーチンらは、ディアナ号が風雨に弄ばれ、くるくるとその場で後退しながら廻り、やがて動かなくなると、浪間にその横腹を露呈する様に、嘆息します。

ディアナ号は横倒しになってしまったのです。

ディアナ号を失った失意の中ではありましたが、プチャーチンらロシアの船員は現在の富士市の海岸にて、日本人の温かい対応を受け、心から感謝しました。

この時のディアナ号に乗船していた司祭マホフの航海誌の抜粋を下に記して見ます。

「事実、私たちは見た。だが、この目が信じられぬほどの出来事だった。 私たちの運命を見守るべく、早朝から1000人もの日本の男女が押し寄せてきたのである。彼らは奇特にも束になって浜辺を走り回り、何やら気遣っているようであった。つまり、私たちのボートや無鉄砲な救助隊員のことを心配していたのだ! 日本人たちは、綱に体を結び付けて身構えていた。そして、ボートが岸へ着くやいなやそれを捉え、潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、しっかりと支えてくれたのだ!善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ!この善男善女に永遠の幸あれ。末永く暮らし、そして銘記されよ。~ 500人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人諸氏のものであることを!あなた方のおかげでただ今生き永らえている私たちは、1855年1月4日(日本歴11月28日)の出来事を肝に銘じて忘れないであろう!」
千本松原(沼津)
「幕府は私たちの苦境を憐れみ、即刻心からの同情、特別な配慮、公然の好意を寄せてくれた。首府から派遣された役人たちは遭遇した不幸に同情して、私たちが落ち着けるように世話をしてくれ、乾かしたり暖めたり、食事が取れるように奔走してくれた。毎日、町や村から大勢でやって来る日本人たちは出来る限りの援助をしてくれた。ある人々は大急ぎで囲いの納屋と日除けを作って、私たちが悪天候から避けられるようにしてくれた。また別の人々は上等のござや敷物、毛布や綿入れの着物、それにいろいろな履物を持って来た。米、酒、蜜柑、魚、卵を持参した人もあった。何人かの日本人が目の前で上衣を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷え込んで震えている水兵たちに与えたのは驚くべきことであった・・・・」(高野明、島田陽訳、吉村昭著「落日の宴」等から引用)

2.ヘダ号の造船

さて、ディアナ号を失った彼らではありましたが、沼津の千本松原(右上写真)を歩き、戸田村へ真城(さなぎ)峠等の険しい陸路を通り、移動します。もう海路の移動は嫌だったようです。(右下写真)

富士市側から戸田へ通じる真城峠(491m)
当初江川太郎左衛門英龍伊豆韮山代官(以下江川代官)は、ディアナ号の帆柱が海中にかすかに見えるので、引き上げて、戸田湾で修理することを勧めます。

しかし、プチャーチンらは修理は到底無理なので、十万両の艦は放棄する、ただし20人乗り程度の洋船を戸田村で新造し、母国に迎船を呼びに戻りたいと嘆願します。

幕府側も、今回のディアナ号改修については、単にロシア人を早く退去させたいという思惑以外にも、実は本格的な洋船を西洋人の指導の下で造船することによって、技術力を磨きたいという思惑があったのです。

日本は江戸時代に、軍事利用を怖れた幕府が約30m以上の大きさの船の建設を禁止してしまったのです。造船技術は格段に落ちます。

勿論、幕末には個藩で洋書による研究により、洋式軍船を造船しますが、西洋人指導の下に造った軍船は一つもありませんでした。

今回の洋船造船費用はロシア側が負担、設計図は置いていくという条件です。これは技術を採り入れる千載一遇のチャンスと捉えていたようです。
造船が進められた牛ケ洞

特に江川代官は、あの有名な西洋式の溶鉱炉である韮山反射炉を作ったような人ですから、この方針を強力に推し進めます。

戸田湾の南側、牛ケ洞という場所で、日露共同の様式船の造船が始まりました。(右地図)

ディアナ号から持ち出した設計図を参考に小型の洋船設計図を日露共同で、オランダ語通訳を介して、製作していきます。

日本は和船とすべての点で異なる西洋式帆船の合理性に驚きながら、ロシア人の指示に忠実に従って製作していきます。

製造段階に入ると、ロシア人たちは、日本の船大工の優れた技量に感嘆します。肋骨が竜骨にはめこまれる時にも、それが一分の隙間もなく取り付けられます。かんなをかけると、薄紙のようにかんな屑が出るのにも驚きの声をあげ、また墨壺で糸を貼り、それが正確な線をひくことにも眼をみはっていました。

現在の牛ケ洞(海側から撮影)
このような、造船プロセスを視察に、水戸藩や佐賀藩(鍋島藩)等、過去に文献を頼りに洋船を造船した藩から、続々とこの戸田村へも来訪があり、戸田村は、住民約3000人に加え、ロシア人およそ500人、幕府の役人、視察等の来訪者も含めると、膨大な人数になり、牛ケ洞の辺りはかなりの雑踏となったようです。

日露共同の異様な盛り上がりを見せる戸田村の造船、皆の前向きな協力もあってか、洋船の造船作業は、たったの3か月弱で完了します。ロシア人たちは日本の技術力の高さに感嘆しつつも、帰国の目途が立ったことを大変喜ぶのです。

さて、出来上がった様式船は、右下の写真の通り2本マスト長さ25m、幅7m、60人乗り、80~100tです。

プチャーチンらは、戸田村の人々の温かい支援に対する感謝のしるしとして、この船に「ヘダ号」と名を付けます。(写真右下)
日露合作ヘダ号

3.江川代官の志

この造船の重要な立役者として、今迄も何度も出てきましたが、江川代官が居ることをここで改めて述べます。

彼はディアナ号の戸田回航ならびに曳航、ロシア人の救済、新しい洋船の建造のための手配等に惜しみなく働きます。

ヘダ号は沼津の千本松原を材木として切りだして造られましたが、これらを指示したのも江川代官です。

また、日本の船大工に関して、洋船の造船技術を手に入れられるよう、有能な人材を手配したのも彼です。その船大工の中の上田寅吉等は、後にロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の4隻の艦船を設計する等、江川代官の志を現実のものとしていくのです。

さて、戸田での造船計画も一段落したので、韮山の代官所に戻った彼は、ディアナ号沈没以来の激務が祟ったのか、風邪に掛かって高熱を発します。
江川太郎左衛門英龍

一方、これらの一連の功績があったことで、江戸幕府の勘定奉行兼外国奉行としての引き立てがありました。江川代官は風邪を圧して江戸へ出向します。ところが無理がたたって、とうとう彼は登城不能となってしまいました。

そして、彼は「ヘダ号」が完成する1か月前に不帰の客となってしまいます。55歳でした。

世界遺産となった韮山反射炉や、東京のお台場設計等の海防・黒船対策等、伊豆は韮山という地方にありながら、先見の明を持ち、幕末に大いに活躍した彼が、最後に尽力したもの、それは、ディアナ号とプチャーチンらロシア人救済だったことを思うと、この日露交渉が日本史の中で果たした役割というのは、ペリーによる日米和親条約に決して牽けを取らない、日露双方の人々が本気で助け合った本当の和親の条約であったと思わざるを得ません。

《参考》
※「日本で最初にパンを焼いた?~江川邸と韮山反射炉~」
※「お台場」

4.日露和親条約

では、日露和親条約の条文の交渉自体はどうなったのでしょう。
プチャーチンが起居した戸田の宝泉寺
このような状況でありながらも、下田で条約の交渉は、造船中も続けられます。戸田村から正式な開港場である下田に居るシリーズ①でもお話した川路聖謨の元にプチャーチンは通いました。

右はプチャーチンが起居した戸田の宝泉寺です。

日本人によるディアナ号救出から洋船造船までの対応に深く感謝したプチャーチンらは、これら日本人の功績を皇帝ニコライ1世に伝えることを、再会した交渉の冒頭に述べます。

そして、プチャーチンの紳士然たる態度により、交渉はある意味日本に非常に有利な条件で完了するのです。簡単に以下にまとめます。

①箱館、大阪の開港と通商許可
通商許可の日本側の却下をロシア側が了承。日米和親条約に倣い、箱館、下田の2港以外は現時点では開港せず。但し領事館をどちらかの港に設置可能という付帯条件を付けて決着

②領土境界問題、特に樺太の国境問題
択捉は日本領土、樺太については明確に国境を定めない。但し、「1852年まで日本人ならびに蝦夷アイヌ住居としたる土地を日本の所領とすること」の1項を付け加えることで決着。

これはシリーズ①に述べた黒竜江の河口より以南が日本領ということを実質認めた条約となったようです。

川路聖謨
ところが、プチャーチンのこの全面的な譲歩で締結された日露和親条約、2月25日に締結された直後に、幕府は下田で交渉が完了し、ほっとしている川路聖謨にオーダーを出します。

キリスト教の布教をしないとロシアに約束させるように!

この辺りがやはり組織体の存続しか考えられなかった江戸幕府末期の哀しいところです。

開国に踏み切る一方でキリスト教禁止して何になるのでしょうね?

条約は締結された後ですし、川路も正直このご無体な命令には途方に暮れます。しかし幕命ですから、川路らはプチャーチンにこの条約を追加して欲しいと談判を開始します。

「我々には宗教に関する取り決めをする権限はない」と、この談判を無視していたプチャーチンに対して、川路らは、帰国の条件としようとします。流石にこれにはプチャーチンも激怒し、川路らも引っ込めます。

しかし、最後はプチャーチンも川路らとの友情を重んじ、「ロシアは信仰の自由を認めており、他国人にキリスト教を押し付ける理由は無く、日本に於いても同様である」と記した書簡を川路に送ってくるのです。この辺り、プチャーチンの川路ら現場で苦労している日本側関係者へのやさしい気遣いを感じることが出来ます。

これにて3月5日、日露和親条約は完結するのです。

5.ヘダ号の進水

そして、これら多くの苦労を経た日露交渉の結果と、それこそ日露の和親の想いを乗せた「ヘダ号」は、3月10日に牛ケ洞で進水式を行います。この時の牛ケ洞の様子を描いたのが、下記の絵です。




多くの日本人が見守る中、ロシア人たちの悦びに満ちた表情が分かりますか?

彼らは、試運転を何度か行い、また駿河湾沖で一度フランス軍船に見つけられそうになって、慌てて戸田湾に戻ってきたりします。


しかし、3月23日、プチャーチンは急にヘダ号の帆を上げて、戸田湾をあとに、ロシアに帰国します。


翌日、彼らの急な出帆の報を、下田で聞かされた川路聖謨は、長い期間交渉を繰り返して来たプチャーチンに今後二度と合うことは無いだろうと思うと、大変淋しく想い、戸田の方角である北北西に向かい頭を深く下げるのでした。

6.おわりに

今回で終わりにすると言っていました日露交渉ですが、交渉自体は終わるものの、調査していると、やはり、その後のプチャーチンや、川路聖謨の話、ヘダ号、ディアナ号と、実はまだまだ話をしたいことが沢山出てきました。

そこで、交渉後から現在までのお話を、もう一度だけ外伝として、本ブログに掲載することをお赦し頂ければと存じます。

海水浴やタカアシガニ等の美味しい海産物が有名な戸田では、残念ながら牛ケ洞の碑や宝福寺を見て廻る人も少なく、また今回の調査資料が満載されていた造船郷土博物館ですら、オフシーズンの平日に訪問したせいもありますが、私一人しか居ない状態でした。

そういう私も、小学生から中学1年生まで何度も海水浴等に行った戸田ですが、今回の調査まで、ここまで大きな日露の歴史が埋もれているとは知りませんでした。


多分描けても2回のブログ分で余りが出るのではないかと・・・甘かった(笑)!

語り継いで行きたいですね。こういうマイナー史跡の基にある立派な日本の歴史を。

ご精読ありがとうございました!

【牛ケ洞ヘダ号造船記念碑】静岡県沼津市戸田3956−2
【宝泉寺】 静岡県沼津市戸田449