マイナー・史跡巡り: 唐人お吉② ~お吉の横浜暮らし~

土曜日

唐人お吉② ~お吉の横浜暮らし~

さて、前回は、お吉が病に倒れたハリスの世話をし、彼に近隣からかき集めた牛乳を飲ませ、かつ吐血に対する介抱をして、恢復をしたことを書きました。

前回のブログ唐人お吉①へのリンクはこちら

またそれが、その後のハリスが江戸出府、将軍謁見・親書読み上げ等の大きな仕事をなし、引いては翌年井伊大老による日米修好通商条約の締結、安政の大獄、桜田門の変等の一連の歴史の発端となった訳です。

今回は、その後のお吉の生涯をレポートします。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.横浜でのお吉

ハリスの江戸出府へついていったお吉ですが、江戸に行ってから暫くは、消息を絶ちます。京へ行って芸者になって、討幕派の支援活動をしていたという説もありますが、その間の明確なことは分かっていません。

ところが、明治になったばかりの頃に、急に横浜に現れます。

当時の横浜 吉浜橋
それは江戸期が終わり、当時の新開地横浜に放浪してきたという説が一般的なのですが、もしかしたら鶴松に会いに来たのでは?と私は思っています。

そう、鶴松はこの時、横浜に居たのです。

もともと大工であった鶴松は、お吉がハリスに仕えたお蔭で、一時は武士に取り立てられました。しかし幕府側ですし、明治となってしまうと、にわか武士の彼は士族になれる訳でもなく、元の大工に戻されます。

ちょっと話が寄り道しますが、実は、お吉の父親も愛知県は知多半島の大工でした。

日米和親条約で下田と箱館が開港すると、造船関連の仕事が増えます。そこで、お吉の父親も下田で造船関係の仕事をあてに移り住むこととにしました。

現在の吉浜橋方面
そして、お吉の牛乳&介抱で元気になったハリスは、江戸へ出府し、今度は日米修好通商条約を締結し、横浜、神戸、新潟、箱館、長崎の5港を開港します。

先の条約下で締結した下田は閉港、ハリスは下田の思い出が宜しくなかったのかもしれません。(-_-;)

そこで、今度は横浜の造船が活発になり、彼氏の鶴松が造船関係の仕事をあてに横浜に来たことになります。

という経緯で、お吉は鶴松と10年振りに、横浜は今の元町で、再会します。

今の横浜の元町の吉浜橋という場所に、当時は大きな造船場があり、鶴松はそこで働いていました。(写真右上)

今も元町にある石川屋さん
また今はショッピング等で賑わう横浜の元町ですが、当時は閉港する下田から開港横浜へ移る労働者が多く住む「下田長屋」なるものもあったようで、再会したお吉と鶴松は晴れて夫婦として、この長屋に住むのです。

この長屋近くに「石川屋」という店があり、このおかみさんの口利きで、お吉は髪結の仕事に就きます。この「石川屋」さん、現在も健在です。(右写真)

鶴松は大工、お吉は髪結と、決して裕福ではないですが、二人で幸せな夫婦生活を送れていたようですね。

後でもお話しますが、多分お吉にとっては、横浜暮らしのこの時が、彼女の人生の中で最良の時だったのだろうと思います。

2.下田へ戻る
女将をしていた安直楼

ただ、やはり故郷は懐かしくなるのでしょうか?お吉も鶴吉も4年間、横浜で充実した時間を過ごすと下田へ戻る決意をします。

しかし、これが彼女の破滅となっていきます。戻った当初は、大工の鶴松が下田に家を建て、お吉が、元町で習得した髪結業を始めます。

お吉が結う髪形は、横浜仕込みの当時の最先端だということで、この髪結業も当初は繁盛します。

ところが、お吉の芸者時代を知るかつての知人たちが、お吉を座敷に呼ぶようになります。お吉は、酒に飲まれるタイプだったようで、飲むと酒乱と化して行きます。

一方下田の港が閉められ、鶴松は仕事が減少する閉塞感でストレス、お吉との間は段々こじれて、とうとう別れることになるのです。

3.酒乱お吉
厭世的な世間の見え方
(漫画「聲の形」より)

その後のお吉は、どんどん堕ちていきます。三島に芸者として下田を出ていきました。
一方、鶴松は再婚するも、すぐに病死。

酒癖が悪いお吉は、三島でも上手く行かず、下田に帰ってきます。

そして、下田の漁師仲間から、「安直楼」という小料理屋兼遊女屋の女将を任されます。

しかし、この女将稼業も、長くは続きません。客前で自分で飲んでは悪態を付く彼女に辟易し、客足が遠退き、2年で廃業となります。

これでお吉は自暴自棄になりました。一人朝から酒をあおり、体も心もボロボロに。足腰は立たず、その日の生活にも事欠く有様。
身を投げた稲梓川の場所はお吉ヶ淵と呼ばれる

最近、映画にもなったある人気漫画で、厭世的な10代の主人公男の子から見える世間が、右上のように、皆にが付くのですが、お吉も下田の人々がこのように見えたのでしょうか。

この漫画の主人公は、20歳になるまでに立ち直り、上記が全ての人の顔から取り外されます。

しかし、50代に入るお吉には永遠にが取れることは無かったかもしれません。残念ですが、お吉51歳の時、大雨が降り、増水した稲梓川(下田中心街を流れる川)に身を投げるのです。

当時、嫌われ者の彼女の遺体を引き取る処が無く、なんとか宝福寺というお寺が引き取り、現在お吉のお墓が写真(右下)のようにこのお寺にあります。

4.下田長屋
宝福寺にあるお吉の墓

さて、お吉の生涯の概要は以上です。このシリーズを終わるにあたり、一つマイナー史跡っぽいお話をさせてください。

お吉の横浜での生活が一番幸せだったのではないかと書きました。髪結稼業も上手く行って、お吉が唯一お酒を飲まなかった時だったと言います。鶴松との新婚生活、きっと下田長屋で楽しかったことでしょう。

そもそも、ハリスを牛乳&介抱したことによる、わらしべ長者的連鎖、つまり江戸出府、日米修好通商条約の締結、横浜開港で出来た横浜は、お吉が開いたと言っても過言ではない位(流石に過言ですね)の土地で楽しいはずなのに、どうして閉港した下田に戻って破滅の道を歩いたのか等とブツブツ考えながら、下田長屋を探して、元町から山手方面(上部「当時の吉浜橋」の洋館が見える丘方面)に向かってぶらぶら歩いていました。

ある文献に「吉浜橋で造船盛ん成りし時に、元町には下田長屋、土方(どかた)坂というのがあった」との記載があったので、それらの名前の付いた土地があるだろうと考え現地に来ました。しかし、残念ながら地図に載っていない地名は現地にもありませんでした。

元町側から見た下田長屋の場所(奥が土方坂)
元町についても、それらしい地名も痕跡も見つかれません。石川屋さんや吉浜橋(これはバス停名とパーキング名だけ)はありましたが、下田長屋、土方坂は見つかりません。

とうとう地元の人、何人かに直接聞いてみましたが、皆知らないと言うばかり。一人だけ、「元町の旧家の並びは元々長屋だったという話だよ。」と教えて貰いました。

あ、なるほど、では元町厳島神社のある辺りかな?とそちらへ向かおうと足を向けた途端、何かに、「そちらではなくて、こっち」と元町方向と反対側へ誘導された気がしました。
そして出くわした景色が、右の写真です。奥に坂も見え、これが土方坂、横の家々は下田長屋なんではないか。いや、そうに違いない。と思い、何度もシャッターを切りました。
土方坂から元町方面を臨む
(この辺りお吉の住い)

そこの坂の地名も、下田長屋の痕跡も、現地には全くありません。

そして、一週間後、詳しく調べると、まさにその場所だということが判明しました。 

幸せなお吉の新婚生活を考えている私に、折角だから、今は名も残っていないお吉の住いのあった場所を、お吉が誘導してくれたのかも?

と思っています。それではまた!

【下田長屋】神奈川県横浜市中区元町5丁目222